中編
アントンの後について執務室に行くと、広い部屋には中年の事務官がいて、崩れ落ちそうな書類の山を前に居場所の確保に奮闘している。男二人では手が回らないのか部屋は書類が散らばり、帳簿が椅子やテーブルの上まで積み上げられ、ゴミまで舞っていた。
アントンは簡単に「彼は執事のクリンガーだ。こちらヘレナ夫人」と紹介する。女官は既婚だろうが未婚だろうが夫人だ。そういえば私もすでに夫人だった。自分が夫人だというのがまるで人ごとのようだ。
「事業と屋敷を国が買い取るそうで、その手続きで忙しくてこちらまで手が回らなくて、僕がこちらに派遣されて片付けることになった」
「片付けるのですか」
道理で屋敷が閑散としている訳だ。
「そうだ。この屋敷を片付けて売り払う。それで屋敷に付随するものを書き出して、計上して、本拠に送る物は送って──」
「たちまちに必要な物は送っておりますから、後はこちらに残った物を仕分けして全て片付けるだけですね」
「そうか」
クリンガーとアントンは納得しているようだが私にとっては冗談ではない。何という事だ。結婚した旦那は私に売り払ってしまう家に行けと追い出したのだ。二年経つ前に、ここを売り払われて追い出されてしまう。
「売り払うのですか。困ったわ、行く所がないわ」
「ここはラモラル家と事業の本拠地だったが、エーデンブルク国が共和国に事業の本拠を移せというんだ。それでラモラル家には寺院をくれるという。まったくあっちへ行けこっちへ行けと好きなように言ってくれる」
アントンの愚痴を何となく自分に重ね合わせてしまう。まったくあっちへ行けこっちへ行けと、人を何だと思っているのかしらね。しかし、アントンは非常に親切な男だった。
「君も良かったら行くか。仕事ができる人は大歓迎だ」
「ぜひ行きたいですわ」
「そうか、僕の秘書の身分でいいかな」
「はい、お願いします」
旦那様には放置されているし、二年経ったら離婚だし、仕事があれば困らないわ。何より、親元に戻って両親や妹に振り回されるのはもうごめんだ。
旦那様に離縁されたら、手当を頂いて適当な仕事を見つけて働いてもいいかもしれない。この男に聞いたらどこか仕事先を世話してもらえるかしら。
取り敢えずテキパキと動いて彼らの居場所を確保し、クリンガーに聞きながら山となった書類の束を分別していく。
ひと山の書類を大まかに仕分けるのに半日かかった。食事を持って来たメイドが驚いていたが、構わずに私の分もこちらに運ぶように頼む。一通りの仕分けができ、計算に取り掛かった所で日が暮れた。
「ああ、こんな時間か。ヘレナ、あなたは?」
「住み込みですわ」
「そうか、では明日また」
アントンはそう言い置いてクリンガーと帰っていった。この広い屋敷には別棟や離れ、別邸が沢山付随している。住む所はいくらでもありそうだ。
雇う事務官と間違えられたようだがまあいいか。どうせ私は地味で年が上に見られる。五つや六つはざらで十歳以上年上に見られたこともある。
私の花の乙女の時間はみんな妹に取られて終わった。あの妹は歳まで奪っていったのかもしれない。
一か月も執務室で書類整理をするとかなり進んだ。旦那様には領地があちこちにあるようで、家令も余所に赴任していて、売り払う予定のこの屋敷の執事はすでに新しい本拠に移っていて、代わりに派遣されたアントンは自分の執事を連れて押し付けられたこの屋敷に来たという。
しかし、いつからこの屋敷の財政を放置していたのか、まあ赤字じゃないようだが計算違いも所々にあるし。
事務官のアントンとは仲良くなった。
「これは、無駄遣いが凄いな」
事務官殿が請求書の束を捲りながら文句を言う。
「この請求書は王都の屋敷の出費ばかりだ。最近食費と宝飾品と衣服費が凄い。一体何に使っているんだ」
その請求書は見た。夜会やらお茶会を開けば食費、ドレスや宝飾品は言うに及ばず、楽団やら給仕やら警備やら、掛かりを挙げればきりがない。金額を見ればかなりの頻度で開いているように思える。
きっと、エーデンブルクの王都の屋敷で年若い愛人に好き勝手にさせているのだろう。そういえば妹のエリザも国をほったらかして、他国に宮殿を建ててもらった上、あちこち旅行に行っているらしい。あの子の我が儘は治らないんだろうか。我が儘を許してくれる旦那様でお似合いなのかな。
「旦那様はお若い女性がお好きで散財されるのですね」
「結婚したと聞いたが若い娘だろうな、まったく」
(誤解されていますね。結婚した私はここに居ますわよ、まったく)
「こちらの請求書は王都に送りましょう。こちらで決済することはございません」
クリンガーが提案してアントンと私は勢いよく頷いた。
事務官アントンは隈が取れるとハンサムになった。栗色の髪に碧い瞳の美青年だ。鍛えているのか体格も良い。まあ旦那様と仕事をするより、こちらの事務官と仕事をした方が目の保養にはなる。妹のお陰でこの屋敷に来るまでに、まるで呪いのように重なって出来た幾つもの眉間のしわも減るというものだ。
「侍女が食品庫の隅に置いてあったと──」
ある日、クリンガーがカートに乗せて重そうにしずしずと執務室に運んできたのは木枠の箱に入って、シルクの布で丁寧に包まれた大皿だった。
「何だこれは」
「皿ですね」
「こんな皿をどうするんだ」
それは極彩色に絵付けされた白磁の絵皿だ。一枚一枚違う模様で、見も知らぬ異国の花や鳥の絵もある。
「この大皿は磁器ですし絵柄もよろしいかと」
私が進言するとシンプルで実用的な皿が好みのアントンはあっさり皿を見捨てる。
「そうか、王都に贈るか? 若い嫁が喜ぶだろう」
(そりゃあ、私なら喜ぶけれど、旦那様の側にいる年若い愛人はどうなのか)
「ヘレナ夫人、そんな嫌そうなお顔をされてはいけません」
(しまった。淑女の仮面が剥げた。クリンガー侮るまじ)
アントンはクリンガーの言葉で私をチラリと見て、贈り先を変更した。
「先頃の戦で勝ったプルーセンか、帝国の救国の将軍も趣味が良いと聞く」
「さようでございますね、ここは帝国の将軍に恩を売っておけばよろしいかと。それにしてもヘレナ夫人は磁器とかよくご存じで」
「交易とか手広く商売をしている商会で見たわ」
「さようで」
(ヤバイ、バレるかしら。…………)
バレた所でどうという事はない、なにしろ私は正妻なのだから。ふんぞり返ろうとしたが、それより溜め息が転がり落ちそうで慌てて仮面をかぶり直す。
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