第二章 3

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 傷を負い、足を引きずって、マイエルはどうにか家を探していた。

 肩からは、夥しく出血している。まずいな。痕を辿って、日神教の兵士が追ってくる。 丘を行くと、灯かりがあった。

 いいぞ、あれだ。

 扉を乱暴に開けて、なかに入った。

「なにか食い物を出せ。手当てをしろ」

 なかには、男が一人いた。彼は立ち上がって、眼鏡を上げた。

「君は、怪我人かね。月神教か」

「俺を知ってるか。先月の海の上の船を沈没させたのは俺だ。命が惜しけりゃ、食い物だ」

 男の顔色が、少し変わった。

「ここに寝なさい。私は医者だ」

「そりゃいい。俺を治せ」

 そう言って、ベッドに横になった。男は肩の傷口を見て、眉を寄せた。

「これはひどい。誰にやられたね」

「あんたのところの兵士だ。じきに追ってくるだろう」

「それはいけない。隠れなさい。こっちだ」

 そう言うと、男は箪笥を開けてマイエルを助け起こし、彼をそこのなかに入れた。

 外から騒がしい声が聞こえてきて、どたばたと足音がやってきた。兵士が数人入ってきて、

「失礼、月神教の男がここにやってきませんでしたかな」

 と男に尋ねた。

「ああ、確かに来ましたよ。私は医者なので、手当てをしました。彼はあちらの方に逃げていきましたよ」

 と、男は南の方向を指差した。

「それはどうも」

 と兵士たちは会釈して、出ていった。

「さあもういいですよ」

 箪笥を開けると、男はマイエルを出してまたベッドに寝かせた。そして彼を処置し始めた。

「まず、肩を消毒しないと。縫います」

 てきぱきと消毒作業を始める男の姿を見ながら、マイエルは男をじろじろと見ていた。「あんた……なんで俺をあいつらから庇った」

 日神教は悪魔。

 そう聞いていた。俺はその悪魔を殺しに、ここまでやってきていた。

「兵士たちに見つかっていたら、あなたは殺されていたでしょう。医者として、それは見過ごせないのでね」

 針と糸を両手に持って、男は言った。

「生憎、麻酔を切らしているんです。ちょっと痛いですよ」

 そう言って、男はマイエルの肩を縫い始めた。マイエルは持っていた布をぐっと噛みしめて、叫び声を出さないように我慢していた。

 男は、ラナンと名乗った。

 ラナンはマイエルの足の傷も診てくれて、杖を出して彼が歩けるようにしてくれた。

「あちこちで日神教の人間を殺してきたようですね」

「ああ。日神教の人間を殺すなんてなんでもねえ。あいつらは悪魔だ。悪魔を殺すなんて虫を殺すようなもんだ」

「では私も殺しますか」

「あんたはだめだ。あんたを殺したら俺は治らねえ」

 マイエルはからからと笑って、ナイフを手で弄んだ。

 元々、捨て子だった自分はあちこちを転々としてきた。日神教は憎い、日神教は悪魔、そう聞かされて、言われるがままに船を一艘沈めた。良心など、痛まなかった。

 ただ悪魔が大勢死んだだけ、そう思っていた。

 朝起きると、ラナンは大抵もう支度していて、朝食をマイエルの分まで作ってくれていた。肩が痛いし、足もまだ動かすことができないので、マイエルは起き上がることができない。

 よって、食事はベッドで取ることになった。

「どうぞ、食べものは私が運びます」

「そいつはありがてえな」

 そうして昼食、夕食と食べていると、日没になってラナンは外へ出て行き、なにかをしているようである。

「なにをしに行く」

「拝礼です。太陽神へ」

 ああそうか、とその時思った。

「あんた、日神教だったな」

 ええ、とラナンは無表情のまま言う。日神教は悪魔、日神教はすべて殺せ。憎い相手はみな殺せ。そう教え込まれたのに、なぜ目の前のこの男にはそうしない。

 自分を助けてくれたからか。衣食を共にしているからか。

「憎いですか、私が」

 スープを食べながら、ラナンが相変わらずの無表情で尋ねる。

「へっ、そんなこたねえよ」

「そうですか」

 ではおやすみなさい、と食器を片づけて、ラナンが台所へ行ってしまった。

 ラナンは、エリモスという国の色々な伝承を話してくれた。

 遠い海のむこうの大陸の話。

 砂嵐の話。

 砂の地に咲く花の話。

 黒髪の王女と神官の恋の話。

 くろがね諸島の海神の話。

 砂漠の美しい光景を見ながら、異国の話を聞くのはなんとも楽しいことだった。

 歩く練習をしながら、それらの話を楽しみにした。

 肩の傷も治ってきていた。

 しかし、日神教の兵士は時々やってきて、逃亡したマイエルの行方を探しているとラナンに聞いてきた。

 ひと月もするとマイエルの傷はすっかりよくなって、彼は歩けるようになっていた。

 ある日、彼は何気なくラナンに尋ねた。

「家族はいないのかい」

 すると、彼はこうこたえた。

「いましたよ。愛する妻と子供が」

「どうしたんだい」

「死んでしまいました」

「なんで」

「船が沈んで。先月」

 それを聞いて、マイエルの全身に衝撃が走った。

 先月船が沈んだのは、一件だけだ。

 その船は、俺が沈めた。

 ――俺が殺したんだ。

「な……なんで」

 なんで、俺を助けた。

 言葉にならなかった。

 ラナンは悲しそうに微笑した。

「私は医者です。傷ついたひとを見捨てるわけにはいかない」

「それで……それで俺を助けたっていうのか」

 ラナンはもう、こたえなかった。

 顔をあちらに背けて、なにも言わなかった。

 マイエルはふらふらと彼の側に歩み寄って、どうしたらいいのか、どう償えばいいのかを尋ねようと縋りつこうとした。

 後悔、という言葉が、生まれて初めて彼の脳裏に浮かんでいた。

 つ、と涙が一筋流れると、もう止まらなくなった。マイエルは号泣して、ラナンに詰め寄った。

「俺は、俺はどうすればいいんだ」

「どうもしないでください。あなたはあなたのなすべきことをしたまでです」

「そんなことはない。俺は、俺は人殺しだ」

 トントン、と扉がノックされた。

 二人ははっとしてそちらを振り返った。

 日神教の兵士が、またやってきていた。

「先日逃亡した兵士のことでお尋ねしたいことがありまして」

 マイエルは泣きながらラナンに取り縋った。

「俺を、俺を付きだしてくれ」

「そうはいきません。あなたが殺されてしまう」

 ラナンは静かに言うと、窓に近寄った。そして窓を開け、彼に言った。

「さあ、ここから逃げて」

 風がさわ、と吹き込んで、マイエルの涙が一瞬乾いた。

「あ、あんた……」

「逃げなさい。あなたが殺されては、私がせっかく助けた命が無駄になってしまう」

 さあ早く、と背中を押され、押し出されて、マイエルはとうとうそこから逃げ出した。 ラナンは彼の姿が闇のなかに消えていったのを確かめてから、玄関に行って扉を開けた。「やあ、こんばんは。先日逃亡した兵士についてお伺いしたいことがございまして」

「いえ、生憎こちらでは見ていません。治療はしましたが、その後は姿はいっさいわかりませんね」

「そうですか。ご協力ありがとうございました。では失礼します」

 そう言って、兵士たちは帰っていった。

 それを見送って、ラナンは静かに扉を閉めた。

 あとは夕闇がせまるのみである。

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