第二章 1
1
風が、髪をなびかせる。
故郷にはない、慣れない乾いた風が。
「ここに来て、もうどれくらいだ」
グラシュアは傍らにいた弟に尋ねた。銀髪がまた、風に揺れる。
「二か月かな。ここは暑いね」
キミエルはそうこたえると水を一口飲んだ。
「くそっ、水がなんとなくしょっぱいんだよな。海が近いからかな」
「気のせいだろう。それより、合図が来たぞ」
次はグラシュアが出る番だ。彼は剣を帯革に差して、天幕から出ていった。
リッテンバウムから戦に出てきて、もうそんなに経つのか。弟の言葉を思い出しながら、馬に乗る。
王家の一員として戦いに参じるとはいえ、人を殺すことが気が重かった。
相手は日神教だ、と言われても、人は人だ。そう簡単に割り切れるものではない。
角笛が吹かれて、馬が走り出す。側近と共に剣を振るっていると、敵方に目立つ影があるのが見えた。
――あれはなんだ。
女だ。
女が戦場で、一体なにを。
黒い、ゆるくウェーブした髪をゆらめかして、一心不乱に剣を振るい、味方を鼓舞し、こちらの兵を次々に倒す有り様はまるで戦の女神である。
その恐ろしくも美しい様子に、グラシュアの目は釘づけになった。
なんだあの女は。なぜあんなに、生き生きとしている。なぜあんなに、美しいのだ。
あれは、日神教の女だ。
――王家の紋章をつけている。
「王子、引きます」
側近の叫び声で、グラシュアははっとした。そして馬首を味方の陣の方向へ返すと、そちらの方向へ走らせた。
しかし、頭のなかはあの戦いの女神のような女のことでいっぱいだった。
夜になり、食事の時間になっても眠る時間になっても、あの女のことが頭から離れない。 剣を振るい、叫び、手綱を引き、味方を鼓舞するその姿が瞼に焼きついている。
横になり、目を瞑っても、考えるのはあの女のことばかりだ。
「くそっ」
グラシュアは仕方なしに起き上がって、そっと天幕を抜け出した。そして服を着替えると、馬に乗って敵陣まで乗りつけた。
敵方では、兵士たちが自分たちの服を洗濯している。乾かしているそれらを一枚拝借することなど、どうということはなかった。
それを着てフードを被り、こそこそと天幕と天幕の間を行く。目指すは、王女のそれだ。
そっとなかの気配を窺うと、小間使いが出て行くようである。
隙間からなかを覗いてみると、まさに昼間戦場で見たあの女である。どうやら、湯あみの真っ最中のようだ。
「ユリア? 身体を拭くものを持ってきてくれたの。そこに置いておいて」
なかにそっと入り、背中から近寄る。彼女はまだ、グラシュアに気づいていない。
「ユリ……」
「声を出さないで。俺は怪しい者じゃない。君の名前を教えて」
彼女が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「……誰?」
「俺はヨシュア。君の名前は?」
「――アミラよ」
黒い、新月の夜のような瞳がこちらをじっと見ている。そこに、恐怖はない。
「なにしに来たの。誰かに見られたら大変よ」
「君に会いに来た。名前を知りたくて」
「……それだけ?」
「それだけ」
グラシュアはそっと浴槽から離れて、天幕を出ていった。そして、一目散に馬を繋いである場所まで走った。
アミラか。
まるで、背中に翼でも生えたような心持ちになった。
次の日、戦場でアミラを探した。
彼女は、すぐに見つかった。どこにいても、すぐにわかった。どんな怒号のなかでも、あの涼やかな声はすぐに聞き分けられた。
「兄さん、最近なんだかぼーっとしてるみたい。なにかあったの?」
「なんでもないよ」
キミエルがなにかに気がついてそう尋ねるが、言えたものではない。日神教の女に恋したなど、しかもそれが敵方の王女などと知られたら一体どうなるかは、わかりきったことだ。
ある日戦場で、アミラがこちらに気がついた。
彼女も、グラシュアを見つめていた。
その瞬間、二人は戦場にはいなかった。
怒号も、血飛沫も、味方を鼓舞する叫びも、なにもかも消えて、辺りが真っ暗になって、お互い相手だけが見えているような感覚に陥った。身体が熱くなって、芯からとろけるような、痺れるような気分になった。
それでもうどうしようもなくたまらなくなって、グラシュアはまた敵陣に忍び込んでいった。
アミラは、彼を待ち構えていた。
「来たのね」
「来た。君に会いに来た」
「誰かに見つかったら殺されるわ」
「それを覚悟して来た」
グラシュアはアミラを掻き抱いて、その柔らかい髪に顔を
「ずっとこうしたかった」
アミラは彼を引き剥がして、肩を掴んで言った。
「私たち、敵同士なのよ。もう行って。じき人が来る」
「また明日来るよ」
「ここはだめよ。人目があるから」
「じゃあどこで?」
アミラはもどかしげに爪を噛んで、そして次の瞬間思い出したように言った。
「北に少し行くと、オアシスがあるわ。そこで十の刻に会いましょう。合言葉を決めておいて」
「合言葉?」
「そう。相手を間違えないように」
そうしてその言葉を決めておいて、その時間に会うと約束して、その晩は別れた。
待っていると、なぜ時というものは遅々として進まないのか。
もどかしい思いで日中を過ごし、戦場ではなるべく彼女を避けて戦った。
そしていよいよ、夜になった。
そっと寝床を抜け出して、言われた場所に行った。
オアシスには何度か来たことがあったが、この時間に来るのは初めてだった。ふと、あちらの方に人影が差した。思わず声をかけようとして、自分たちの立場を思い返す。
いけない、もし知らない誰かに見咎められたら、大変なことになる。
ごく、と唾を飲んだ。
「か、枯れ井戸の底には」
と呼びかけると、その人影はフードのむこうからそっとこたえた。
「蜥蜴が眠る」
ほっと息をつく。人影が、フードをよけた。
「アミラ」
「グラシュア」
アミラが抱きついてきた。
「よかった、ちゃんとここがわかったのね」
「すぐにわかったよ」
泉のほとりに座り、もどかしげに手を繋いだ。
そして、時を忘れて話をした。
お互いに、相手のことをなにも知らなかった。
色々なことを話した。家族のこと、故郷のこと、好きな食べ物のこと、互いの戒律のこと。
「弟と妹がいるんだ。キミエルと、アリスタっていう」
「やっぱり二人とも銀髪なの?」
「北方ではみんな、髪は銀か金が多いんだよ。黒髪もいるけど、少数だ。王家は代々、銀髪だ。名前も、シルバーストーンだ」
「うちは黒髪って決まってるみたい。兄も弟も黒髪よ。金の髪はまずいないわね。銀髪も。 エリモスでそんな髪のひとがいたら、まず北方人ってばれちゃうわ」
「それに、リッテンバウムはここみたいにこんなに暑くない。夏でも長袖だし、大抵暖炉に火が入ってる」
「夏でも火を焚くの?」
「そうだよ」
「エリモスでは、火を焚くのは冬の一等寒い日くらいよ。雪も降ることは降るけど、ちらつく程度ね。積もったりしないわ」
「リッテンバウムでは、冬は膝のあたりまで雪が積もる。毛皮を着て表に出るんだ」
「そんなの、想像もできないわ」
「雪はきれいだよ。君にも見せてあげたい」
「きれいなものはここにもあるわ。砂漠に、海に、空」
それに、アミタ。
じっと砂漠を見つめるその横顔に、グラシュアは見惚れていた。それに気づいて、アミタが彼を見た。
「なに?」
「いや、なんでもない」
慌てて目をそらして、彼は言った。
「日神教のことを教えてよ」
「そうね。夜明けと共に目覚めて、太陽に拝礼するわ。そして、日没に太陽に拝礼するの。 太陽神の曜日に礼拝する。それくらいね」
「それだけ?」
「そうね」
「食べ物の戒律はないの」
「むやみに食べ物を粗末にしないとか、暴飲暴食をしないとか、そういうのはあるわ」
あなたは? と言われ、グラシュアは月神教の食べ物の戒律を説明した。
「厳しいのね」
「そうだね。でも、厳しいなかにも、理に適っているんだ」
「どういうこと?」
「豚を食べないのは、まだ衛生面がよくない時代の名残りだと言われているんだ。豚は反芻しないからね」
「鳥や蹄がない生き物は?」
「それはよくわからない」
「なあんだ」
アミタが笑った。そのはじけるような笑顔に、グラシュアの胸が射抜かれた。
そうだよ。君は戦っていてもきれいだけど、やっぱり笑っているのが一番いい。
遠くで、夜半を告げる鐘が鳴った。
アミタが顔を上げた。
「いけない。行かなくちゃ」
彼女は立ち上がった。その手に触れて、グラシュアは聞いた。
「また会える?」
「多分、その内」
「どうやったら会える?」
「会える日は、戦場で白い布を手につけているわ。そしたらここで、同じ時刻に」
そうしてこの日は別れた。
会える日はそう多くはなかったが、逢瀬は続けられた。
ある日は手を握り、ある日はくちづけを交わし、ある日は笑い合って、そうして時を重ねていった。
そうする内に、ふた月が過ぎて行こうとしていた。
しかし、そうして抜け出していく内に、グラシュアを見咎める者がいた。
弟である。
「兄さん、ここのところ、どこへ行ってるの」
「キミエル……」
ある日天幕を出て行こうとして、グラシュアの目の前にキミエルが立ちはだかった。
「こんな時間に、人目を忍んで。女だね」
「――それは」
キミエルの目が、吊り上がっている。いつも兄に引っ付いているキミエル、兄が好きで好きでたまらないキミエル、そのキミエルの存在を忘れていた。
「お前には関係ない」
「どこに行こうっていうのさ」
振り切って行こうとすると、弟はついてくる。
「ここにいろ。ついてくるな」
「待ってよ」
グラシュアは焦って、キミエルを引き離そうとして走った。アミタはいつもの場所で、彼を待っている。
なんとかキミエルを撒いて、馬を走らせた。
「アミタ」
息を切らせてオアシスへ行くと、彼女は既にやってきていた。
「どうしたの。顔色が悪いわ」
「弟にばれそうになった。撒いてきた」
「そう……」
アミタは悲しげに瞳を伏せて、言葉少なにうつむいた。
「こんな生活、いつまでも続けていられるわけないものね」
それを聞いて、グラシュアはかっとなった。
「そんなことはない」
「え……?」
「二人で逃げよう」
「逃げるって、どこに?」
「海のむこうには、大陸がある。俺たち二人のことを知らない、日神教も月神教もない国へ行って、二人でひっそりと暮らそう」
「でも」
「でも?」
「あなたは第一王子でしょ。王位はどうするの」
「弟がいる。どうにでもなる」
「それでいいの」
「いい」
グラシュアはきっぱりと言った。アミタはなにかを諦めたような顔になって、ちょっとだけうつむいて、
「……わかったわ」
とだけ言った。
「ついてきてくれるかい」
「うん。一緒に行く」
グラシュアはアミタをきつく抱き締めて、それからそっとその唇に自分のそれを重ねた。「次の新月の夜、ここで落ち合おう。待ってるよ」
「ええ」
そうして別れていった。
しかし、若い娘は恋をすると途端に美しく変化するものである。それに、挙動がそわそわしていく。
家人が気がつかぬはずがない。
アミタの場合、兄のサミュエルがそれに気づいた。
「アミタ、お前最近どうしたんだ」
「え?」
「誰か、好いた男でもいるのか」
「なあにいきなり」
「いや、どうもここのところきれいになったから」
「やあね。そんなことないわよ」
「そうか?」
「そうよ」
「そうか」
次の新月までは、グラシュアには会えない。それまで、二週間。なんとかして、誤魔化さなくては。
それにしても、その二週間のなんと長いことだろう。日が経つのが、なんと苦痛なことだろう。ああ、早くあのひとに会いたい。鐘よ、早く鳴れ。砂時計よ、早く落ちろ。
風よ、私をあのひとの元まで運んでいって。早く会いたいと、あのひとに伝えて。
正に一日千秋の思いで、アミタはその日を待ち望んだ。時は遅々として進まず、戦場にも行くことはなく、弟に任せて部屋に籠った。
それが、兄の不審を益々煽った。
新月のその晩、アミタが人目を忍んで出て行くのを、兄はそっと尾けていった。あんな荷物を持って出て行くのは、どうにもおかしいと思ってからであった。
一方のグラシュアも、相当の用心をしてオアシスへ出てきていた。なにしろ、キミエルはあの日以来、兄に引っ付いて離れようとせず、寝床までやって来る始末であったからだ。 彼の酒に眠り薬を仕込み、グラシュアはこっそりと天幕を抜け出して、約束の夜半にオアシスにやってきた。
そして愛しい恋人と落ち合うと、用意した馬に乗り海に向かって逃げ出そうとした時のことである。
それを見咎め、呼び止めた者がいた。
アミタの兄であった。
「アミタ」
アミタはぎくりとして振り向き、声の主を知って絶望のあまり青くなった。
「――兄さん」
「どこへ行く。いや、そんなことはいい。それは誰だ。北方人だな。月神教の人間か」
「こ、これは」
「兄さん? アミタの兄さん?」
「待って兄さん。話を聞いて」
「お前は誰だ。その銀髪、よもや敵方の王家の人間ではあるまいな」
「ち、違う」
「違わない。逃げも隠れもしないぞ。俺は王家の人間だ」
そこへ、別の第三者がやってきた。
「兄さん? なにをしているの?」
「キミエル? なんでここに来た?」
グラシュアの弟キミエルが、兄を追ってやってきたのである。
「この女だれ? この荷物はなに? どこに行くの?」
「お前たちみな月神教だな。兄弟共々成敗してくれる」
サミュエルは混乱するその場を制するように剣を抜き、グラシュアとキミエルに向かって突進してきた。咄嗟のことに、グラシュアは思わず抜刀した。
「やめて兄さん」
アミタは、その間に立ちはだかった。
突然のことだった。
サミュエルは、それをよけることができなかった。
アミタは、兄の剣によって貫かれてしまったのである。
「あ……グラシュア」
「アミタ……しっかりしてくれ」
「アミタ……なんてことだ」
「兄さん……なんで兄さんが日神教の女なんかと」
キミエルが剣を抜いて、サミュエルに立ち向かっていった。
「やめろキミエル」
「こんな女のために兄さんが泣くなんて」
「やめろ」
妹を刺し、殺してしまったがために混乱から抜け出せないサミュエル、兄を異教の女に奪われた悔しさに泣くキミエル、恋人を失った悲しみに咽ぶグラシュア、それぞれがそれぞれの事情を抱えたまま、斬り合いが始まった。
場は乱雑に乱れ、混沌とし、数時間にも及ぶ戦いののち、生き残った者は誰もいなかった。
日が昇る頃、拝礼の時間になっても起きて来ないサミュエルとアミタを不思議に思った家人が二人を探し始め、やがて捜索の手が伸びた。
月神教の王子二人も、同じように探された。
そうして、血の海となったオアシスに王家の人間四人が倒れているのが発見されたのである。
日神教の王子が一人、王女が一人、月神教の王子が二人死んだことは、両王家に衝撃を走らせた。
これによって、日神教は残った王子が継ぐことになり、月神教は王女が継ぐことになった。リッテンバウムの次代は女王国というわけだ。
両国はこの悲劇をもってして、互いに不可侵条約を結ぶことを締結した。
いがみ合い、忌み嫌い合うことはしても、戦をすることはやめると誓い合ったのである。
これがのちの世に有名な「銀髪家の悲劇」と呼ばれる、王家から多数の死者を出した災難の行く末である。
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