化け暮らしの休憩処
りっくんは、臣くんの母、美月さんの「義理」の息子だ。
美月さんが臣くんを失った悲しみで潰れそうなとき、市役所から要請を受けてりっくんを養子に引き取った。
市役所からの要請なんて特異だ。しかし、美月さんは庇護対象を持つことで仕事をするまでに社会復帰できた。
りっくんの存在は美月さんを救ったのだ。要請をかけた市役所の良い判断だったと私は感謝している。
「
「たけきりだぬきって、あの昔話の?」
私が首を傾げると、りっくんを中心とした小学生たちが私を見て大きく頷いた。そんなものいるわけがないとぷいとする子もいる。
夜になると竹をちょきちょきと切る音がする。だが朝になっても竹は切られておらず、それは狸の仕業だという。
なんとも無害な狸のあやかしの話だ。
「何人もチョキチョキの音を聞いたって!」
りっくんが私の腰の袴を握ってぐらぐらと揺らしてくる。
「ねぇ!志乃ちゃんなら強いから、あやかしに負けないよね!本当に竹切狸がいるか見て来てよ!ね!」
りっくんの発案に小学生たちが一気にきゃいきゃい沸き立った。
「りっくん、それはええ考え!」
「志乃ちゃんなら怖いものないはずや!」
「志乃ちゃんがもうすでに鬼みたいに怖いからな」
「誰が鬼やねん」
「お願い志乃ちゃん!」
りっくんにゆらゆら揺らされながら隅に配置された時計を見る。稽古の時間が迫っていた。
大盛り上がりの彼らに、私の指導の声を届けるためには一旦の終着地点が必要だろう。
私はりっくんの手首を取って、くるんと回し、ぽすんと背中を畳に落とした。畳にごろんとしたりっくんの視界に入って、笑いかける。
「志乃ちゃんがほんまにあやかしがおるか見て来たる。その代わり今はしっかり稽古するんやで」
「はぁい!」
耳がキンとするほど大きな声で返事をしたりっくんと笑い合う。
「竹切狸はどこで出たん?」
「あのでっかい武家屋敷の裏!」
またあそこか。
狐面男が思い浮かんで、私はきゅっと身を引き締めた。本当に、怪しいことをしている可能性もある。
指導と自身の稽古を終えた私は道場の戸締りをし、深い夜が訪れてもまだ蒸し暑い外を歩き出す。また薄い霧が出始めていた。
夜の夏霧。発生しないこともないが、多くもないはずなのに。
「変な霧や……」
私は噂の武家屋敷を目指した。
竹切狸の目撃情報があったのは、実家の道場から南下し住宅街を抜け、人気が薄れた先にある竹林だ。その竹林は武家屋敷の裏庭のように見える。
鬱蒼とそびえ立つ竹藪の前に立った私は、この中に入るべきか思案した。敷地内だとしたら、勝手に入ると不法侵入だ。
薄い夏霧がまとわりついて視界も悪い。
私は袴の襟元を正してから、持って来た懐中電灯で竹林の中を照らしてみた。長い影と光の筋が交互する。霧のせいで奥までは見えない。
「何もおらんな」
りっくんとの約束は果たしたと踵を返す。すると、竹林の奥から音が聞こえた。
ちょきちょき。ちょきちょき。
鋏を使う時のちょきんと鋭い音ではない。ぼそぼそとした人の声だ。がさりと藪が動く気配。私は構えを取って竹林を前に捉えた。
「誰かおるん?!」
私の声が竹藪に吸い込まれ、子どもの泣き声が返ってきた。
「キリヤ君たすけて~ちょきちょきとまらないのキリヤ君~!」
私は反射的に跳び上がり、すぐに霧の竹林に足を踏み入れた。がさがさと素早く藪の中を分け入り、泣き声を追いかける。
竹藪の奥。声の先では、一本の竹に抱きついて女の子が泣いていた。
くりんとした長い髪で桃色の浴衣を着た彼女は小学生、りっくんと同じ四年生くらいに見える。顔立ちの愛らしい少女だが、丸い目だけが紅く光って見えた。
「大丈夫?どっか痛い?」
「ちょきちょきしたいのが止まらないの~!うぅ~ちょきちょき~」
竹にしがみついて泣く彼女の身体をざっと観察する。特に怪我は見つからないが、ちょきちょきが問題らしい。
おそらく彼女も竹切狸の噂の真相を確かめに来た一人なのだろう。一人で来るなんて無謀だが、勇気がある。
「う~ちょきちょき~」
「おいで」
私は泣き続ける彼女をひょいと抱き上げた。日々鍛えた筋力の使いどころだ。
少女を抱いたまま藪を戻りコンクリートの地面に下りると霧が晴れてきた。とんとん彼女の背を撫で続ければ、少しずつ嗚咽が止む。
霧が晴れた夜の下で見る彼女の目は、充血しているが黒色だ。紅く光って見えたのは気のせいか。
「お家はどこ?送って行ったるよ」
「……そこ」
彼女は私の襟にぎゅっとしがみつき、小さな手で指さした。指さした先は、武家屋敷。やはりあそこか。何かしら問題のある家のようだが、行くしかない。
「キリヤ君、怒ってるかも……」
「心配せんでええで。お家の人怒っとったら
武家屋敷の前に到着した私は、古い土塀に囲まれた堂々たる長屋門を見上げた。
「古くて、ええ門構えや」
築百五十年はあるだろう歴史ある風格。重厚な木扉の前には藍色の大きな暖簾がかかっていた。
暖簾の端に小さく『化け暮らしの休憩処』と書かれている。この武家屋敷で何か店をやっているらしい。抱っこしたままの少女に訊ねた。
「ここは何のお店?」
「パンケーキ!甘くてふわふわで、おいしいの!キリヤ君が作るパンケーキだ~いすき」
瞳を潤ませた少女はふにゃりと、自慢げに笑った。武家屋敷でパンケーキ。和カフェだったのか。私には縁のない店だ。
初めて笑みを見せてくれた少女の背を優しく撫でてから、重い木扉を押し開けた。インターホンがないのだ。
少女を抱き直してゆっくり門をくぐると、そこは別の時代のようだった。
夜の月明かりに照らされた切妻造の荘厳な瓦屋根。武家屋敷のどっしりした質実剛健の佇いに、圧倒される。
けれど飛び石に導かれてたどり着いた玄関の硝子戸の奥には、淡い橙の柔らかい光が灯っていた。
「お家の人は誰かおるよな?」
「キリヤ君は夜も店にいるよ。パンケーキ作るの大好きだから」
硝子戸の前にはまた藍色の暖簾。私は暖簾の奥、硝子戸に手をかける。からから小気味よい音を立てて戸は簡単に開かれた。
藍色暖簾をくぐり店に一歩入ると、バニラエッセンスの甘い香りにふわっと包まれる。
広大な武家屋敷のわりに、店自体はこじんまりだ。
店に入って二歩正面で、控えめな光沢と木目が繊細な檜のカウンターにぶつかる。席は五つだけ。
カウンターの上には大きな円形和照明が釣り下がっている。三つの和照明が放つ橙色で、木造りの店壁は
檜に胡桃、淡い橙が混じり合い、どこか丸い気持ちにさせられる風合いの店だ。
左奥の上がりには四畳ほどの畳座敷がある。座敷の茶棚からはおもちゃが溢れ、丸ちゃぶ台の上に狸のお人形。座敷は子どもの居場所なのかもしれない。
檜のカウンター向こうのキッチンに、やはり顔の上半分だけ狐面の男がいた。暖簾と同じ藍色の単衣を纏い、白いエプロンをつける彼はどうにも人と違って妖しい。
「こんばんは」
カウンター奥の彼に声をかけた。調理に集中していたのか、扉が開く音にも気がつかなかったようだ。
やっと顔を上げた狐面男があっと口を開けた。
「え……こんばんは、って!なっちゃん?!何で?!寝てたんじゃ!」
「キリヤ君、勝手に出てごめんなさぁ~い!」
私の腕から下りた少女はわっと泣き始めた。狐面男が、キリヤ君だったようだ。
「待って待って、泣かないで!」
「だって夜出たらダメだもん。悪いことしたもん怒られる~」
上背のあるキリヤ君は、ばたばた足音を鳴らして手を拭きながらカウンターから飛び出してきた。彼は急いで少女の前に膝をつく。
「俺がなっちゃんを怒ったことある?!それはどこのキリヤ君?!」
「……あ、怒られたこと、ない」
「だよね!」
にっと大きな口を広げた狐面の彼は、長い両腕を広げて少女を招き入る。愛称で呼ばれたなっちゃんは躊躇せずその腕に飛び込んだ。
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