#06:完璧な令嬢

 ふわり、とやや遅めの時間に覚めたかんばせからあくびをこぼす。今日は三限のみであるため、昼前まで寝ていても咎める人間はいない。

 ――というのは嘘。本当は一限も入っていたのだが、講師の人格が控えめに言ってカスで、クレハと性格の相性が頗るに悪いためにその授業を全て蹴って過ごしている。


 重い体を引きずり、寝台から転げ落ちるように抜け出す。その日の気分が賽の目で決まるような生活だが、どうやら今日はその目がピンを出したらしい。

「う…………」

 まだ、"審判の日"までは一週間と半分弱残っている。しかし、待ち受ける運命自体が、その審判の重圧こそが、今のクレハにとっては死に至る病に他ならない。

 無駄にできる時間などない。今日やるべきことを、済ませなければならない。


 ◆

 

 普段はクレハも理科学系の生徒にしては多弁で気さくな方を演じているため、気性の明るい生徒が数人程度話しかけてくるものだ。しかしこうして、機嫌が斜めに傾く日なんかは雰囲気の変化を察されるのかあまり関わってはこない。

 人間とは基本、自分の興味を引く状態にないものは無視するのだ。

「でさー、あゆちゃんがね……」

「佐崎ぃ、帰りカラオケいかね? 先輩も呼ぶからさ」

「えっ? えっ、どうしよぉ……」

 三限で指定される学棟は、理学部の実験室も擁する。忙しい実験授業の合間でカフェテリアへ移動するほどの暇のない学生が、休憩室にごった返して購買で買ってきた軽食をつついている。

 やや人通りの多い渡し廊下を歩きながら、クレハは――黒髪に金目の不気味な笑みを張り付けた姿がいないか、神経質なほど気を張り巡らせる。

「(――いない)」

 しかし、見かけない。学科が違うために、やはり授業を受ける学棟も異なるのだろうか。

 これでは、先日の遭遇と同じ曜日をあたるしかない。もしくは、共通科目の授業で探す方が手っ取り早いのかもしれないが、直近の共通科目といえばちょうど本日一限の授業がそれである。

「……むう」

 ますます自分の機嫌を損ねる前に、人の流れから視線を外す。前方に向き直った際、あわやほかの生徒とぶつかる手前であったことに気づき、クレハが足を止めた。

「わ、っ」

 思わず気の抜けた声を出して、一歩下がったことでその生徒もスマートフォンの画面から顔を上げる。

 お弁当箱をしまったポーチを抱えた、清廉そうな人影。


 漆黒色の、やや内側に巻かれた自然なカールのボブ。長く揃ったまつ毛の奥からは冷徹を湛えた大きな瞳が覗き、きめ細やかな白肌と艶のある唇、桜色の頬。

 こぎれいなブラウスと品のあるベロアのスカートで引き締められた、世界を占める大勢のおんなが、喉から手が出るほど嫉妬する少女。

 ――少女である。棘の揃った美しい薔薇、深窓の令嬢という言葉が彼女にこそ似合うと人々に思わせる、何かの間違いかと感じるほど完璧で可憐な"少女然"の極致を体現した存在。


 しかしその姿をまことに天使と誤認し、空高く見上げるには、きっちりと結ばれた唇と、ひとに媚びる甘さの一切を捨てた鋭い意思によって彫りたてられた表情が許さないでいた。

「どいてくださるかしら」

 声音まで可憐なそれが、攻撃的な発音速度と平坦な感情を持ってこちらを向いた。

「ああ、すまない」

 横へ一歩それるも、ふんとちいさく鼻を鳴らしてつかつかと歩き去っていく様子はほとんど、猫だ。

 人を好き勝手に魅了しつつも、当のかれらは一滴たりともヒトに靡かない。

 なにかされてもただでは感謝をしない、そんな不遜な態度にさえ違和を覚えることすらおこがましいほどの、愛らしさ。


「――あっ、待った!」

 クレハが呼び止めると、一拍遅れてからわずかに振り向く。さっさと要件を言えといわんばかりの圧を滲ませて、少女が渡り廊下で佇んでいる。

「神経細胞科の、黒髪に金色の目をしたパーカーの奴を見てないか」

「知りません、専攻も違いますので。私は生命科学科の生徒です」

「ん? そっちも生命科学科なのか。私と同じ専攻だ……引き止めてごめん、また今度」

「はい、お構いなく」


 というのを感じながらも、「変な奴だな」という印象が勝ったのも事実。学者としては、むしろああいった人格の人間こそが長命なのだろうが、しかし。

「……へんな奴だな」

 もう一度、復唱するように口ごもる。

 大抵クレハが今まで関わりを持った異性の相手は大抵破れ鍋のような自己肯定感に対し、高く熱り立つプライドと乾き知らずの愛嬌で玉の輿とハネムーンをやりたがる異常個体ばかり。

 いざ通常多数派を占める普通の人間とかち合うと、なんというか開口一番にこちらへ下心をちらつかせて来ないだけで、ひどく安堵とささやかな警戒が生まれてしまった。


 結局、例の探し人は見つからなかったし、物捜しも進展なし。

 姉山風耶という傾奇かぶき者の趣味に沿う、限りなく見つけられない何かという意味不明なお題に、まんまと苦しめられてしまっているのを感じる。

 一週間と半分弱。進展らしい進展もろくに得られないまま、砂時計の砂が、じりじりと零れ落ちている。


 尚早な焦りが、足元で燃えている。文字通り真綿で締められる苦しみの解決法が見つからないような気さえして、ただただ恐ろしい。

 火であぶられる鉄骨の下が、昏く深い闇でしかないような気がするのだ。

 熱を持ち始めたその鉄骨の先に、クレハの思うような報酬があるとも思えない。

 死刑宣告の執行猶予、無意味な先延ばしとも形容できるそれが、それが――


「そろそろいいかなあ、じゃあ小テストの回収をします」

 ――こんなことを考えているものだから、マークシートは白紙で落ちた。

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