臣くん

◇◇◇


 午後二時。


 私は藍色の暖簾をくぐって、休憩処にたどり着いた。バニラの甘い香りを背負ったキリヤ君は、キッチンではなくカウンターに座っていて、私をふり返って緊張気味に口角を上げた。


「志乃ちゃん、いらっしゃい。待ってたよ」

「どないしたん?ガチガチやん」

「わかる?」


 キリヤ君の声は張りつめていた。私はキリヤ君の隣に座り、キリヤ君の狐面を見つめる。


「これ、昨日おとさんにもらったんだ。俺が拾われたときに持っていたものだって」


 キリヤ君が小さな木箱をカウンターに置いた。


「まだ、中を見てない。志乃ちゃんと一緒に見たくて」


 キリヤ君の上ずった声には期待や怯え、不安が混じっている。私もその緊張が意図するところを理解した。身が引き締まり背筋が伸びる。


 木箱の蓋を今すぐ開けてしまい気持ちと、また希望を失うかもしれない恐れが身体を行きかう。


 キリヤ君も私も、この箱の中にあって欲しいと思っているものは同じ。



 お守りだ。



 美月さんと臣くんがお揃いで持っている藍色のお守り。それが拾われたときのキリヤ君の持ち物だとしたら、証拠は十分。キリヤ君が緊張の面持ちで箱の蓋に手をかける。


「いくよ」


 キリヤ君がそっと箱を空ける。ふわふわの白い綿の上に大事に置かれていたのは。藍色のお守り。美月さんとお揃いの桜の刺繍。


 私は思わず両手で口元を覆った。休憩処に私の震え声が響く。


「……嘘みたいや」


 声にならない声を飲み込んだキリヤ君がぐっと拳を握る。私は顔をあげてキリヤ君の狐面を見つめる。 


 私は言葉を飲み込んだ。ただキリヤ君がどうしたいのか、聞きたくて、狐面を見つめて待った。キリヤ君も何度も息を飲み込んで、言葉を選んだ。


「……俺、志乃ちゃんのたった一人の特別になりたい」


 狐面がゆっくりと私を見つめ返す。キリヤ君は立ち上がり、藍色のお守りを乗せた大きな手の平を私に差し出た。


「俺を、見つけて欲しい」


 キリヤ君の覚悟に私はごくりと喉を鳴らした。キリヤ君の手の平に置かれたお守りの上に手を重ねて立ち上がった。


 私たちは檜のカウンターの前に立ち、向かい合う。


「私がキリヤ君を……本当の姿に戻してあげる」 


 キリヤ君がこの休憩処で何度も口にした言葉を私が紡いだ。大丈夫。キリヤ君の本当の名前、間違ってない。キリヤ君は消えたりしない。でも、また失うかもしれない予感が怖かった。


 胸の内からどんどんと鼓動が叩きつける。私を落ち着かせるようにキリヤ君がにっといつものように笑う。


「亀岡で志乃ちゃんに会えて良かった。消えても、悔いないから」

「消えるなんて許さんわ」


 私とキリヤ君は自然とお互いに両手で両手を握り合う。二人で一緒にお守りを握り締めた。もう決して消えないと誓いあうように強く握った。


 この十年間。とても、長かった。


 私は幼く、無力で、独りよがりだった。毎日寂しくて悔しくて苦しくて。けれど、どんなに霧が濃くて前が見えなくても、どこに進んでいるのかわからなくて、愚かなことをし続けていたとしても。



 彼にもう一度、会いたかった。



 化け暮らしのことなんて何も知らないまま、もがき苦しみ霧の中を彷徨い続けた私は、誰より滑稽だっただろう。


 でも臣くんを探し出すのは、

 臣くんを取り戻すのは、

 臣くんを本当の姿に戻すのは。


 誰より霧に抗い続けた


 ────この私だ。


 静かな休憩処に漂う甘い香りがほのかに鼻先を掠める。パンケーキの幸せの気配を今、つかみ取る。


 ここは化け暮らしの休憩処。

 ここではみんなが、本当の姿に戻る。


 私は声が震えないよう、透る声で言った。




「桜沢臣くん……見つけた」




 私の声が店の静寂に吸い込まれると、キリヤ君の狐面が床に落ちた。からんと無機質な音がして、キリヤ君の素顔が露わになる。


 白髪がみるみる美月さんと同じ濃い茶色に色を変え、キリヤ君の背は少し縮み、顎元がすっとして顔の印象を変えた。キリヤ君の瞑った目が恐る恐る開く。


 私は彼を知っている。私たちが配り続けてきたチラシに載せた大人になった臣くんの似顔絵に、彼はとてもよく似ていた。


「俺、生きてるよね?」


 首を傾げて、にっと笑ったのは───


「……臣くん!臣くん、臣くん臣くん!あぁあ!」


 私が臣くんに勢いよく飛びつくと、私を支えきれなかった臣くんは後ろにひっくり返ってしまった。


 私は臣くんを床に押し倒して抱きついて抱きしめて、彼がここにいるのを全身で感じた。涙も声も噴き出て意味をなさなかった。


「志乃ちゃん……!」


 臣くんが両腕で強く強く抱き返してくれて、臣くんも私の頭に素顔を押しつけて咽び泣いた。空っぽだった私の腕の中に、臣くんが帰ってきてくれた。


 もう、何もなくていいから、それだけで良かった。





 どれくらいそうしていたか。臣くんを押し倒して上に乗ったまま泣きじゃくって抱きしめ合っていたら、休憩処の扉ががらりと開いた。


「あ、志乃ちゃんこれはちょっと見られると良くないかも」


 キリヤ君、ではなく臣くんのしまったという声と共に私ががばっと身体を持ち上げる。なっちゃんとりっくんが揃って帰宅だ。


 そういえば、放課後は休憩処で遊ぶと今朝言っていた。りっくんの大きな声が響く。


「志乃ちゃんとキリヤ兄ちゃんが、いやらしいことしてるー!」

「待って、りっくん。あの人キリヤ君じゃない!どうしよう!」


 なっちゃんがあわわと手を振り回す。りっくんも一歩後ずさった。


「志乃ちゃん、浮気者!キリヤ兄ちゃんが泣くよ!」

「志乃ちゃん……どうして」


 なっちゃんは涙目だ。そそくさと距離をとった私を見て、臣くんは首筋を指でかいた。


 私は泣き腫らした顔を隠そうともせず、りっくんとなっちゃんの前に両膝をついて目線を合わせた。


「二人とも聞いて。彼は臣くん。行方不明やったりっくんのお兄ちゃんや」

「え?!」

「キリヤ君が……臣くんやったねん。消滅の呪いが解けたんやで」


 りっくんがあんぐり口を開けて臣くんを見つめる。臣くんはにっと口だけでなく美月さんによく似た目も細めて、好青年の大きな笑みを見せてくれた。


 これが、キリヤ君がずっと狐面の奥で見せてくれた笑顔なのかと思うとまた、目頭が熱くなった。


「キリヤ君が、りっくんのお兄さん?」


 なっちゃんは口をぱくぱくしている。りっくんは少しずつ状況を理解し始めて、ごくりと息を飲んだ。


「ぼ、僕が食べちゃった……臣くん?」

「帰って来るのが遅れてごめんね」


 臣くんも床に屈んでりっくんを下から覗き込み、また大らかににっと笑う。臣くんが素顔で笑うたび、私はこれが現実なのだと実感した。


 りっくんは拳をぎゅっと握り締めて、声を震わせた。


「全食いして、の、呪いかけて……ごめんなさい」


 りっくんは小さな頭を懸命に下げて、彼にできる最大の誠意をもって謝罪した。


 私は子どもの頃の臣くんを知っている。そして、大人になった臣くん、キリヤ君と過ごしてきた。私は彼がりっくんに何を言うか知っていた。


 臣くんはにっと笑ってりっくんを両腕で強く抱きしめた。


「いいよ!弟の失敗を許すのはお兄ちゃんの務めだから!」


 初めて休憩処を訪れたあの日。なっちゃんを一つも責めなかった彼を、私は覚えている。


 弟妹の失敗を許せる範囲がどこまでも広い。私が知っている桜沢臣くんはそういう人だ。


「ごめんなさい、ごめんなさい臣くん……!」


 臣くんに抱きしめられながら、りっくんは何度も謝って涙を零した。臣くんはりっくんの謝罪を全部受け入れた。


「りっくんあのね、実は俺、呪いのおかげで手に入れたものもいっぱいあるんだ」


 臣くんは泣きじゃくるりっくんを右腕に、左腕にちょいちょいとなっちゃんを呼びよせて抱きしめた。


「可愛い妹とまるっこいお父さん。それに俺がいなくならなかったら、りっくんも弟にならなかったかも!」


 臣くんがいたなら、美月さんがりっくんを育てることはなかったかもしれない。


 臣くんが二人を抱きしめると、なっちゃんはキリヤ君の香りだと小さく零し、安心して臣くんに抱きついた。


「だから、俺は十年間、パンケーキ修行に出ていたことにしよう!」


 臣くんが子どもたちの顔を見てにっと大きな声で言うと、なっちゃんが大笑いした。


「キリヤ君、じゃなくて。臣くんのパンケーキだーいすき!」


 しゃくりを上げ続けるりっくんと、笑顔のなっちゃんを両腕に抱いて、臣くんは笑顔を弾けさせた。


「志乃ちゃん見て!俺、妹と弟、両方いる!」

「最高やな!」


 店が割れそうなほど盛大に拍手して笑いながら、私は泣いた。










────────

次回最終回。18時更新です。

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