七つ国
かふぇ猫。
橙の国アグノス編
第1話 朗らかな朝の陽気に包まれて
爽やかな風が吹き抜ける草原。ずっと遠くまで緑が一層と生い茂る中、あなたは一際大きな樹に目を魅かれるだろう。およそ一目では全容を捉えることの出来ない其れは、風を一身に受けて尚、泰然という言葉を具現化した様相で、あなたの目を奪う。それでいて、ざわざわと枝葉が揺れるように、風が安らかに肌を撫でていた。
「ん~、良く寝た…」
寝袋から出た上半身で、早朝の湿り気を持った風に冷たさを感じながら、隣に眠る天使のような少女に目を落とす。
色白の肌に長く澄んだ
「ん、お兄ちゃん、おはよう…」
まだ重い瞼をこする。唯一明るい金色の瞳がきらめきを現す。兄と呼ばれた少年は少女へと挨拶を返した。
「おはよう、シノン。よく眠れた?」
兄の問いかけに頷きながら、少女は膝枕を要求するように、身体を兄の下半身へと投げて寝転ぶ。
「…もう少しだけ、寝たい」
「そっか」
妹の頭を撫でて柔らかく笑う。途端に大きな声がした。
「だめでしょ~~~~~!?!?」
叫ばれた言葉に少年は驚き、声の方を見ると耳元で妖精が飛んでいた。小柄な体格で、綺麗な羽が生えた女性個体のピクシーが、何やら怒っている様子で少年に感情を向けていた。
「ベ、ベネト。起きてたんだ」
「もちろん、あんた達が起きないように早起きして今日の支度をしてましたけど!?いつも通り、ね!!!」
「ありがとう」
「どういたしまして!!!」
ベネト、と呼ばれた妖精は、勢いで受け答えを返す。どうやらかなり感情が昂っているようだ。
「なんでそんなに怒ってるんだ?」
「なんで、もないでしょ~!?いつも言ってるじゃない、あんまりシノンを甘やかすなって!!そろそろ出発しなきゃ街に着くのも遅くなっちゃうでしょ~!?」
「ご、ごめん」
「分かってるならいい!!」
ベネトの声に起きた様子のシノンが声を出す。
「…んぅ~…ベネトうるさい…」
「うるさいじゃないわよ!!早く起きなさ~い!!!」
年季の入ったキャンプ用の鍋がコトコトと焚火の上で音を奏でている。ベネトに半ば無理やり起こされて、顔を洗ったシノンは元の場所に戻って寝ようとすると、また叱られた。少年はベネトを
「じゃあ、そろそろ行こっか」
「…ちょっと」
なんだか不服そうに少年の方を見る妖精。含みがある様子だ。
「どうしたの?」
「どうもこうも…それよ、それ」
ベネトは少年を指さして答える。少し大きなリュックサックを前に持って喋る少年の背には、シノンが気持ち良さそうに眠っていた。
「…いつも言ってるけどね。あんたが甘やかすのもいけないのよ、アッシュ。私も事情は聞いてるからあんまり強くは言わないけれど、この子のためを思うと、やっぱりもう少し厳しくした方が良いと思うわ」
ベネトの言葉にアッシュと呼ばれた少年は笑って応える。
「僕はもう、こうするって決めたから。それに、いつだってベネトが叱ってくれるだろ。それでいいと、僕は思う」
「…私も大概、甘かったか」
諦めたように少し前に進み、アッシュの方へ振り返る。
「それで、これからどうするんだっけ」
「昨日国境を越えたから、此処から南東に進んで首都のダリアを目指すよ。情報収集がてら、他の街にも寄りたいね」
アッシュの答えにベネトはふーん、と呟く。
「失った記憶を取り戻すため、か。自分では思いだせそうにないんでしょ?」
「そうだね…妹のこと、両親が死んでいること、そして、僕らの記憶を奪った奴が居るってこと。それだけは覚えてるんだけどね」
残念そうな顔をする。
「ホント、何にも知らないのに身二つで家を飛び出してるんだもん。私が居なかったらあんた達、とっくにのたれ死んでたわよ。今頃白骨よ、白骨」
その言葉にフッと吹き出して笑うアッシュ。
「僕たちが居なかったら死んでたのはベネトだけどね。蜘蛛の巣に引っかかって食べられそうになって…」
わー、わー!と大声で誤魔化す。
「わ、分かってるわよ。それについてはもう礼も言ったでしょ!」
「うん、僕たちも感謝してるよ。
何を言うのよ…と照れて顔を赤くする。恥ずかしくなったのか話題を戻した。
「…記憶を辿ることの出来る占い師、ホントに
少し気がかりな様子を見せるベネトにアッシュが答える。
「そんなに不思議かな?ミネルバ様の占星術ではこの国に居るって出たんだし、そこまで心配することじゃないでしょ」
それはそうなんだけれど…と口を少しもごもごさせる。
「記憶を見る、くらいなら出来る者も数人知っているけど、辿る、となると…
「そっか。でも、僕たちにとっては居てくれた方が好都合だ」
アッシュの明るい声音に、難しく考えるのをやめるように笑うベネト。
「そうね、とりあえず会ってみなきゃ、終わりも始まりもないわ。危なかったら、直ぐに私が守ってあげるんだから」
ありがとう、と言ってアッシュは歩き始めた。
草原の道を進んでいく。整備をされているわけではないが、人が通るための道自体は引かれているから、歩きやすくはある。
「大国ってだけで違うね。こんな端の道でも十分に歩きやすい」
地図を見て現在地を確かめながら言う。
「まあ、そうでしょうね。あんたが居たのは小国だし。それも、あんたの出身ですらないんでしょ?」
「多分、ってとこかな。国境を越えたかは分からないけど、僕たちの始めに居た家からは、随分と長く歩いていたから」
「それももう道が分からないし、帰る当てもない。呆れるわねぇ…」
肩をすくめてため息をついている。
「元々帰るつもりもないからね。もう待ってる人も居ないし」
「…そうね、今後は妖精郷があるし」
「それにしても広いなあ。街が全然見えてこないや」
領土の広さに今更ながら感心を見せる。
「村はあるけれど、街は…そうね、このまま道なりに行けばプロテアの街が見えてくるはずよ」
「プロテア?」
「橙の国の主要都市の一つよ。書いてあるでしょう?他にミモザ、オレンジ、オーニソガラム、スズランがあって、国の中心に首都のダリアが置かれているわね。私が来たのもかなり昔の話だけど、繁栄はしていたと思うわ」
「そこに居ればいいんだけどね。まあ、行くだけ行ってみるさ」
そうね、と返事をする。アッシュの背では、一人、クークー寝息を立てている。
随分長く歩いていると、大きな壁が見えてきた。
「あっ、あれじゃない?」
ベネトが先に飛んで指をさす。
「そうみたいだね。ようやくちゃんとした寝床に寝かせられるよ」
フー、と一息つく。シノンがパチリと目を覚ました。
「お兄ちゃん、重い…?」
「ん?大丈夫だよ、もう少しでベッドに寝かせてあげられるからね」
「…んぅ」
眠たげに返事をする。
門を
「賑わってるねえ」
「市場だから、というわけでもなさそうね。全体的に、人が騒がしいわ」
「早めに宿屋を探さなきゃ」
「そうね。あそこで地図が買えそうよ」
指の先には本屋があった。そこで地図といくつか新しい本を買って宿屋に向かうことにした。
「いらっしゃいませ。お泊りですか、休憩ですか?」
「泊りで、二人とピクシーが一人。お願いできますか?」
「もちろんですよ、少々お待ちください」
アッシュの要望に笑顔で応じる。
「それにしても、街が結構賑やかですね。いつもこうなんですか?」
その問いに少し驚いた様子を見せる。
「お客様、もしかして知らずに来たのですか?」
「ええ、まあ」
「そうですか。今年は式典がある年でして、もう数日ほど経てば式典当日ですから、皆浮足立っているんですよ」
「式典?」
「建国記念式典よ。前に教えたじゃない」
ベネトがフォローを入れる。
「ああ、それか。ということは、王も降りてくるんですね」
「そうです。橙の国では五年おきとは言えども、
にこやかに笑う。
「それでは、二名様とピクシーが一名様ですね。こちら203号室の鍵でございます。二階に上がって突き当りを右に進んだ先にある扉からお入りください」
「ありがとうございます」
銀をいくらか払って、手渡された鍵を受け取り、部屋に向かう。
「ふ~、少し疲れちゃったな」
荷物を下ろして妹をベッドに寝かせた後、アッシュは椅子に座って一息ついた。
「ありがとう、お兄ちゃん」
仰向けのままに礼を言うシノン。
「大丈夫、少し休んだら僕は情報収集に出てくるよ」
「結構歩いたからねぇ…もう外も少しずつ暗くなってきているし、私が行ってくるから休んでてもいいのよ?」
ベネトの申し出に首を振る。
「本格的には明日から動こうと思ってるし、街を見回っておきたいと思ってさ。それに、もしもの時は僕よりベネトの方がシノンを守れるから」
「…わかったわよ」
複雑な顔で首肯するベネト。
夕飯を済ませた後、街へと出ると、既に店仕舞いを済ませているものが殆どだった。昼間の賑やかさが一転、静かに街灯の光に当たりながら過ぎ去っていく幾人かのみで、アッシュは少し不思議な気持ちになった。
道なりに進んで街の中心に向かうと、大きな階段が見えてきた。宿屋の主の話によると、どうやら階段を上がった先に噴水があるらしく、そこがこの街の名所となっているみたいだ。
「確かにこれは、名所かもなあ」
噴水を見てアッシュは呟く。大きく、そして綺麗だ。整然と均一的に水が流れ、それは芸術と言って差し支えないほどだった。
「新しい街はこういった発見があるから、好きなんだよな」
「気に入ってくれたかい?」
ふと、後ろから声をかける姿があった。
「誰ですか?」
振り返ってその姿を確認すると、これまた綺麗な女性が立っていた。
「すまないね。随分とこの噴水を熱く見つめてくれていたから、思わず声をかけてしまったよ」
きっちりとした綺麗な服装、姿勢の良さ、漂う気品…格式の高さが一目見るだけで分かるほどに格好がいい。高めのポニーテールで纏めた金色の長髪は、街灯に照らされてきらめいていた。
「私はシルヴィア…シルヴィア・スカーレットだ、以後よろしく。君は…見ない顔だな。もしかして旅の者かな?」
シルヴィア、と言う女性は質問を返してきた。
「はい、僕はアッシュです。苗字の方は、すみません…事情があって言うことが出来ないんです」
なるほど、と頷く。
「私も、苗字を名乗るのはあまり好きではない。私とは事情が違うだろうけど、気持ちは少しだけわかるかもしれない」
「そうですか…あの、あなたは此処で何を?」
アッシュの問いに、少し面食らった顔をする。
「なんでもないよ、只の散歩だ。私はこの街が大好きでね…夜は見回りがてら、街を散策するようにしているんだ。昼には業務があるし、あまり出歩くことの出来る仕事ではないからね」
「見回り、とは。治安は良さそうに思えますが」
「旅の者から見てそう思えるのは嬉しいな。ただ…この辺は面倒な輩がたまに居るから、用心にするのは大切だ。君は来たばかりだろう?見て周るのは昼間にした方が楽しめると思うよ。今日はゆっくりした方が良い」
諭す声に素直に応じる。
「ありがとうございます。そうします」
そう言ってアッシュは宿屋の方へと帰った。
アッシュが部屋に戻ると、シノンはもう就寝していた。着替えを済ませているのは、おそらくいつも通り、ベネトが手伝ったのだろう。
「今日は一日中寝てたね」
可笑しくて笑うアッシュ。
「少しは起きて身体を動かさないと…」
「まあまあ。明日は歩き回るんだから、今日くらい許してあげて」
分かってるわよ、と返事をする。
テーブルに用意されている紅茶に口を付ける。
「相変わらず淹れるのが美味いなあ」
「それほどでも、あるわよ」
得意げに鼻を鳴らす。それを見て笑う。何よ、と照れる。少しの穏やかな時間、二人で静かに過ごす。ベネトが口をつく。
「外で何か面白い事でもあった?」
「ん?いや、別に。どうして?」
「少し、楽しそうだったから」
「そうかな。ああ、でも…変な人は居たかな」
「大丈夫だったんでしょうね…?」
怪訝そうな顔をアッシュの顔に寄せていく。
「大丈夫だよ、優しい人だったし。それにしてもあの人、強そうだったなあ。今の僕じゃ勝てないくらいだろうね」
「どうかしらね。その人を見ていないから」
ありがとう、とこぼす。
「そろそろ寝ようか。明日も早いし」
「そうね、おやすみなさい」
ベネトはアッシュの
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