#02: 新宿、夜更けの逃走劇
追いかける音。違う、足音。私の走る音。それだけが、新宿午前二時の裏路地にうるさく鳴り立てる。とっくに酸素を使い切らし、ごみだらけの、すえた空気すら厭わずかっ食らって喘鳴を送る喉の音を、私は何分聞いている?
――なぜ、追いかけられてるのか? 追いかけられるような何かをしたのか? わからない、わかるわけないだろ!
――私だって、好きで追いかけられてるわけじゃない!誰か、助けてくれ!
#新宿、夜更けの逃走劇
星野 紅羽は後ろを振り向かない正確である。楽観的ではあるが同時に臆病であるために、振り向くつもりすらない。
けれど彼の立てるあらゆる音の合間に、ゆっくりと、鼻歌でも歌いながら、散歩のように闊歩する男の足音が聞こえる。
……歩きと走り。普通とっくに撒けるはずの差があってもなお、しつこく忍び寄る蛇のごとく、クレハの後ろ側で追うものの舌なめずりが聞こえてくる。
「――は、ッ、はぁ、~~ッ!」
そもそも、なぜ逃げているのか?
――相手を見ろ、捕まったら絶対殺されるに決まってるからだ!
……発端の話をしよう。星野 紅羽は新宿区内――繁華街の端っこでバーを経営している身分である。だいたい不定休だが基本は夜7時に開けて、早くても22時に閉める。専ら、クレハの機嫌によって多少長引く日の方が多い。
――今日の閉店は夜中0時だった。店の掃除と戸締りまで済ませ、店の扉を閉める。
そこまではよかった、いつもの日常と変わりはない。
――が、そうして調子のいい日が続いた時に限って、大抵悪いことが起こる人生であった。
帰りしな、クレハは大通りを抜けるときにふと血の匂いをみとめた。割と道の真ん中で人が倒れてることのよくある場所だ、殴り合いでもあったのかと目を向けてしまったのが運の尽き。
「……――」
路地の奥、放棄された自転車の影で、蹲った人間の頭を器用に黒い山刀で切り落とす若い男の姿を見つけてしまった。
黒い髪の奥に、蛇のように冷え切った金色の目を隠した、やけに肌の白い男。黒のドレスシャツと小綺麗なベストから見える腕には、死体から噴き出した鮮血がべったりとついている。
……――あれ、これ殺人事件だよなあ。事件発生してるなあ。通報した方がいいかな。
もちろんこの大通り、ほかにも人は多く通っている。新宿繁華街と言えば不夜城だ、眠る時間が他の区より大体6時間くらい遅い。
きっと向こう側からしたら、仕事現場を見た目撃者なんて探せば腐るほどいたはずなのだが。
――クレハが携帯を取りだしたタイミングで、バッチリ目が合ってしまった。
要するに、目撃者の口封じ。見られたなら仕方ないよねって、そんなわけあるか!
◆
「…~~私の、馬鹿……ッ!!」
――で、今に至るってわけ。
そしておちゃめな星野 紅羽はもうひとつ馬鹿をやらかした。周辺を確認せず走り出したせいで方向を見失ったのである。
バカ、本当にバカだ。取り柄の頭の回転は有事において見事に形無し。詰めの甘さにも限度あり。しかし誉の高さなど覚える箇所もあるかボケ。
繁華街の看板はそこそこ狭い道を四回ほど曲がって、裏路地に突っ込む直前で背にしたのを覚えている。
――路地に入るべきじゃなかった。
おそらく向こうは、この一帯を縄張りにしている反社会的勢力。土地勘が効く相手に対し、こちらはせいぜい日向仕事で彷徨いているだけの一般人。
――アドバンテージは相手の男に回る。向こうとしては、家の壁に空いた穴を全部覚えたうえで逃げ回るねずみを観察で興を買っているにすぎないのかもしれない。
「(――足音が離れない)」
ゴミ箱にぶつかり、派手な音を立てながらも減速だけはしてやるもんかと走り続ける。
途中、薬か酒に飲まれて座り込む女の腿に足を引っかけそうになり、思わず叫んでしまったが実際何を言ったかは三秒も持たず記憶の彼方だ。
「ああもう……!」
――後ろを振り向いたらあいつがいる。振り向いたらきっと怖くて動けなくなる。
実際、人間やそれ以外から追いかけられる経験はそこそこあった。
そのうち命にかかわらないものは、振り向いたせいで足がすくんだ。
――だから、振り向かない! それだけはしっかりと決めている。
「……ッ、右……!」
それでも、視界と頭は動かし続ける。
見知らぬ路地でも、周囲の建物を見ればだいたい道の構造、どん詰まりになりそうなところはわかるはずと信じて、……しかし。
「……っあれ、」
そうして走り続けていたところ。前面に建物の裏口が見えて足が止まる。その向こうは、この一帯より一応マシな道路が通っているのか人の足音がまばらに聞こえていた。
――まずい。
後ろに耳を澄ませるも、やはりあの足音はゆっくりとついて回ってきていた。
――塀を上るのは間に合わない。体力もないし、かかる時間を考えても無謀だ。
なら、戻るしかない。……けれど、このどん詰まりを引き返したら鉢合わせる。適当なところに隠れても見つからない保証がない。
向こうも同じ人間だ、きっと頭は回る、ここで消えた人影を探さないはずがなかった。
タイムリミットはもう、なかった。
真後ろで止まった革靴の音と、クレハの背へと伸びる腕の気配――
「ッ!」
その腕が引っ込められたのを合図に、クレハは咄嗟に屈んだ。
そのすぐ上を、何か鋭い、黒いものが通る。クレハの髪先を薄い刃が掠めたのだ。
――確認したらダメだ。今度こそ殺される!目を固くつぶったまま、クレハは前へ飛び込んでスタートを切った。
ほぼ執念で走り抜けるその背に、人影が息を呑む――今度こそ、追う足音がまともに早まったのを聞いて、思わず笑いをこぼす。
「慢心したな、ッ馬鹿野郎!」
そう唸るも、さてここからどうやって帰ろう。家までは徒歩だが、相手が相手な以上素直に帰った方がどう考えても危険だ。終電が間に合うならば、電車に乗り込んで他の宿を探してしまうほかない。
――とりあえず、駅に駆け込まないと!
来た道を戻り、項垂れる酔っ払いや女を飛び越え、ゴミ箱を引き倒して駆け抜ける。
来た道はどちらか。逃げる方向こそ一度見誤ったが、来た道を忘れるほど方向音痴でないのが救い。
程なくして路地を抜け、人ごみを掻き分けるように駅のある方向へと走る。
二段飛ばしで躓きながらも駅の階段を上り、まだ多い人の通りをぶつかり、くぐり抜け、目的の路線を探して改札に定期を通す。
流石にICカードが通らなくて止められることはなかった。
そのまま扉の閉まりかけた電車の扉に体を捻じ込み、終電寸前の車内に転がり込む。
「はぁ、……〜〜ッ、はあ……!」
……肩越しに、車窓から後ろを見た。この時間にしては、やけに閑散としたホーム。
クレハを追いかけてきていた男も、ほかに乗り込もうとしていた人間も、誰もいなかった。
「……はぁ、」
車体をつなぐ扉の窓から他の車両を覗き込んでも、あの悪意はかけらも見えない。
それでやっと、手すりに体を預け、床にへたり込んだ。逃げ切ったのか。それとも、もともと追いかけられてなどいなかったのか。
怪奇現象なんて慣れているが、人に殺されかけたのはほとんど初めてだった。
できれば金輪際遭いたくはない。
……のに、運命とは有史以来における全人類のファム・ファタールであるからにして、尽く数奇なものであった。
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