第一章 2
2
日神教教徒を主な住人とするエリモス王国の領土は広大な砂漠が主で、主要な都市は三十二、属国は五十数か国にも上る。海に面したこの国の主な産物は絹織物、海産物、岩塩、その他に果物などが挙げられる。また大きな宝石鉱山を有するこの国は金細工や宝石加工などでも知られ、その多くを大陸に輸出している。
アリシアの暮らしていたリッテンバウム王国でもエリモスの絹織物や宝石細工は有名で、王室の宝石のほとんどはこの国のものだ。
月神教の王室の着飾る宝石がなぜ日神教の国のものかというと、間に星神≪せいじん≫教という教えを信仰している中立の商人たちが数多くいて、彼らが品物を仲介しているのである。そうしないと、物事が成り立たないからだ。
明るくなって窓から外を見ると、一面の砂丘が見られた。
その美しさに、アリシアは目を奪われた。
赤みがかった満月のような、黄金色の砂。輿のなかからはわからなかった光景だ。
思わずわあ、と声を上げて身を乗り出していると、ギリアドが彼の私室から出てきて、「アリシア、侍女は頼りにならないだろう。星神教の侍従を二人やろう。好きに使ってくれ」
と、十二歳くらいの二人の子供を連れてきた。その二人の子供は背の高いギリアドの後ろからぴょこん、と出てきて、
「王妃様、はじめまして」
「僕、ロスです」
「私はラスです」
「お仕えします」
と二人そろって頭を下げた。
「着替えなどはさせられないが、この二人は城内のことをよく知っている。そなたの目となり耳となってくれるだろう」
「ありがとうございます」
「また、侍女たちにもよく言っておく。すぐには直らないだろうが、教育が必要だ。それまで、この二人で我慢してくれ」
そこへ、宰相ザイオンがノックの音と共にやってきた。
「陛下、朝から申し訳ありません。先日の閣議の結果、出ましてございます」
「申せ」
「それが……」
「申し上げます、階下で乱闘騒ぎです」
「それに、中庭で馬が逃げ出しました」
「陛下……」
と、次々に人がやってきて、寝室は混乱状態になった。
ギリアドは顔に青筋を立てて、
「やかましい」
と怒鳴った。
アリシアはきゃっ、と声を上げそうになった。ギリアド様ったら、こわーい。
「一度に申すな。まず、乱闘は兵士長に止めさせろ。馬は馬丁を呼べ。ザイオン、続きを」
ギリアドは部屋を話しながら部屋を出て行こうとした。
「あ、ギリアド様」
それを聞いて、宰相がじろりとアリシアを睨んだ。月神教の小娘が、陛下をつかまえてギリアド様だと?
「お帰りは、何刻くらいですか?」
「わからぬ。待っていなくてよい」
アリシアは頭を下げてそれを見送った。彼の姿が廊下のむこうに消えると、アリシアはふう、とため息をついた。そしてロスとラスに、
「びっくりしちゃった。ギリアド様、あんなに怒るんだもの」
「驚かれることはありません」
「陛下は、いつも怒っておられます」
「そうなの?」
「はい。いつも難しい顔をして、考え事をされています」
「そういえばギリアド様っておいくつなのかしら」
「二十三歳の時にご即位されて、二年が経ちます」
「じゃあ今二十五歳なのね。私と六つ違いか。五つは老けて見えるわね。きっとご苦労されているのね」
二十三で国王になったんだから、そりゃあ疲れるに決まっている。難しい顔にもなるだろう。せめて、寝室でくらい国王であるということを忘れさせてあげたい。あ、そうだ。「ねえ、ロスにラス」
「はい、なんでしょう」
「なんでしょう」
「あなたたち、日神教の戒律には詳しい?」
「はい、一通りは」
「それ、私に教えてくれない?」
「なにも難しいことはありませんよ」
「月神教ほど、とらわれるものが多くありませんから」
日の出と日没に、太陽に向かって拝礼をする。
毎週太陽神の曜日に、礼拝をする。
「食べ物の戒律は?」
「特にこれといって、決まりはありません」
「ただ、無駄に殺生をしてはならない、ときつく戒められています」
「ふうん……」
故郷で聞いていた、鶏の首を落として生き血を飲むだとか、蛇の肉を食らうだとかは、迷信であったようだ。
その晩アリシアは葡萄酒を用意してギリアドの帰りを待った。その日も彼の戻りは遅く、夜半を過ぎて彼は部屋に帰ってきた。
「お帰りなさいませ」
彼女が起きていたことに、ギリアドは驚いたようだった。
「……起きていなくていいと申したのに」
「そう仰られてはいそうですかと寝ていられるほど、図太い女ではありません」
金杯に葡萄酒を満たして、アリシアはそれをギリアドに渡した。
「ロスとラスに教わったんです。日神教では、太陽神の光の色の白と金を尊重するから、なるべく金と白のものを使った方がいいって」
「そうか」
「相手のことを理解するには、まず相手のことを知るようにしなければ、と思って」
さわ、と開け放した窓から風が吹いて、ギリアドがそちらに目をやった。
「なんでもそうだな。まずは、相手のことを知ることが必要だ。月神教のことも日神教のことも、知らなくては理解に至らない」
「はい。私も、砂漠という場所を誤解していました」
「どう誤解していた」
「砂漠は、死者を焼いた灰を撒いてそれが溜まりにたまって砂になっている、だからあんなに砂だらけなのだ、と教えられました」
ギリアドは声を上げて笑った。
「なるほど、野蛮な日神教ならそれくらいやりかねんというわけだな」
「はい」
アリシアは大真面目な顔をしてうなづいた。
「しかし、そういった誤解が積もりに積もって偏見となるわけだ」
「そうなんだと思います。でも」
「でも?」
「でも、実際見たら、砂漠はとてもきれいなところでした。もっと近くに行って、砂丘を見てみたいと思いました。砂をこの手にとってみたい、そう感じました」
「そうか……」
ギリアドは肘をついて、興味深げにアリシアを見た。
「そなたがそう言ってくれて、嬉しく思う。この世で一番厳しい場所だが、しかしこの世で一番美しい場所でもあるのだ」
「それを聞いて、益々行ってみたくなりました」
ギリアドはふっと微笑んだ。それを見て、アリシアはほっとした。なんだ、いつも怒ってるって言ってたけど、ここでは笑ってくれてる。ここで怒ってないなら、それでいい。 すると、ギリアドはなにかを思い出した顔になった。
「そうだ」
「なんでしょう」
「城内には、まだまだそなたと私の関係をよく思わないものが多くいる。表では私のことはギリアドと呼ばず、陛下と呼べ。二人の時だけに名前を呼ぶといい」
「わかりました」
そうして、また床についた。
朝目が覚めると、ギリアドはもうベッドにはいなかった。
そうか、朝日に向かって礼拝するんだっけ、と思い、顔を洗いに行った。着替えをして、朝食を共に食べる。国王であるギリアドは、書類に目を通しながら食事をする。
忙しいんだな、と思いながらも、アリシアはそれには口を出さない。そうこうする内に宰相ザイオンがやってきて、今日の予定を話しながら執務室まで共に歩いていくのだ。
アリシアはそれを、見送っていく。
「ギリ……陛下、今日は何刻にお帰りですか」
「十二の刻までには戻ると思う」
寝ていてよい、とは、今日は言わない。寝る前のひと時が、どうやら彼にも楽しいらしい。
あのエミリーという侍女は、時々こっそりやってきて、
「お、お部屋をお掃除いたします」
と、誰もしてくれないアリシアの私室を掃除してくれた。それは、他の侍女たちの目を盗んでのことゆえ、まったくもって手早い、それでいて実に手抜かりのないものであったが、ちょっとした埃がないだけでもアリシアにとっては有り難かった。
「王妃様」
「おはようこざいます」
ロスとラスがやってきた。
「今日はなにをしますか」
「今日は、お城のなかを覚えたいわ。まだ迷っちゃうもの」
「かしこまりました」
「こつがわかれば、簡単ですよ」
ちょこまかと動く子供二人に案内されて、あちこちを歩いた。塔のてっぺんからは、海が見えた。
「こちらが初代国王夫妻の像です」
「ふうん……宰相さんに案内されたはずなのに、覚えてないわ」
見ると、共に剣を掲げている。
「昔は諸国と戦い、民族紛争も多く、多数の犠牲を払ってこの国を築き上げたといいます」
「このお城があんなに大きな樹の下にあるのもそのおかげ?」
「あれには言い伝えがあって、戦いに疲れた初代が眠ってしまったところ、伝説の戦士が現れてひとつの種を差し出し、これをそこに植えよと言ったそうです」
「初代が目を覚ますと手のなかに種があって、それを植えると見る見る内に樹が生えていって、あんな大木となったそうです」
「そして、その大木の根本からは、こんこんと水が湧いてきたのだそうです
「初代はその根元に城を築いたといわれています」
「それが現在の我々が住むお城です」
「ふうん……」
次に、噴水にやってきた。
「どうして砂漠なのにこんなに水が豊富なの? お風呂の時も思ったけど、毎日あんなに大量に使えて、なんだかもったいないみたい」
「海から水を引いてきて、濾過しているのです」
「飲み水は井戸の水を、生活用水は海の水を使うのです」
「濾過した海水は飲めたものではありませんが、生活用水には充分です」
「だからこの国のお手洗いは水洗なのね」
「そうです」
「排泄されたものは浄水場で処理されます」
「砂漠なのでどのみち作物は育たないので、排泄物は処理するのです」
「進んでるのねえ」
日神教は野蛮な国の教え、と教わったが、なかなかどうして、実に進歩している。無理解こそ偏見への近道、という言葉をなにかの本で読んだが、その通りだと思った。
午後には、本を読んで主要都市や属国の勉強をした。
「三十二も都市があるの。五十以上も属国があるのね」
「そのすべてを統べておられるのですから、陛下のご心労はいかばかりかと存じます」
「ずっと怒っていらっしゃるのも無理はないわ」
ふう、とため息をつく。そして、自分にはなにができるかと考える。今のところ、思いつくことはなにもない。
ギリアドが通達したはずなのに、侍女たちは相変わらずアリシアの湯あみの手伝いをしない。着替えや支度も、手伝わない。
問題は、ある夜起こった。
朝食は寝室で二人で食べるが、夕食は食堂で取る。
「子豚のローストでございます」
と言われて、アリシアの手が止まった。ギリアドは気がつかずに黙々と食べている。
アリシアはうつむいて、どうしようどうしようと時間が過ぎるのを待っている。側で見ていたザイオンがそれに気づいて、
「いかがされましたかな」
と声をかけた。
「いえ、なんでもないです」
「お召し上がりください」
「……」
侍女たちが、ひそひそと囁き合っている。ギリアドが料理に手をつけないアリシアに気がついた。
「アリシア、どうした」
「……」
「なぜ食べぬ」
アリシアはうつむいて、こたえない。
侍女たちが意地悪げにそれを見て、聞こえよがしに小声で言い合っている。
なによ、食べ物を無駄にするつもり? それって戒律に違反しているわ。まったく、王女さまってこれだから嫌よ。何様のつもりなのかしらね。エミリーは一人、うつむいている。
「……」
アリシアはそれに、黙って耐えている。ギリアドは尋ねた。
「アリシア、月神教の食べ物の禁忌は、なんだ」
「あ、あの」
「言いなさい」
「……反芻しない動物と、四本足ではない動物と、蹄がない動物です」
「豚は反芻しない。だから食べられない。そうだな」
「……はい」
「その戒律に則ると、鶏も食べられないな」
「はい」
「鶏の出汁で取ったスープはどうだ」
「それは、大丈夫です」
「料理長、聞いたか」
「聞きましてございます」
「これからは王妃の食事には特に気をつけて出すように」
「かしこまりました」
「彼女には代わりに別のものを出してやってくれ」
「急ぎ作らせます」
料理長が厨房に入っていくと、ギリアドはアリシアに向き直った。
「アリシア、すまなかった。もっと早くに聞いておけばよかった。月神教にそんなに厳しい戒律があるとは知らなかった」
「陛下、謝らないでください。言わなかった私が悪いのです」
「いや、これは私の勉強不足だ。そなたは日神教のことを学んでいたというのに、私はそうはしなかった。悪いのは私だ」
「もういいのです」
そのやり取りを、宰相ザイオンは渋い顔をして聞いていた。国王ともあろうお方が、月神教などに頭を下げるとはなんたることだ。
その夜、アリシアはギリアドにこんなことを言った。
「ギリアド様、エリモスの街って、どんなところですか」
葡萄酒を注ぎながら、彼女は尋ねる。
「歩いてみたこと、ありますか」
「私は第三王子だったから、何度もある。顔も知られていなかったから、歩きたい放題だった」
「いいなあ。第三王子といえば、私も第三王女でした。でも街を歩くなんてとんでもなくて、いつも王宮のなかにいなくちゃいけなくて、窮屈で、退屈で、本でしか読んだことがなくて」
籠の鳥、という言葉が頭に浮かんだ。同じ第三という身分でも、男と女でこうも違うものなのか。教えの違いか、それとも場所の違いか。
ギリアドは少し考える顔になった。
「明日はザイオンが隣国に行く日だ」
「? はい」
アリシアが、それがどうしたという顔になった。
「ひょっとすると、これは好機だぞ」
翌日の昼下がり、ベールを被った若い女と、背の高い男が王城の裏口から出てきたことは、特別珍しいことではなかっただろう。その二人はきょろきょろと辺りを見回して裏路地から小路を行くと、そのまま大通りへ出た。
「ギリアド様、成功ですね」
「しっ、あまり大声で私の名前を呼ぶな」
「ふふ、まさかギリアド様がお城を抜け出すなんて言い出すとは思いませんでした」
「あの口うるさいザイオンがいない間だけだ。こんなことは、滅多にないからな」
それより、とギリアドはアリシアのベールを直した。
「これをちゃんと被っておけよ。そなたの銀の髪と青い目は、ひどく目立つ。見られたら事件になる」
「はーい」
アリシアは初めて見る街並みから、目が離せない。
「いらっしゃいいらっしゃい。極上の糸で織った絹織物だよ。金と銀の糸だよ」
「パイナップルはいかが? オレンジもあるよ」
何もかもが珍しくて、あちこちに目がいった。
「腕利きの細工師が作った宝石だよ」
「焼きたてのパンだよ。作りたてだよ」
市民の生活を見ると、どれも活気があり、なかなかに潤っているようである。
善政が敷かれている、いい証といえた。
いいにおいがするのでそちらへ行ってみると、たくさんのパンが焼かれていた。
「あ、ギリアド様。パンです。お城と同じ」
「お城? あなたお城から来たの?」
「え、あ、いえ」
「今の王様は先代の王様と違って小麦にも宝飾品にも興味がなくて税金をかけないので、私たちもいい暮らしができるんだよ」
「ほんと、暮らし向きが変わって楽になったねえ」
「へえ……」
ギリアドの目が、ふっと遠いものを見るようなものになった。
「おじさん、このパン二つください」
「はいよ」
「あっちで食べましょう、ギリアド様」
裏路地の階段に座って、二人はパンをかじった。
「はいギリアド様、あーん」
「よい、一人で食べられる」
「市民のひとたち、みんな幸せそうでしたね」
「……」
「ギリアド様が一生懸命働いてるからですね」
「ふん」
照れたように顔をそらして、ギリアドはあちらを向いた。
「おいしいですね。もう一つ買っていきましょう」
パン屋の屋台で、アリシアが左手で金を差し出そうとした時――
手の甲の瘢痕が、ちらりと見えた。
月神教の洗礼の証たる、月の形の瘢痕が。
「あ、あんた――」
屋台の主人が、それを見て動きを止めた。
「月神教か!?」
ざわ、と街の人々がその叫びを聞いていっせいに振り向いた。
月神教? 月神教だって? どこだ? どこにいる?
月神教――
月神教がいる――!
ギリアドの瞳が鋭く光った。彼はいち早くアリシアを小脇に抱え、一目散に走り出した。 十代のころから街を歩いている彼からすれば、裏道を通ることなどなんでもないことだった。
そして小路を行き、脇道を反れ、裏の裏を通ると、人通りのないところまで辿り着いて、ようやくのところで彼はアリシアを下ろした。
「ここまで来れば大丈夫だろう」
息を切らせて言う彼に、アリシアは頭を下げた。
「ごめんなさい。不注意でした。ここはお城じゃないのに、油断してました」
「よい。私もその瘢痕のことを忘れていた。それより、そろそろ日が暮れる。戻ろう」
日没には、拝礼をしなければならない。日神教の大切な習慣だ。
その日の入浴で、アリシアは左手の自分の瘢痕をつくづくと眺めた。
これは、私が月神教であるという証。
生まれてからずっと持ってきたものだから疑問を持ったことはないけれど、こんなこともあるんだ。それに、左手には結婚の徴の指輪もしている。左手は、月神教にとっては重要な位置づけだ。
一人で風呂に入ることにも慣れた。慣れると、その方が楽だ。こうして考え事に耽ることができるし、一人の時間が持てる。
エミリーは時々そっと来てくれて、着替えだけを手伝ってくれる。湯あみを手伝いでもしようものなら、同輩たちに見咎められてしまうからだ。
一度、なぜ自分の立場が悪くなるかもしれないのにこんなによくしてくれるのかと聞いてみたことがあった。すると、
「……王妃様はやさしい目をしていらっしゃるから」
と恥ずかしそうに言っただけで、すぐに逃げるように行ってしまった。
城内にいると、その時間のほとんどは誰かといる。多くは、悪意の視線や囁きに満ちている。
「そういえば、ギリアド様の洗礼の瘢痕てどこにあるんですか」
その夜、葡萄酒を飲みながらアリシアはそんなことをギリアドに尋ねた。
「日神教は手の甲には洗礼を施さない。身体にすることが多い」
「ふうん……」
どこなんだろ、と思った。詳しい場所を、彼はとうとう言わなかった。
その日、ギリアドはアリシアにこんなことを話した。
「もうすぐ春待月だ。砂漠では春の訪れと共に、砂嵐がやってくる。それを鎮めるために太陽神に奉納をしなければならない。日神教の祭祀長の妻、つまり王妃が奉納の舞を舞い、香炉に火を焚き、香油を注がなければならないのだ。その儀式の段取りは、祭祀長の私が教えることになっている」
「月神教の私が、そんなことをしてもいいものなのでしょうか」
「いいも悪いもない。そなたは私の妻、祭祀長の妃なのだ」
そうはいっても、形だけだ。初夜すら、行われていない。
「でも……」
「儀式の日は待ってはくれない。明日から練習をする」
それは、宮殿の祭祀の間で行われるという。儀式の間のなかでは一番広い、方陣の描かれた石の部屋だ。
奉納の舞は長剣と短剣を使った複雑なもので、最後には短剣を宙に投げてそれを受け止めるという危険なものだった。アリシアは何度も何度も失敗して、指から血を出した。
冬の日の石の床は冷たく、裸足で踊るには過酷すぎた。
毎日毎日、練習に練習を重ねた。
舞の振り付けはもう覚えてしまったから、後はいかに短剣をうまく受け止めるかにかかっている。それにはこつがある。運もあった。
寒くて手がかじかんでいると、大抵はうまくいかなかった。
儀式の日は寒くありませんように、と祈った。
「毎日毎日指から血を出しているな。痛くはないか」
「もう慣れちゃいました」
葡萄酒を飲みながら、指を隠してアリシアはそうこたえた。
「ギリアド様のお母さまは、どのようになされたのでしょう」
「母は」
ギリアドはつい、と目をそらした。
「母は、舞は舞わなかった」
その後彼が話題を変えてしまったので、アリシアはその会話の意味はのちになるまではわからなかった。
そして、儀式の日がやってきた。
祭祀の間には神官たちが集まり、厳かな雰囲気のなかで儀式は始められた。
アリシアは白い礼服を纏い、顔に太陽神の神聖な模様を描き、巫女として祭祀の間に入っていった。
祭祀の間には、祭祀長である国王が一足先に白地に白の糸で刺繍された特別な礼服を着て巫女の登場を待っている。
そもそも、この儀式は祭祀長である第一子が太陽神に砂嵐を収めるよう頼みごとをするものであり、その妻である巫女が舞を奉納して神聖なる願い事をかなえるというものである。
鉦が鳴らされ、巫女の足につけられた鈴がりん、と鳴り、アリシアが長剣を取り出して、しずしずと舞を舞いだした。
集まった市民は白い目でそれを見守った。
月神教の女が、なんで神聖な舞を奉納する役目を仰せつかるんだ。なぜ月神教の女が、日神教の白い礼服を着て舞まで舞っている。失敗するに決まっている。失敗しろ。転べ。
それらの声は、当然アリシアにも聞こえた。
アリシアは目を瞑って、悪意の声をやり過ごした。
聞こえない、聞こえない、なにも聞こえない。聞こえるのは足の輪の鈴の音だけ。それ以外は、なにも聞こえない。
アリシアは短剣を取り出して、それを左手でくるくると回した。ああ、手がかじかむ。 手が震える。うまく回れ。この短剣は私の手の一部。私の手首。私の手。私の掌。
私はこれを回して、手の甲で返して、そして宙に投げる――
宙に投げた短剣は、そのまま私の元に返ってきて、私の手に、
「――」
収まった。
ほう、と息を吐いた。
成功した。
よかった――。
それを見ていたギリアドも、思わず止めていた息を吐いた。
続いては、香炉に火を点ける段階だ。しかし、窓の隙間から風が入ってなかなか火が灯らない。何度も何度も擦った。
ようやくポウ、と火が灯って、ほっとため息をついて、こぉろこぉろ、と香炉を揺らした。
その間にも、月神教のくせに神聖な儀式を穢して、という声はあった。
そして最終段階の一番大切な香油を注ぐ折りに、声は一気に高まった。
「月神教の女が、そんなことをしていいと思っているのか」
誰かが声高に言うと、もう声は止まらなかった。
ざわざわと、声は次第に高くなっていった。
神官たちが顔を見合わせ、アリシアは戸惑いに手を止め、儀式は中断を余儀なくされた。 それまで黙って聞いていたギリアドは、唇を噛みしめていた。
――くだらぬ。
「静まれ」
彼は怒鳴った。
ぴたり、その一声で、ざわめきが止んだ。
「それがなんだというのだ。あれは私の妃だ。しかしああやって立派に儀式をやり遂げた。 私とて、第一子ではない」
そう言ってつかつかとアリシアの元へ歩み寄り、
「ならば、こうすればよい」
と彼女の手を取って共に香油を注いだ。
こうして儀式は終了したのである。
その晩いつものように葡萄酒を飲みながら、ギリアドはアリシアを労った。
「よくやったな」
「どうなることかと思いました。短剣を受け止められて、よかった」
「そのあとも立派だったぞ。動揺せずに、最後までよく務めた」
「そんなことはありません。ギリアド様が手伝ってくださらなかったら、とても最後までできませんでした」
そうして二人で笑い合った。
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