第2話 女主人(60代)とメイド長(70代)

 After


 夜。もう誰も居ない休憩室で、日報をしたためる。大分目が草臥れてきたから、そろそろ誰かに変わって貰おうかと思うのだけれど、踏ん切りがつかない。だって、私の書いた日報を奥様が楽しみにしていらっしゃるから。

 ……あなたの報告は、良いことも悪いことも、優しい言葉で綴られているから読むと安心するの。そう仰って、いつも丁寧に読んで下さる。なんて嬉しいことでしょう。

「…………」

 そんなことを考えていたら、誰かが後ろから抱き着いてきた。噂をすれば影が射す、というのは、頭の中で考えていたことにも当てはまるのかしら。そういえば、この言葉を教えて下さったのも、この方だった。

「まあまあ、奥様。お疲れですか」

「…………」

 普段は朗らかなこの方が、こうして黙っておられるとき。それは、本当にどうしようもなくお疲れになったとき。私は、奥様の手にそっと優しく触れた。たおやかな手には、年相応の皺が刻まれている。この皺に触れる度、私はハッとなった。この方もお年を召されているのだと、毎度驚いてしまう。私の中では、永遠のお嬢様だから。

「何か、甘いものをお持ちしましょうか? それともお酒を?」

「…………ホットショコラ」

「かしこまりました。すぐにご用意しましょう」

「カップはふたつ。私の部屋へ。あなたが持って来て。必ずあなた一人よ」

 まるで頑是無い子どものような口調に、思わず笑みが零れた。

「……ないしょのはんぶんこですか?」

 あの頃とはまるで真逆。あの頃のお嬢様は、庭に咲き誇る大輪の花よりも美しく、堂々としているように見えた。泣き虫の私を、いつも密やかに救ってくれた香り高き薔薇。

「嫌?」

 もちろん、今のお姿も素敵だと思う。年を経てもなお可憐で美しい。

「おらが嫌なんて言うわけねぇだす。喜んで」

 ……おらしか知らねぇ薔薇の休息だ。


 ※※※


 Before

 お嬢様(十歳)と新人メイド(十六歳)


 うちの裏庭には、美しい野ばらが咲く。


「あらあら。またメイド長に怒られちゃったの?」

「お、お、お嬢様……す、すみませ、おら……」

 その子は、いつも裏庭のすみっこで泣く。背中をぎゅーっと丸めて。涙よ、止まれ~ってお願いするみたいに。おっきなおさげの、可愛い子。

 私の六つ上と聞いていたけれど。でも私よりも『じゅんすい』って感じがする。すてき。

「いいの、気にしないでここにいて。『私』はたまたま裏庭をお散歩してて、きれいなお花に見とれてるの。だから、誰かが泣いてても気付かないの」

「お、おじょうさまぁ~~~~~」

「ふふふ。いっぱい泣いたら、笑ってね。私、あなたの笑顔が大好きよ」

 はい、チョコレイト。いっしょに食べましょ?

 ポケットから、ハンカチーフを……その中に隠してあった紙包みを取り出した。さっきこっそりメイド長からもらったもの。

「ないしょのはんぶんこよ、いい?」

「は、はいぃぃいぃ……」

 ぼたぼたと惜しげもなく流れる涙を、ハンカチーフで拭う。

「いいこいいこ。……ハンカチーフ? これは、花の朝露をぬぐったから濡れただけ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る