第一章 3

       3



 冬が終わろうとしている。

 国境から、近衛隊が帰ってきたとの報告があった。

「陛下、近衛隊長のランスロットが戻りましてございます」

「通せ」

「陛下、ランスロット、帰国いたしました」

「報告を聞こう」

「は。国境の警備に異常はありません。引き続き、警備を続けるよう申し渡しました」

「よろしい。長の警備、ご苦労であった。今後は城内において業務を申しつける。下がってよい」

 女官たちが、なにやら噂しているのにアリシアも耳にした。

 ランスロット隊長がお帰りになったんですって。え、ランスロット隊長が? お帰りですって。やった、とうとうお戻りなのね。またお会いできるわ。

 なんだろう、と思っていると、誰かと行き会った。

「あ」

「これは失礼」

「いえ、こちらこそ」

 それはギリアドくらい背の高い、眼光の鋭い武人であった。誰だろう、と首を傾げていると、あちらが先にアリシアに気づいた。彼はそこに跪いて、

「王妃殿下、お初にお目にかかります。ランスロットと申します。近衛隊長をしております」

 と言った。

「あ、初めまして」

「お噂は、耳にしています。月神教のあなた様がお妃になることは、思うことがないとは申し上げられませんが、それが陛下のご選択なさったことであるのならば、私はあなた様を歓迎いたします」

「は、はい」

「では私は兵舎に参りますので、これで」

 アリシアに一礼して、ランスロットは廊下のむこうに行ってしまった。

「はー……隙のないお方ね」

「あの方は、陛下が一番に信頼を寄せる武人のなかの武人、ランスロット様です」

「近衛隊長で、とてもお強いんですよ」

 ロスとラスが口々に言った。

「女官や侍女たちにとても人気があって、でも誰にもなびかないことでも有名です」

「お堅いんです」

「ふうん……」

 ギリアド様とどっちが強いんだろう、とちらりと思ったが、すぐに忘れた。

 春が来た。

 砂嵐の季節である。

 この時期は、比較的ギリアドの公務も時間が空く。商人は砂嵐を厭ってやって来ないし、争いはこんな時期には起きようにも起きようがないからである。

「アリシア、海を見に行こう」

 そんなある日、ギリアドはアリシアに言った。

「海?」

「まだ見たことがないだろう」

「ありません」

「ならばちょうどいい。行こう」

 ギリアドに手を引かれて、厩舎まで行く。

「あーいいなあ」

「王妃様、海に行くんだあ」

 ロスとラスが、見送りに出た。

「そなたは砂丘も見たがっていたな。当然のことながら砂漠も通る。歩くか」

 王城の裏口からそっと馬で出て行くと、砂丘である。そこを上っていって、ギリアドはアリシアを馬から下ろした。

「うわあ……」

 アリシアは周囲を見渡した。どこを見ても砂、砂、砂である。一面の砂、太陽の光を受けて、それがきらきらきらきら光っている。しゃがんでみて、手に取ってみた。

 これが死者の灰だなんて、嘘だ。

 爪の先にも入らないほどの細かい、細かい粒だ。

 それが両手を広げて余るほどの場所に、広がっている。

 山にも草原にもなかった、圧倒的ななにか。

 アリシアがぼーっと砂の地に見惚れているのに、ギリアドは急かすこともなく辛抱強く付き合っていた。

 そして彼女がはっと顔を上げると、

「もういいか」

 と尋ねた。

「は、はい」

「では行くぞ」

 彼はアリシアを馬に乗せると、自分も騎乗し、ゆっくりと馬を進め始めた。

「時間を忘れてしまいました」

「みなそうだ。最初はそうなる」

「不思議ですね」

「砂漠は、そういう場所なのだ。時間を奪う」

 少し走るぞ、と言って、彼は馬に鞭をくれた。風を切って、馬が走り始めた。

 四半刻も走ると、前方に青いものが見えてきた。

 海だ。

「――」

 風が、塩辛くなってきた。鳥が、鳴いている。

 波が、寄せては返している。

「着いたぞ」

 ギリアドはアリシアを馬から下ろした。アリシアは茫然として海に目をやっている。

「波……」

「水を、舐めてみろ」

 言われて、アリシアはギリアドを見た。そして恐る恐る海の水を手に取って、そっと口にした。

「しょっぱい……」

「本で読んだだけではわからないだろう」

「はい」

「エリモスではここで魚や貝を獲って、諸国に売っている。無論、リッテンバウムにもだ」

「干し魚、食べていました」

「ここでは新鮮な魚が食べられる。もう春だから、その内たくさん食べられるだろう」

 蟹が歩いている。貝殻が落ちている。アリシアにとっては珍しいものが、色々とあった。 砂浜で砂山を作った。

 日が落ちてきて、拝礼の時間となった。

 やれやれ、今日はここで拝礼だな。

 ギリアドは降参して、本日の拝礼を海ですることに決めた。



『お兄様へ お元気ですか。私は元気でやっています。国王陛下は、とてもお優しいです。 私の戒律も尊重してくださって、理解してくれます。日神教との文化の違いに戸惑いも多いけれど、とても楽しい毎日を送っています。お城のなかからは砂漠が見えて、いつも違う風景が見えます。日神教のひとたちは、変わっているひともたくさんいるけれどやさしいひともいっぱいいます。この間、日神教の儀式をすませました。寒くて難しくて緊張したけれど、なんとかうまくいきました。儀式の大切さに、日神教も月神教も区別はありませんね。それに、先日砂漠と海を見に、陛下が連れて行ってくださいました。どちらもとてもきれいで、時間を忘れました。お兄様にもいつか見ていただきたいです。お兄様もお身体に気をつけて、父上のお手伝い頑張ってくださいね。 アリシア』

 手紙を読み終えて、レオンは顔を上げた。

 そうか。元気でやっているんだな。

 自分の心配はどうやら、杞憂であったようだ。

 ふふ、と苦笑して上を見上げると、抜けるような青空が広がっていた。


 春告月も半ばになって、ギリアドはある日アリシアに尋ねた。

「そういえば、そなたの命名日はいつだ」

「時鳴月の、十九日です」

「なに」

 ギリアドがあまりにも大きな声で驚くので、アリシアは飛び上がるかと思った。

「ギリアド様、大きな声」

「来月ではないか。なぜもっと早くに言わぬ」

「それは、あの」

 言い淀むアリシアの様子に、またもギリアドは察した。

 日神教の国で、月神教の妃の命名日を祝う者などいない。言ったところで、どうなるものでもない。そう思ったのだろう。

 ギリアドは目と目の間を押さえた。私がどれだけ言っても、どれだけ努力をしても、一朝一夕ではどうにもならないのか。

「アリシア」

「は、はい」

「私はそなたに、私には正直になってほしいと思っている」

「はい」

「どんな時でもだ」

「はい」

「だから、こういう時も隠し事をしないでほしい」

「……わかりました」

「来月の十九日に向けて、国を挙げて盛大に祝う」

「無駄だとは思いますが……」

「無駄だとは思っていても、するのだ。そのためにそなたと結婚したのだ」

「……そうですね」

 アリシアは笑顔になった。ギリアドはザイオンを呼んだ。

 当然、宰相はいい顔をしなかった。

「妃殿下の命名日ですと?」

 彼は眉を吊り上げて、顔をひくつかせて反応した。

「そうだ。王妃の命名日だから、当然のことだ」

「……かしこまりました」

 お触れは国中に広まった。しかし、それに笑顔になったのは星神教の商人だけだった。

 多くは嫌な顔をして、顔を顰めた。

 王妃? 王妃のために祝うって? 冗談じゃない。月神教だろ。月神教の女のために祝うなんざ、嫌だよ。金の無駄さ。労力、ってもんがかかるんだよ。それにお金もね。月神教なんかのためにそんなことをするのは、ご免だね。

 それでも国王の命令だから、嫌々ながらに準備は進められていった。星神教の者たちは、物が売れていいじゃないかとうきうきして支度をしていった。

 五番目の月、時鳴月がやってきた。

「王妃様、リッテンバウム王国よりお届け物でございます」

 女官がやってきて、大量の箱を持ってきた。

「わあ、なあにこれ。ロスにラス、持つのを手伝って」

「はい王妃様」

「こっち持ちます」

 箱はそれぞれ、親戚からのものであった。遠く異国の異教徒に嫁いだアリシアの命名日を少し早く祝うために、贈り物を送ってよこしたのである。箱にはそれぞれ、文がつけられていた。

 そのなかには、兄からのものもあった。

 アリシアはレオンの顔を思い出しながら、その文の一言一句をじっくりと味わうように読んでいった。それは、元気でやっているか、いじめられていないか、あの男とうまくやっているか、などと、そのほとんどがアリシアを案じるものばかりで埋め尽くされていた。「お兄様……」

 アリシアは思わず呟いて、空を見上げた。リッテンバウムは今頃、初夏だ。あちらは初夏でも寒いから、火を焚いているだろうな。みんな元気かな。

 ちょっとなつかしくなって、里心が出た。

「すごい数の贈り物だな」

 そこへギリアドがやってきて、山となった箱の数々に目をやった。

「ギリアド様」

「親戚から来たのか」

「はい。命名日にって」

「そうか」

 ギリアドはアリシアが手にした文を見て、

「帰りたくなったか」

 と尋ねた。アリシアは少し考えて、

「……いいえ」

 とこたえた。ギリアドは少しだけ笑って、そうか、と言っただけだった。

 十九日がやってきた。

 嫌々ながらも、慶事の日である。この日は公休となり、花が売られ、酒樽が開けられ、食堂は人がひしめき、通りには人が溢れ、屋台では物が売られた。

 しかし、人が集まればそこでは月神教の王妃の悪口雑言に花が咲いた。

 あんな女のために祝うなんざ、虫唾が走るね。月神教だ。月神教だろ。それが王様のお妃だっていうんだから、我慢ができねえ。やってられないよ。

 酒を飲めるのはその月神教の女のおかげなのに、誰もがその女を肴に酒を酌み交わした。 下品な冗談を言い合い、貶め悪し様に罵った。

 一方の王城では、市民からの贈り物が続々と届いていた。

「王妃様、贈り物でございます」

「ロス、開けておいて。開けるのに間に合わないわ」

「あっ」

「なあに」

「いえ、なんでもありません」

「見せて」

 ロスが慌てて箱の中身を隠すのに、アリシアは無理矢理それを見た。

「――」

 なかには、死んだ鶏が入っていた。

「王妃様……」

 ぎゅっと手を握る。

「なにをしている」

「あ、陛下」

 ラスの声で、アリシアは顔を上げた。

「陛下、なんでもありません」

「アリシア、なにを隠した」

「なんでもありません」

「見せろ」

「あっ……」

 アリシアが後ろ手に隠した箱を、ギリアドは見た。そして中身を見ると、一層厳しい顔になった。彼はふう、とため息をつくと、側にいた宰相に声をかけた。

「ザイオン」

「はい陛下」

「この箱を送りつけた者を調べ、厳罰に処せよ。王妃を冒涜した者は何者であろうと許さぬ」

「かしこまりました」

 宰相が出て行くと、アリシアは遠慮がちにギリアドに言った。

「陛下、よいのです」

「よくない。一度許せば、何度でもやる。こういうことを許したら、そなたと結婚した意味がなくなる。こういうことをなくすために、そなたと結婚したのだ」

 侍従長がやってきて、食事の時間を告げた。

「行こう。気分直しだ」

 食堂へ行くと、料理長が王妃の命名日のために用意された特別な料理が待っていた。

「今宵は王妃殿下の故郷の味がよろしいかと思いまして、リッテンバウム風の味つけにさせていただきました」

 砂漠の味つけは、どれも塩が効いていて濃いものが多い。香草を使ったり、調味料が豊富なのに比べ、山間部や草原の料理はバターを使ったり素材そのものの味を活かしたりする。

 久し振りに故郷の味を口にして、アリシアは胸がいっぱいになった。

「王妃殿下、お味はいかがでしたか」

 食後に、料理長がやってきてアリシアに感想を聞いた。

「とてもおいしかったです。いつもよりいっぱい食べました」

「感無量のお言葉でございます」

 寝室に戻って、私室で髪を梳いていると、珍しく侍女がやってきて髪をお梳きしますと手伝いにやってきた。しかしあまりにも乱暴に髪を引っ張るので、アリシアは、

「きゃっ」

 と声を上げてしまい、それを聞いてギリアドが部屋にやってきたほどだ。

「どうした」

「いえ、なんでもありません」

「申せ。なにがあった」

「いえ、あの」

「アリシア」

「あの、髪を梳いてもらっていたら」

「いたら?」

「その、髪が引っ張られて」

「それで?」

「痛くて、それで」

「声が出たのだな」

「……はい」

 ギリアドはため息をついた。彼は手を叩いて、女官長を呼び寄せた。

「お呼びでございますか」

「女官長。私は常々、王妃が月神教であることを理由に彼女の日頃の世話を怠ることはあってはならないと厳命していたはずだ。しかし今日のこれはどうだ。侍女が王妃の髪を梳いて引っ張り、あまりにも乱暴だったので痛くて声が出るほどだという。私の部屋に聞こえてくる程にな」

「は……そ、それは、まことにもって」

「お前は一体部下にどういう教育をしているのだ」

「そ、それは」

「よりにもよって、王妃の命名日にこのようなことがあるとは、嘆かわしいとは思わぬのか」

「申し訳もなく……」

「今日を限りにこのようなことはないと誓え。誓えるか」

「は、はい。この身をもって」

「王妃の侍従に、しかと見張らせるぞ。もしなにかあった場合には、その首刎ねさせる。 覚悟いたせ」

 それを聞いて、女官長は這う這うの体で下がっていった。

「アリシア。気分直しに、少し歩こう。見せたいものがある」

「は、はい」

 夜の城内を、二人は歩いた。この頃になるとアリシアも王城内の仕組みがわかってきていたから、どこの角を曲がるとどこへ行くかはだいたいわかっていた。

 しかし、ギリアドについて行った先は知らない場所へ通じるもので、彼女がまだ行ったことのない通路だった。

「?」

 どこへ行くのだろう――

 首を傾げながらもギリアドの後へついて行くと、角を曲がり、回廊を行き、やがて辿り着いた先は一つの扉の前である。

「開けてみろ」

「なんですか?」

「いいから、開けてみろ」

 なんだろうと思いながらも、その重い扉を開けると、その先には庭園が広がっていた。

「――」

「リッテンバウムに使い鴉を飛ばして、そなたの兄にそなたの好きなものはなにか、聞いてみた。すると、そなたは故郷の庭を特に好いていたと返書が来てな。急ぎ造らせた。急ごしらえだったからなかなか苦心したが、うまくいったと思う」

 アリシアは茫然として、その庭に足を踏み入れた。

 見たこともない植物が、茂っている。見たこともない花が、咲いている。そのどれもが、瑞々しい。アリシアは震える指でその一つにそっと触れた。

 水の雫が指先で濡れた。

「アリシア」

 アリシアは振り返ってギリアドを見上げた。

「今日のようなことは、また起こると思う。しかし私はめげずに、一つ一つ乗り越えていきたい。そなたと共に」

「ギリアド様……」

「ついてきてくれるか」

 その黒い瞳が、理想に熱く燃えている。目の前の男が、自分に助力を乞うている。それだけで胸が熱くなった。アリシアははい、とうなづいた。

「お手伝いいたします」

 それを見て、ギリアドも微笑んだ。

 天窓から見える月だけが、そんな二人を見ていた。

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