第6話 怒りの渦

拓斗の意識は真っ暗な渦の中を漂っていた。目も耳も使い物にならず、ただ怒りと憎悪が押し寄せてくる。その感情は自分のものではないと感じたが、それがどこから来るのかは分からない。


「お前は逃げられない。受け入れろ。」

頭の中に低い声が響く。あの影の声だ。拓斗はその声に耐えながら、渦の中心へと歩みを進めていった。


「俺に……怒りを受け入れるなんてできるわけがない……でも……止める方法はこれしかないんだろ……!」


足元に何かが見えた。それはこれまでの自分が作った料理――アラビアータの皿だった。皿の中の赤黒いソースが泡立ち、声を発している。


「許せない……お前も許すな……怒れ……!」


その言葉を聞いた瞬間、拓斗の中に抑えきれない感情が湧き上がる。自分が受けた数々の不満、屈辱、過去の失敗――それらが怒りとなって体を支配し始めた。


「……俺は怒ってなんかない!こんなものに負けない!」


だが、怒りは簡単に消えない。拓斗の心の中に残る記憶が次々と浮かび上がる。

• 中学時代、いじめられた記憶。

• シェフとしての失敗を揶揄された日々。

• 信じていた友人に裏切られた経験。


「これが……俺の怒り……?」

心の中にわだかまる感情が、自分自身のものであることを理解した瞬間、渦がさらに激しさを増した。


その時、拓斗はふと思い出した。あの日、古書店の店主が言った言葉。

「怒りを完全に受け入れ、消化することだ。」


「受け入れる……消化する……?」

拓斗は渦の中で立ち止まり、自分の心の奥底を見つめ直すことにした。


「確かに俺は怒ってる。いろんなことに。だけど……怒りだけじゃないはずだ……」


渦の中に浮かび上がった嫌な記憶たち。それらの裏側には、小さな希望や喜びの瞬間も隠れていた。

• いじめを乗り越えた日、親友が励ましてくれたこと。

• 厳しいシェフに認められた瞬間。

• 自分の料理を喜んで食べてくれたお客様の笑顔。


「怒りだけじゃない……俺の人生には、いいこともあった……!」


拓斗は胸に手を当て、深く息を吸い込んだ。その瞬間、渦が少しずつ収まり始めた。


「理解したか?」

影の声が再び響く。だが、先ほどまでの威圧的な響きではなく、少しだけ穏やかに聞こえた。


「怒りは消えない。でも、お前がそれを抱えて生きるなら、連鎖を断つことができる。」

「俺が……怒りを抱えたまま生きる……?」


拓斗は頭を上げた。目の前には影が、先ほどよりも小さな姿で立っていた。その輪郭は、どこか自分自身に似ている。


影は言った。

「怒りは悪ではない。ただ、それに飲み込まれる者が、周囲を破壊する。」

「……じゃあ、俺はどうすればいい?」

「怒りを許せ。お前自身を許せ。」


拓斗は自分の胸の奥にある重たい感情に手を伸ばすようなイメージをした。そして静かに、それを抱きしめた。


「……怒りも俺の一部だ。受け入れるよ……けど、それに支配されない。」


その言葉に応えるように、影が薄くなり、渦も完全に消えていった。真っ暗だった空間に光が差し込み、拓斗は気づけば自分のキッチンに戻っていた。


テーブルの上には、すでに冷めた「最後の皿」が静かに置かれている。その色はもはや赤黒くなく、普通のアラビアータの鮮やかな赤に戻っていた。


「終わった……?」


拓斗が安堵の息を吐いた瞬間、背後で電話が鳴った。それは店の藤堂からだった。


「篠原が目を覚ました。……元に戻ってる。」

「本当ですか?」

「ああ、スタッフたちもみんな落ち着いてる。何があったのかはわからないが、お前、何かやったのか?」


拓斗は電話越しに微笑み、ただこう答えた。

「ちょっと、料理に全力を注いだだけです。」


次回予告

怒りを受け入れた拓斗だが、レシピ本にはまだ未知の料理が隠されている。その中にはさらなる試練が待っているのか、それとも新たな希望が描かれるのか――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る