第3話 命と、それに纏わるモノ

 地上はけがれた場所である。そして、地上にいる生物もまた、けがれている。


 これは、唯一無二の存在であるヤヴァイネの教えである。よって地上の食べ物を口にすることに対し、未だにルシフェラは些か不安を抱えている。頭の隅で、どうしたものかと考えている。なにか良い方法はないものかと考えている。






 天使は様々な奇跡を起こせるが、できないこともある。その最たるモノが、命の創造である。如何に天使といえども、完全なる無から命を創造することはできないのである。もし仮に、ルシフェラが完全なる無から命を創造できるのなら、彼女はそうやって食料を調達するだろう。牛や羊などを創造するだろう。いや、それらは大きすぎる。鳥や小魚を創造するだろう。


 また、命に付随するモノを創造することも天使はできない。血、骨、皮、肉。そういった物を創造することもできないのだ。よって肉を生み出して、それを食べるということも、ルシフェラにはできない。それどころか、果実を創造することすらもできない。それもまた、命に付随するモノだからだ。


 命および、命に付随するモノを完全なる無から創造すること。そういったことができるのは、唯一無二の存在であるヤヴァイネだけである。そのことが、ヤヴァイネを唯一無二の存在たらしめているのである。






 一抹の不安を抱えながら、それを解消する手立てを思案しているルシフェラ。すると程なくして、思い当たる。


 命および、それに付随するモノは創造できなくとも、傷を癒すことはできるのだ───、と。


 そのことに気づいたルシフェラは、すぐに自宅をあとにした。折角の翼をまたしても使うことなく、駆け出していった。そんな彼女のあとを、真っ黒な蛇が追う。真っ赤な舌をチロチロと動かしながら。


 やがて、梨のような果実がなっている木の傍に再びやって来たルシフェラは、か細い腕を伸ばして一つの果実をもぎ取る。そしてそれに噛りつき、その『噛みあと』に右手を添えた。その手に天力てんりきを溜め、「えいっ!」と声を張るルシフェラ。すると果実は元通り。彼女が噛る前の状態に、完全に戻ったのである。それは、ルシフェラによって起こされた奇跡である。つまり彼女は、果実の傷を癒したのだ。


「やった! これなら一つだけ持っていけば、ずっと食べられるわ!」


 喜びに浸るルシフェラは、軽い足取りで自宅へと戻った。またしても翼を使うことなく。






 さて、天使は完全なる無から命を創造できないが、彼女たちは自らの身に命を宿すこともできない。それは、生殖機能の不備によるためである。───いや、違う。不備などと言ってしまうと、唯一無二の存在であるヤヴァイネに不手際があったことになる。そんなことは、あろう筈がない。


 ヤヴァイネは、あえて天使に生殖機能を与えなかったのである。彼女たちは病に掛かるし、ケガもする。そして死ぬこともある。しかしながら天使が死ぬことは、極めて稀である。彼女たちはヤヴァイネから非常に丈夫な───頑丈とも頑強ともいえる体を与えられ、永遠ともいえる程の長さを有する寿命を授かり、安息の地である天上で暮らしている。


 そんな天使が死ぬことなど、そうそうはない。つまり天使は、その数を減らすことなど滅多にないのだ。となると、彼女たちが自ら新たな天使を生む必要などは全くない。もし仮にそんな必要が生じれば、唯一無二の存在であるヤヴァイネが新たな天使を創造することになるだけだ。よって天使には、生殖機能など必要がないのである。


 いや、天使だけではない。天上には様々な生物がいるが、その全てが生殖機能を有していない。だから命を宿すことはできない。その理由もまた、必要がないからである。不足があれば、その都度、唯一無二の存在であるヤヴァイネが新たな個体を創造する。天使と同様に、鳥、虫、花なども。


 よって天上では、オスおよび、オスの機能を有するモノは存在しないのである。そんなモノは全く必要がないのだ。






 食糧問題に片が付き、ルシフェラの心からは一抹の不安さえも消えていた。しかしながら、彼女の心は晴れやかではない。不安は去ったが、その代わりに哀愁が満ちてきたのだ。なぜなら、これからルシフェラはいくつもの別れを迎えなければいけないからだ。それは、あるじであるヤヴァイネと、仲間である多くの天使たちとの別れである。


 先頃、真っ黒な蛇が告げたように、ルシフェラが一度地上に降りれば、この天上に戻ってくることは二度とない。もしも戻ってくれば罰を受けることになり、再度地上に降り立つことはできなくなるからだ。そうなれば、そのあとは人間たちを救うことができなくなる。それは、ルシフェラが望んでいることではない。


 仮に現在地上に存在する全ての苦しみや嘆きをルシフェラが消すことに成功したとしても、彼女がこの天上に戻ることはない。苦しみや嘆きが地上から尽きることはないからだ。新たな苦しみや嘆きが生まれるからだ。


 よって、ルシフェラは人間を癒し続ければならない。だから彼女が天上に戻ってくることは永遠にないといえる。つまり人間を救うということは、あるじであるヤヴァイネとの、同僚である多くの天使たちとの、永遠の別れを意味しているのだ。


 そんなことだからルシフェラの心には哀愁が満ちてきたのである。そしてそれは涙に姿を変え、溢れてきた。よって彼女の頬はまたしても濡れるのであった。するとルシフェラは力なくイスから立ち上がって、ベッドへと向かい、倒れ込む。ポフッという微かな音と共に柔らかな布団が彼女の体を受け止めた。更には、止めどなく溢れる涙さえも受け止めた。


 程なくすると、家の外から鐘のが聞こえてきた。カランッ、カランッ、カランッと逞しくも優しく鳴り響く音色。それは、夜の訪れを知らせる音だった。








 それなりに長い時間、涙に暮れているルシフェラ。だが、陽は暮れていない。夜の訪れを知らせる鐘のは随分と前に鳴った。つまり、もう夜になっているワケだ。しかしこの天上では、夜になっても陽は暮れない。そういうことだから天上における夜は、昼とほぼ同義といえる。陽は一向に沈まず、あらゆるモノの影が自ら角度を変えることはない。天上は昼夜を問わず常に光に溢れ、闇がその姿を空に現すことは、欠片ほどもないのだ。


 そんな中、ルシフェラの目からは未だに涙が溢れている。空に溢れる光に負けじと溢れている。穏やかな天上の様相に反するように、彼女の心は穏やかではない。永遠の別れを切に感じ、ルシフェラの体は小刻みに震えている。しかしながら彼女が声を漏らすことはない。ただただ黙って泣き暮れるのみだ。そんなルシフェラの姿を真っ黒な蛇はまたも見ている。またしても、真っ赤な舌をチロチロと動かしながら。



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