霧のテラス
日中よりわずかに涼しい風がある早朝の道を、私は息を切らしながら走っていた。
袴では走りにくく、重い足を無理やり前へ押し出す。私が日常的に袴を纏うのは、いついかなる時も最も合気道の技を繰り出しやすい格好を求めるからだ。
私は神隠しがあったあの日。
スカートで出かけ、臣くんを家に送らなかった。警戒心なく腑抜けていた私の罪を、ずっと噛みしめ続けている。
じゃりじゃりと激しく足音を立てながら、薄い霧がかかる土道を駆けあがり、亀岡を一望できる霧のテラスまで一気に上り切った。
霧のテラスなんて情緒ある名だ。だが実際は山の上にある閑散とした土の広場で、ぽつんと一つベンチが置いてあるだけ。
私は乱れた息を整えながら柵に手をかけて街を見下ろすと、亀岡盆地は霧に覆われていた。
霧のテラスは標高が高く、霧の上に出ることができるため雲海が見える。
眼下に眺める霧は海のように白く波立っていた。透き通った朝陽で白む霧を見ていると、その上を歩いて行けるような気がする。
臣くんが霧の上を歩いて行ってしまったのだとしたら。
もうそんなことも考え飽きた。
『俺……志乃ちゃんが大好きだから、彼女になって!』
雲海を眺めながらまた、あの日の臣くんが頭を掠める。
毎朝、夜明け前に家を飛び出し、限界まで身体を痛めつけるように走り抜け、霧のテラスを終着地点にしている。
臣くんに告白してもらったこの場所を毎日踏みしめ、私は私を罰す。
合気道家として修行の身である私の日課だ。
臣くんがくれた言葉を、今も覚えているのに。
臣くんはどんな声だっただろうか。
どう見ても素晴らしいはずの雲海の絶景を、私は誰よりもここで見続けている。私ほど毎日、霧のテラスに通う人はいない。でも私はこの景色に何も感じられない。
「昨日はそんな……涼しかったかな」
霧は日中と夜の気温差が激しいときに起こる気象現象だ。空気が溜まりやすい亀岡盆地では日常的に霧が現れる。
だがここ亀岡においては、科学的にそこで発生するのが不可解な霧の出方が多々あるという。霧の都、亀岡と呼称される理由だ。
息を整えた私はまるで天への入口のような雲海に背を向け、また走り出した。
代々合気道を生業としている実家の道場へ戻り、師範の父と稽古をして午前中が終わる。
神棚が見守り、しんと張りつめ古色をおびた道場は三十畳の畳が広がっている。
清い道場の中央で、私は師範と正座して向かい合う。父は小柄だが、ぴんと背筋が伸びてしなやかな筋肉がついた凛とした男だ。
「志乃、柔らかくありなさい」
「……はい、精進いたします」
言葉少ない師範は、私に向かってもう十年も同じ指導を繰り返している。
私が正座してきちんと礼をすると、父は立ち上がり道場を後にした。父が去った道場で面を上げた私は、古色の木天井を見つめてため息をつく。
堂々巡りだ。
私は固くなり、前へも後ろへも、一歩も動けていない。その事実を、師範は私に突きつける。
稽古を終え、小学生の下校時間になると、私は見守り隊の襷をかけて小学生の通学路をまた走り回る。
通学路の各所に立った、私と同じ襷をかけた地域住民たちと会釈を交わす。チラシ配りや見回り隊として顔を合わす彼らだ。だが、親しいとは言えない。
彼らは合気道家として名家である倉田家の一人娘としての私を、認めてはくれている。声援もくれる。
だが合わせて、神隠し事件への私の執着が異常だとひそひそ声も聞こえる。そんな横を走り抜ける。
走る、稽古、また走る。これが、判を押したような私の暮らし。
いつも通り彼らを通り過ぎようとすると、一人のお喋り好きおばさんの木村さんが私を引き止めた。
「ちょっと志乃ちゃん、聞いてや」
木村さんはもっと女らしくしないと嫁にいけない、神隠し事件はもうお蔵入りだと、余計なお言葉だけを放つ人だ。
「隠れ橋の向こうの大きな武家屋敷。この前、引っ越して来たやろ?玄関前で若い男の子が掃除しとってな、挨拶してくれたんや」
「そうなんや。それで?」
「その子、若いのに白い髪でな……顔の上半分だけ狐のお面してんねん。やらしいやろ?」
あいつか。
先日チラシ配りの最中に見かけた和風ピエロの怪しい男だと断定した。あんな容姿の男はそう何人もいない。
木村さんが言う武家屋敷は長く無人だった。だが、改装されて、近ごろ誰かが越してきたことを、このあたりの住民は皆知っていた。
そこの住人が、狐面男ときた。
「志乃ちゃん、よう見といてや。悪いことするかもせえへんよ」
「武家屋敷の周りは、よう通って警戒するわ」
木村さんの危機感もわかると頷き、私は見守りパトロールに戻った。噂の狐面男がわざわざ面を被る理由を教えてもらいたいところだ。
神隠しのあったこの亀岡で、不用意に住民を怯えさせるのはやめてほしい。
夕方になると、実家の道場で合気道教室が始まる。小学生たちの指導は私の役目だ。
私が道場へ上がって礼をすると、すでに道場に集まった小学生たちの声が古天井に響いた。
「ほんまやって!うちのお母さんが聞いたって!」
「そんなん嘘に決まってる!」
「あやかしなんか、おらん!」
袴を着た小学生たちがきゃいきゃい集まると、古道場に活気が溢れる。神聖で厳かな道場に、明朗な命が灯った気配。
私は一日でこの時間が一番好きだ。
「お前があやかしかも!」
「オレは違うわ!」
あやかしはいる、いない論争。
不思議な霧の都、亀岡には令和の今でもあやかし伝承が色濃い。小学校の授業でも地域の勉強として取り上げられる題材だ。
そんな亀岡の小学生たちの間では定番の話題、あやかし論争。何度でも話題に上る。
「あやかしかどうかなんて、見たらわかるやん!」
「じゃあお前は今の僕のパンツの色わかる?」
「知らんわ!」
「ほらみろ!隣にいる人間のことも全部わからないくせに、あやかしがいないって決めつけるなよ!」
なかなか鋭い指摘だ。
隣にいる近しい人間であっても、全てなんて、わからない。それに私たちは誰もが少しずつ、外行きの化けの皮をかぶって暮らしているようなものだ。
子どもらしい柔軟な視点がある有意義な議論だが、指導係として私は小学生たちに注意をする。
「静かにしいや、りっくん」
私は鋭い指摘を繰り出したりっくんに声をかけた。
彼は他の子と比べて頭一つ飛び抜けて賢い。この年にしては特に合気道の筋もいい。
「志乃ちゃん!聞いてよ!」
短い黒髪に日焼けした肌が溌剌としたりっくんが振り向いた。
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