第二章 4
トロネイは星神教の商人である。
星神教の商人は大陸の各地に散らばり、拠点を持たず、日神教とも月神教とも付き合いを持ってリッテンバウム・エリモスの両国間を自由に行き来して商売する中立の存在である。
星の神、というくらいだから、星神教は他の二つの教えと違い一神教ではない。
よって、その教えも寛容である。
星神教の戒律の一つに、助け合いというものがある。
困っている人間は助けなさいというものだが、トロネイはその戒律を著しく守る傾向が強かった。
街で乞食がいれば財布を丸ごと恵んでやり、道に迷っている人間がいれば背負って運んで案内してやり、そうして難儀している人間を助けては妻にも呆れ果てられているといった始末なのである。
だから、彼の家はいつも拾ってきた犬や猫で溢れているのだ。
彼の助け合いの精神は、人間だけに留まってはいないようである。
「ナイシャ、ナイシャ、手を貸しておくれ」
トロネイがなにやら慌てた様子で帰宅してきたので、妻のナイシャは呆れた様子で台所から出てきた。
「なんだいお前さん。またなにか拾って来たのかい。この前は怪我した貂、その前はおっきな赤犬、その前は……」
「兵隊さんだよ」
トロネイが喘ぎ喘ぎ言ってきたので、ナイシャはびっくりして飛び出した。
見ると、それは頭から血を出し、身体のあちこちを負傷した兵士であったのだ。
「あれまあどうしたこった……」
「いいから、身体を拭くお湯を持ってきておくれ。それから傷の手当てを」
にゃあにゃあと猫が鳴くなかを、トロネイは血だらけの兵士をベッドに寝かせた。ナイシャが慌ててお湯と布を運んで来て、救急箱を持ってきた。
血を拭い、手当てはしたものの、兵士の傷は浅いとはいえなかった。
「お前さん、お医者を呼んだほうがいいんじゃないのかい」
「そうだなあ」
幸い、トロネイの商売はうまくいっている。だからこその慈善である。医師を呼んで、意識の戻らない兵士の具合を診てもらった。
「頭を強く打っていますね。それに、腹を切られている。頭の方は大したことはないだろうが、腹の傷が問題だ。塞がるまで、起きてはいけない」
日に灼けた肌の色からして、この兵士は日神教であろう。動かしてはいけないというのであれば、このままトロネイの家にいさせる他ない。
医者が帰っていって、しばらくして兵士が目覚めた。
「ああ、起きましたね。大丈夫、あなたは安全ですよ」
「ここは……どこだ」
「私の家です。星神教の家ですよ」
「星神教か……」
星神教、と聞いて、兵士は安心したようだった。
「頭を打っているそうですが、大丈夫ですか。名前は言えますか」
「名は……アオラだ」
「故郷は言えますか」
「エリモスの、城下の、東一区だ」
「なら、ひとまず平気のようですね。でも、お腹を刺されていて、当分は動けないようです。絶対安静ですよ。明日またお医者さんが来ますから」
「そうか、かたじけない」
アオラは行儀よくそう言うと、動けないながらにも会釈してトロネイに感謝の意を表した。
そして、
「西はどっちだ」
とトロネイに尋ねると、
「拝礼をしたい」
と言い出した。
「それはだめです。起き上がるのもいけないのに、拝礼だなんて」
「しかし、戒律が」
「いけません。傷が開いてしまいます」
「だが」
「だめですよ」
「いやしかし」
「こうしましょう。西に向かって、拝礼の文句を唱えるのです。それで拝礼したことになるでしょう。起き上がれないあなたが無理をして拝礼をしたところで、太陽神はお喜びにはなりません。どうです?」
「む……ではそれで」
というわけで、トロネイは西の方向をアオラに教えてやり、彼は西の方向に向かって拝礼の文句を唱えてそれで拝礼とした。
アオラの傷は深く、傷が疼いて彼は夜中に何度もうなされた。
「ナイシャ、アオラさんはゆうべなかなか眠れなかったようだね」
「そうね。あんなに血がいっぱい出ていたから、そりゃ痛いんだろうね」
そんなことを夫婦で話して、犬と猫にえさをやり、今日も商売に励みましょうとトロネイが出て行って、一日が終わろうとしていた時のことである。
「おーいちょっと来てくれ」
日暮れ近くになって、ナイシャはまたも夫の声に呼び出されることになった。
「なんだいお前さん、また拾い物かい。いい加減にして……」
と玄関に出てみれば、今度は夫は金髪の男を抱えていたのである。
「お、お前さ……」
「話はあとあと。怪我人だ。お医者を呼んでくれ。あと、お湯だよ」
と急きたてられて、ナイシャは慌てて台所に飛んでいき、布とお湯を用意し、救急箱を取りに行き、その足で医師を呼びにいった。
「また怪我人かね。まあ私はいいが、トロネイさん、あんたも物好きだね」
今度の怪我人は胸と肩に刺し傷があるという。こちらも、絶対安静だという。
意識のないその金髪の男を見て、ナイシャは夫に尋ねた。
「お前さん、どうするんだい」
「うん?」
「うちにお客用のベッドは二つしかないんだよ」
「うん」
「その内の一つはアオラさんが使ってて、もう一つはアオラさんの隣のベッドなんだよ」「うん」
「このひと、どう考えたって北方人だよ」
「うん」
「北方人っていったら、月神教だろ」
「うん」
「日神教のアオラさんと隣のベッドじゃ、まずいんじゃないのかね」
「うん」
「うんしか言えないのかね、この唐変木は」
「うん」
トロネイはなにかを考えているようで、その実なにも考えいないようで、ナイシャの質問にはいっさい答えず、そそくさとそこからいなくなってしまうと、次の日はさっさと仕事に出かけて行ってしまった。
ナイシャはため息をついて、この金髪の男が目覚めるのを待った。アオラは起き上がれなかったから、なんとか誤魔化すことができた。
四日も経つと、金髪の男は意識を取り戻した。
「ああよかった。あんた、名前は言えるかね」
「……俺か。俺は、イアンだ」
「イアンさん。故郷はどこだね」
「リッテンバウムだ」
「それだけ言えれば、大丈夫だ」
しかしそれを聞いていたアオラが黙ってはいなかった。彼は腹から血を出しながら、
「リッテンバウムだと!?」
ガチャン、という音がして、彼が無理に起き上がったのが音でわかった。トロネイは彼のベッドの近くまで行って、慌ててアオラを止めた。
「アオラさん、だめですよ起き上がったりしちゃ」
「月神教か。月神教の兵士だな。同胞を大勢殺しておいて、こんなところでよくものうのうと寝ていられるものだな!」
イアンも、それを聞いて胸から血を出して起き上がった。
「日神教の男が、こんなところでなにをしている。ここで会ったのがいい頃合いだ。いざ殺してくれる」
と、今にも飛びかからんばかりの勢いでベッドから出ようとしているのである。
ナイシャが悲鳴を上げてそれを止め、グラスが割れ、猫があちこちに逃げ惑い、犬が泣きわめき、室内は大混乱の有り様となった。
「待って待って待ってください。お二人とも。ここはあたしの家です。あたしに権利があるんです。ここはひとつ、あたしの顔を立てると思って、引き下がってくださいよ」
トロネイはそう言ってまずアオラに言った。
「アオラさん、あなたはあたしが拾ってきた。あなたはあたしに恩があると言ったら言いすぎかもしれないが、あたしが困るようなことはしなさらないお人だ。お願いしますよ」
む、と、アオラが振り上げた拳を下げた。
そしてトロネイは、次にイアンに向き直った。
「イアンさん、あなたも同じだ。あなたはあたしが助けたお人だ。月神教の方は、他人が困ることをしなさるのかね」
うむ、とイアンが唸る。
場がしーんとなった。
ナイシャがぶつぶつと言いながら、割れたグラスを片づけている。
「よろしい。いいですか、お互い、喧嘩はしない。お互いの戒律には口出ししない。ベッドのこっちからこっち、ここからここには出ないようにすること。いいですね。ねっ」
「あーあーあんた方、血が出てしまったじゃないですか。お医者を呼ばなくちゃならないねえ。まったくもう」
ナイシャが大袈裟に声を上げ、アオラとイアンは互いにそっぽをむいた。
医者が呼ばれ、無理をして起き上がった怪我人は大声で叱られた。
二人とも、しばらくは絶対安静を言いつけられ、これで当分トロネイ家は静かになりそうである。
夜になると、客間からは客人がうなされている声が聞こえてきた。
それはアオラのものなのかイアンのものなのか、どちらのものなのかはよくわからぬ。 傷が疼いているのか、それとも戦場での悪夢のせいなのかも、よくわからぬ。
しかしその声は毎晩続き、一方がうなされると一方が止み、また一方がうなされるともう一方が止むといった具合で、そうして日々が過ぎていくといった具合であった。
同じ室内にいながらにして、アオラとイアンは一言も口を利かないて一日を過ごすという日々を送っていた。
そうしていく内に、アオラはベッドの上には起き上がれるくらいにはなっていた。
医師の往診の際、彼は尋ねた。
「拝礼はできるか」
「うーん、まあ、無理はしないという約束ができるのなら」
「それは有り難い」
「ただし、ベッドの上でですよ」
と、厳命されて、アオラはその日から一日に二回の拝礼を行うようになった。
東にむかって拝礼、西にむかって拝礼。
それを見て、イアンが吐き捨てるように呟いた。
「ふん、くだらぬ」
それを聞いて、アオラの耳がぴくりと動いた。
「なんだと?」
「日が昇り沈むのは自然の摂理だ。それにいちいち拝礼なんぞするのは、時間の無駄だ」「なにをっ」
「それに、太陽は季節によって日が昇るのも日没も時間が変わる。非効率的だ」
「貴様……」
アオラは立ち上がって、イアンの胸倉を掴もうとした。
それを聞きつけて、トロネイが飛んできた。
「お待ちくださいお二人とも。お互いの戒律には口を出さない、という約束ですよ。
穏便に、穏便に」
間に入られて、アオラは仕方なく引き下がった。
「ふん」
「ふん」
イアンも、気に入らないようである。
次の日からイアンも起き上がれるようになって、彼はトロネイに頼み事をした。
「トロネイ殿、香炉があったら頼まれてくれないだろうか」
「はいはい、準備いたしますよ」
星神教で商人のトロネイは、なにもかもわかっているようである。日神教のアオラはそれがなんだかわからず、見守るだけに到った。
翌晩、イアンはトロネイが用意した香炉に香を焚きしめ、窓を開けて風を入れた。
「なんだ? 窓を開けるな。寒いぞ」
「ああ、すまない。今日は三日月なんだ」
「だからなんだ」
「三日月の香を焚いたんだ」
アオラは彼を振り返った。意味が分からない。
「俺たちは、月の形に合わせてその香を香炉で焚き、窓を開けて月に捧げる」
「なぜそんなことをする」
「それが教えだ」
「そんなもの」
アオラは鼻で嗤った。
「拝礼よりも、よほど非効率的だ。月の形に合わせるといったら、ほぼ半月はそうしなければならないではないか。冬など、夜中になる。それに、寒いではないか。馬鹿馬鹿しい」
「馬鹿馬鹿しいとはなんだ」
イアンはむっとなって、アオラに向き直った。
「下らなく聞こえても、それが我々の戒律だ。開闢以来の教えなんだ」
「だからなんだ。とてもではないが、機能的ではない。合理性に欠ける」
「合理性でいえば、そちらの拝礼だってそうだろう。太陽にむかって拝礼することの、どこが合理的なんだ」
「なんだと」
「なにをっ」
二人は怒鳴り合い、掴み合いになった。猫が毛を逆立て、犬がわんわんと鳴き、トロネイが走って来た。
「またですかお二人とも。次、やったら出て行っていただきますよ。まだ治っていないでしょう。出て行くわけにはいかないんですよ」
ふん、と言い合って、その場で腕を放した。
それからは、互いにまた、話すことはおろか、顔を見ることも、相手の戒律に首を突っ込むこともなく、日々を過ごした。
ちょっと動けばたちまち傷は痛み、まだ予断は許さなかったから、掴み合いにでもなれば傷口は開き血が溢れることは必定であった。
アオラはともかく、異国の、敵国にいるイアンにとっては、それは死刑宣告にも等しかった。
だから二人はおとなしく毎日をやり過ごしていたのである。
「さあさあ、お食事の時間ですよ」
ある日トロネイが食べ物を運んで来て、昼食となった。
「アオラさんには豚肉と野菜の炒め物、イアンさんには牛肉の煮つけです」
アオラは不思議に思った。なぜ、同じものを出さない。怪我人が二人ならば、料理も同じものを出せば、手間もかかるまい。なぜそんなことをわざわざするのだ。
珍しそうにアオラがイアンが煮つけを食べる様を見るのに、彼が気づいた。
「……なにをじろじろ見ている」
「なぜ、同じものを食べない。なぜトロネイ殿は俺と同じものをお前に出さないのだ」
「それが俺の戒律だからだ」
「なに……」
「月神教の戒律では、豚は食べられないことになっている。だからだ」
そんなことは、知らなかった。
その日から、注意深くイアンのことを観察していると、色々なことがわかってきた。
月神教は新月の夜には夜更かしをしないこと、満月の晩には月の姿を水に映しその水を汲んで花を活けること、貝や蛸などの鱗のない魚介は食べないこと、香を焚くのは上弦の月の時のみだということ。
そういったことがわかってくると、異教だと思っていた月神教は単なる隣人であり、無知であることが単なる偏見に繋がっていただけであるということが理解できた。
またイアンも、アオラと生活を共にしていくにつれ、太陽にむかって拝礼をすることが規則正しい生活に繋がるということがわかってきて、ひいてはそれが一日の生活の主体となることが把握できるようになってきた。
太陽を主神として崇めるのなら、それが姿を現わし、また姿を消す時に拝礼をすることこそが敬意の表し方としてもっともな形というものであろう。
それは、野蛮でも悪魔的なものでもない、人間そのものの姿といえた。
ようやく立ち歩けるようになってきたアオラは、ある日杖をついて辺りを散歩に行った。
少し無理をしたせいか、額に汗が浮かんでいる。トロネイの家に近づいた頃、見慣れた医師の姿がトロネイ家の玄関から出て行くのが見られた。
「トロネイ殿」
「ああアオラさん。おかえりなさい」
「医者が帰られたようだが」
「ええ。イアンさんがもう歩いてもいいというので、その往診ですよ」
「奴はどうしている」
「お国に、リッテンバウムにお発ちになりましたよ」
「なに……」
アオラは驚きに目を見開いた。
「彼にとっては、ここは安全な場所とはいえません。動けるようになったら、一日も早く帰国するのがいいのでしょうね」
「……そうか」
なにか、胸に穴が開いたような気持ちになった。
その正体がなにかまではよくわからず、アオラは部屋へ戻った。イアンの使っていたベッドは、きれいに整えられていた。持ち主が使っていた気配は、微塵も感じられなかった。
「……」
それを見つめ、アオラはどこか空虚なものを胸に抱えて窓の外を見た。日没がせまり、拝礼の時間になっている。隣のベッドの枕元には、持ち主が昨日まで使っていた香炉が置かれていた。
確か、今日は上弦の二日月だ。
今夜は窓を開けて香でも焚くかと、アオラはそんなことを考えながら拝礼の支度をしていた。
夕闇がやってこようとしている。
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