第2話 地上に降りるための準備

 真っ黒な蛇の言葉を受け、地上に降り立つ覚悟を決めたルシフェラ。そうして彼女は、すぐに準備に取り掛かった。


 ルシフェラは地上のことを多少は知っているが、あくまでも多少である。彼女が知らないことは多分にある。だから充分な備えをして、不測の事態が起きても対応できるようにしておかないといけない。準備に不足があっては、困ったことになるだろうから。そんなことを思ったルシフェラは、とある木の傍へと来ていた。


「六個・・・、七個・・・、八個・・・」


 個数を確認しつつ、自身と同じくらいの背の高さの木々から梨に似た果実をもぎ取っているルシフェラ。そんな彼女の姿を見て、真っ黒な蛇は問う。


「おいおい、なにをしてるんだ?」


 言葉を発することはできても、表情は変えられない蛇だが、しかし怪訝な思いをいだいていることはルシフェラに伝わった。声の調子がそれを物語っていたからだ。


「食べ物を集めてるのよ。地上に降りてからの生活を考えると、食べ物は必要でしょ?」


「いやいや。そんなモン、地上で採ればイイだろう。地上にだって、果実はあるんだからな」


「それはダメよ、地上はけがれてるの。だから地上の食べ物もけがれてるわ。そんなモノ、天使であるワタシが食べてイイ筈がないでしょ?」


 天使は清廉にして純粋な存在である。唯一無二の存在であるヤヴァイネが、そういう風に造り出したのである。そして地上はヤヴァイネの実験場であり、混沌が渦巻き、混迷を極める場所である。よって地上の様々な生物は、決して純然たるモノではない。そんな動物や植物を純粋な天使が口にしては、なにが起きるか分からない。


 舌がピリピリとしたり、お腹を壊したり、最悪の場合は死んでしまうかもしれない。そんな風に考えたルシフェラは、天上で食料を調達しているのである。


「しかしだな、持っていける物は無限じゃないだろう? だったら、いずれは地上の物を食べなきゃいかんワケだ。そうなると、この天上から持っていく意味なんて、ないじゃあないか」


「・・・そうなったらココに戻ってきて、また採れば───」


「そいつは無理だ。一度天上から降りた天使を、無許可で地上に降り立った天使を、あのヤヴァイネが見過ごすと思うのか? みすみす見逃すと思うのか? そんなミスを唯一無二の存在であるヤヴァイネが犯すと思うのか? ココに戻ってくれば、必ずや罰が与えられる。そうなったら、もう二度と地上には降りれないぞ? そこから先、人間たちを救えなくなるぞ? それでもイイのか?」


「・・・・・・・」


 蛇の説得により、ルシフェラは果実をもぎ取るのをやめた。そして既に両手一杯に抱えていた果実の中から一つを無為に選び出し、無意に噛りつく。シャクッ、という小気味の良い音が鳴ると同時に、ルシフェラの口内に甘酸っぱい果汁が流れ込む。そして目からは、涙がこぼれた。


 天上から降りれば───。もう二度と、この果実を口にすることがないこと。もう二度と、この景色を望めないこと。もう二度と、他の天使たちに会えないこと。それらの事柄に心を揺さぶられ、ルシフェラは涙したのだ。そんな彼女の横顔を、真っ黒な蛇は黙って見ていた。真っ赤な舌をチロチロと動かしながら。






 やがて両頬を伝っていた涙が乾くと、ルシフェラは自宅へと戻る。そうして辿り着いた我が家でイスに腰掛け、テーブルで頬杖を突いた。それから眉間にしわを寄せ、ウンウンと唸り始める。そんなルシフェラの様子を、テーブルの上から窺っていた真っ黒な蛇。暫くは、ただただ黙って見ていたが、そのうちに言葉を発する。


「どうしたんだ? 準備をしないのか?」


 蛇からの問い掛けに対し、ルシフェラはテーブルにパタンッと力なく突っ伏す。そんな体勢で真っ黒な蛇を見つめると、無気力に言葉を紡ぐ。


「なにを準備すればイイのか、分かんなくなっちゃった・・・」


 ルシフェラは地上における全てのことを知っているワケではない。よって地上に降りてから彼女の身になにが起きるのかも、詳しくは想像などできない。だから不測の事態に備えようがないのだ。


 しかしまぁ、それはそうだ。不測の事態とは、予測ができない事態のことである。予測不能な事態に備えることなど、できよう筈がない。もしもそんなことができるのなら、それは予測ができている証拠であり、それは最早、不測の事態ではないと言えるだろう。


 よってルシフェラは、なにをすべきかを悩んでいる。なにをすべきかを決めかねている。とはいえ当初の彼女は分からないながらも、色々と準備をしようとはしていた。しかし先刻の蛇の言葉により、その色々な準備は果たして有効なモノなのか、と思い悩んでいるのだ。


「だったら準備はなにもしなくてイイだろう。オマエは天使なんだから、なんとかなるに違いない。大抵のことは天使であるオマエにとっては、大したことじゃあないだろう」


「なるほど、それもそうね」


 蛇の言葉を受け、ルシフェラは笑顔を取り戻し、イスから腰を上げた。


「いざとなったら、天力てんりきを使えばイイんだもの!」


 ルシフェラが口にした『天力てんりき』とは、天から与えられる特別なチカラのことである。それは、天使が様々な奇跡を起こすために必要なモノである。


 天使が起こす奇跡には、火や水を出したり、傷を癒したり、病を治したりなど、実に様々なモノがある。それらの奇跡はそれぞれの天使が持っている『格』によって、具現化するモノが定められている。使用する者により、使用できるモノが決まっているのである。より上位の天使ほど、より多くの奇跡を起こせるのである。


 そしてルシフェラは、『大天使』という格を持っている。大天使は最上位の格であり、多岐にわたる奇跡を起こせる。だからルシフェラは、安心しきっている。


 いや、一抹の不安はある。それはやはり、食料のことだ。



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