#07:バハマの夕焼けにて

 進展がない。進展がない。呻きながらも陽ざしは落ちて、そのうち夜を楽しむ暇もなく朝がやってくる。インターネットを流し見したり、時折店にやってくる客がこぼす話によれば、ポルノビデオで描かれる時間停止ものというのは八割ガセらしい。

 じゃあ残り二割はなんだよ、本物の時間停止能力者はいると言いたいのか。それなら今すぐ、私にその力をくれよ。


 数年単位で引きずっている睡眠負債と、現在進行中の悩みを解決できるくらい、自分の時間を引き延ばせるのならこれ以上ないほど有難いお話なのだ。

 少なくとも今のクレハにとっては。


「カシスオレンジと、フィッシュアンドチップスくださぁい」

「はい」

 もはや、薄明るい月が蒸気波のモチーフのごとく眠らない町を照らすこの時間。酒を飲みに来るという共通の目的で繋がった、ある種の同志を店へ招き入れて語り合う時間こそが、今のクレハにとっての救いである。

 ――先日訪れたパブ、コサ・シーサムの記憶をもとに奇をてらったものでも作ってみようか。

 鋭意開発中のメニュー、バニラリキュールを主軸にいくつかのアクセントで仕上げるつもりのグラスを、今日の仕事を共にする相棒としてカウンターの裏に忍ばせている。

「今日、初めて酒飲むんですけど……」

「おすすめですか?それなら……」

 飲みやすい品物をいくつか取り上げてやれば、カウンターに座り込む若い客が、逡巡の後、メニューの一つを指示した。


 テーブルでくだをまく薬物使用者の一件があってからというものの、クレハはより店の様子に気を払っている。

 この繁華街、決して低くはない頻度で路上をベッドにしている酔っ払いの成れの果てだか浮浪者を見かけるものの、それを自分のテリトリーに引き込んでしまえば最後、丹念に作り上げた安寧が崩れ去るも同然なのだから。


「こんばんは」

「ああ、――」

 だからだろうか、あの耳に残る、妙におっとりとした声音の主に感づくのがやたらと早かった。

 例の邂逅からやたらと姿を見かけなかったあの金目の蛇のような男。暖色のダウンライトに照らされて、やや、青白い肌に人らしさを見せる様子の影が、扉の隙間から入り込んで笑う。


「お久しぶりです、数日しか空いてませんけど」

「……お前、」

 そもそも、最初に風耶と遭遇したのは店を閉めた帰りのことだった。店の所在がたやすく知れること自体は時間の問題でしかない。クレハからしたら、先に家を割られたことの方が想定外だ。

 が、他人が例の妙ちくりんな執行猶予に苦しんでいる中、平然とした顔で店に来る様子。むしろ一周回って、その苦しむ様をつまみにきたんじゃないかと思える態度にクレハがカウンターを飛び出した。

「どの面下げて、うちの店に!」

「あらららら」

 コメディアニメか何かのように、黒いドレスシャツの襟をつかみ上げられた風耶が無抵抗に揺さぶられる。

 そんなに揺らしたって何も出てきやしませんよう、と呑気な狂言を吐く嫌味たらしい顔が少しでも青ざめないかと言わんばかりに、決して軽くはないはずの男の体重を存分にのたうち回らせ、星色をしたヘテロクロミアが怒号を浴びせる。

 店のマスターが突如奇行に走る光景を見た客が数人ざわついたが、ほどなくして気の済むまで玩具にされた風耶が解放されると、それぞれ怪訝そうな面持ちで会話に戻っていった。

「お気は済みました? もう、お仕事帰りでへとへとのお客さんにする態度じゃないですよねえ」

「ああ仕事はするさ、それとは別にお前に対して個人的な感情があるだけで」

 よよよと泣き入るようなわざとらしい演技をふるう風耶に眉をひそめつつも、クレハがカウンターに戻る。

 が、風耶がテーブル席へと向かう足を引き留め、とんとん、とクレハが自分の目の前の席に座るようカウンターを指で叩いて示した。

 ……聞き分けの悪い子供をしつけるような緩慢な合図を、しばらくじっと風耶は眺めていたが、やがて引き下がらない様子のクレハにため息をつき、カウンター席へと腰かける。

「傍若無人ですね」

「お前相手に容赦はいらないと感じての態度だ」

 とはいえ通しの品とチェイサーはきっかり用意して寄こす様子に、ふんと嘆息して風耶が視線を外す。

「私に対して、なにかご用事ですか?」

「ああ、聞こうと思って昨日から探してたんだが、読んでもないのに来る癖探すと見つからない誰かさんのせいで予定が狂ったんだよ」

「結局今日ここにお邪魔してるので、些細な問題じゃないですかねえ」

「……お前にとってはそうだろうな」

 くす、と黒蛇が音を立てずに笑う。弧を描く唇とは裏腹に、目を笑いの形状にもっていく意味の理解はできていないらしい。人間社会への造詣はあまり深くないように見える。

「本題に入る前に注文を聞こうか。お前に逃げられたら困る」

「あなたと違って臆病な方じゃありません……では、シャンディ・ガフとクラッカーセットを」

「はい」

 ジンジャエールとビールのビンを開け、グラスに注ぐ。泡ものは加減が難しいと聞くが、混ぜてしまえば多少の差はごまかせるだろう。

 カウンター下の冷蔵庫から切り出してあるチーズやサラミを取り出し、クラッカーを開けて皿に並べ立てる。合間、ちらりと風耶の顔色をうかがうが、変わらず体温のない人工的な表情でこちらを見つめている。

「年齢、聞かないんですね」

「いくつだ」

「今年でちょうど二十歳。お酒は初めてじゃありませんけど」

「……そう」

 なみなみ美酒が注がれた細いつぼ型のタンブラーグラスと軽食の皿を差し出すと、迷わぬ素振りで席へと引き込まれていく。

 黒蛇が軽食と酒に手を付けるところを、じっとクレハは待つ。両方一口は含んだところで、ほんの少しだけ浅くなっていた呼吸を取り戻した。

「……じゃあ、本題だ」

「はい、どうぞ。下着の色以外なら何でもお答えします」

「何でもか、ありがたいね。……西口付近を争奪してるイタリア系の男が吐いた。"赤の女王"に関して何か知っていることはないか」

 詰問調の声音でクレハが問うた瞬間、クラッカーのはげた焼き目を引っかいていた指がにわかに上がった。

「思ったより、好奇心のお強い人で」

「変な奴に好かれるのと、好かれてからの後始末には慣れててね。……その様子だと関係者だな?」

 二本折り数えた指じゃ足りないほど、話せるネタ自体は豊富である。ほとんど威圧目的の決め打ちで投げかけた文末は、案外素直に拾われたようだった。

「関係者……ええ、の飼い犬ですと正直にうなずく気は毛頭ありませんけど」

「――その質問は、貴方のさがし物に関係はありますか?」

「あるね。お前、顔に焦りが見えるじゃないか」

 千日手一歩手前のチェス盤の、駒が確かに動いた気がした。

 ふん、とちいさく鼻を鳴らした様子で、風耶が黙り込む。先日のあの令嬢と違って、こんなニヤニヤ笑いの黒猫など全く可愛らしくない。

「飼い犬じゃないならさしずめ飼い猫か? その様子なら一番の上司にも嫌われてはいないと見える」

「お会いしたいので?」

「……まあ、そうだね。もう一つ問いただしたいことを、抱えているから」

 先日の、薬に溺れた客の件。その元締めが祈華街を提唱した中華系移民の徒党だという話。

 ――この店には、ありがたいことによく訪れてくれる客がいる。花道を挟んで向かい側、一番街のキネマのふもとはすでに壊滅状態。いくら比較的"ブラザーフッド"の強いこちら側とはいえ、増長すれば危険なことには変わりがない。

 クレハはどうにも自分の目をかける身内がどんな大男であれ、誘惑になびかぬただしく強い女であれ、危険がそばに這いずり寄るのを許せない性分だった。

「……なるほど」

 申し訳程度に設けられた、カウンターチェアの背もたれに風耶が身を寄せる。いつしか弧の薄くなったその唇が、無味乾燥の盤面を伝えていた。

「いかがいたします? 少し身辺が落ち着きましたもので、向こうも暇をしているかと思いますが」

「今からはさすがに厳しい。そっちよりは流石に客が優先だ」

「じゃあ、お店を閉めるまでいますので。……今日中であれば私もご機嫌取りのお仕事が少なく済むんですがねえ」

「なら、お前の楽なスケジュールでいい。ついでに、閉めるまでそこそこ飲んでうちに金を積んでおけ」

 薄ら淀みを灯し始めた蛇の目をふっと笑い飛ばしてやってから、カウンター裏で氷の解け切っていたグラスを流す。

 丸氷を入れた背の低いタンブラーグラスに、ミネラルウォーターと気付けのスコッチを注ぎ込んだ。

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