第42話 玉子焼きとインバネス
「ああ、驚いた……」
狐たちがそばから消え、隣にわたししかいないのを見計らい、維吹さんが苦笑しながらつぶやいた。
呆れたような、でもどこかほっとしたような、複雑な顔でわたしを見る。
「亜寿沙さんを人質にしたりするから、さすがに腹が立って抗議に来てみれば――なぜか本人がちゃっかりいるし、おまけに婚約者だと言いだすし」
「だ、だってあれが一番いい方法だったんですよ! むしろどうして維吹さんから言い出さなかったのか、不思議なくらいです!」
慌ててわたしが弁明すると、しかし彼は首を振る。
「いや、さすがに婚約者だなんて、嘘でも君に失礼だと思ったんだよ」
「失礼? ああいうときこそうまくわたしを利用しましょうよ! 弟子は嘘でもよくって、婚約者は駄目だって理屈はありませんから!」
「あるよ」
「ありません!」
……うーん? 維吹さんの考えかたがおかしいのか、それともわたしがズレているのか。
自分の生まれや母親のことで傷ついて、たとえ嘘でも他人を同じような目に遭わせたくないってことなのかもしれないけど。
このあたりはいくら話しても平行線を辿りそうだったので、これ以上突っ込むのはやめておく。
それにしてもなぁ。維吹さんて、見えないところで苦労してたんだなぁ……。
天ぷらを頬張りつつ、わたしはそっときれいな横顔を見つめてしまう。
維吹さんには後ろ盾がない。それってつまり、彼相手にどんなに失礼なことをしても陰陽師一族から睨まれる心配はない、ということで。本人の意思に関係なく、「婿になれ」と無理強いしたり、術で操った人間を送り込んだり、遠慮なく
「ん? どうかしたかい? ……あ、僕の分もほしいなら全部あげるよ?」
わたしの視線に気づいた維吹さんが、海老や
「ち、違います! 維吹さんは、ほんとはあやかしの仲間に入れてもらったほうが生きやすいんじゃないかなって」
そうすれば彼らが維吹さんの味方になってくれる。たとえば妖狐の頭領の娘婿なんて、一生安泰なんじゃないだろうか?
「なに? もしかしてさっきの
「……はい」
「そんなに気になる?」
「気になると言うか、ちょっとびっくりしたので」
「まぁ、あちらがほしいのは、僕ではなくて僕の力のほうだから」
維吹さんは苦笑いして顔を伏せる。
「すべてのしがらみを断ち切って、あやかしたちの世界で生きていくのもありかな、なんて考えることもあるけれど。交換条件でいろいろあってね。そうするとまた別のしがらみに
「うーん、なかなか思うようにいかないんですねぇ。……あ、でも誤解しないでくださいね。わたし、維吹さんには人間側にいてもらいたい派なんで。だってそのほうが楽しいですし!」
「楽しい?」
「ええ。驚かされることも多いけど、一緒にいると毎日それなりに楽しくて刺激的なので。だから何度も言いますけど、どこにも行かないでください!」
とたんに陰陽師は黙りこみ、まじまじとわたしの顔を見つめてくる。
「どうかしました?」
「いや、楽しいとか刺激的なんて言われるの、初めてだから」
「へ?」
さっきまでの強気な
「たぶん、葉山さんあたりは口には出さないだけで、心ではそう思ってますって!」
「だといいな」
「いやいや、絶対そうですって! 賭けてもいい!」
その声があまりに大きすぎたのか、少し離れた場所で酒盛りをしていた狐たちがこちらをじっと見つめてくる。
「……あまり長居しないほうがいいみたいだね」
腰を浮かしかけた維吹さんに、
「あ、でもそのまえに! わたしたち、婚約者って設定でしたよね! というわけで、はい、あーん!」
わたしはだし巻き卵を箸で挟み、ぐっと口元に突き出してやる。
「……え?」
「だから! とりあえず仲良さそうにしておかないとまずいじゃないですか!」
「いやいや、そんな大きなの食べられないから!」
は? 拒否するのそっち⁉
てっきり「いい加減、婚約者の真似はやめてほしい」って言われるかと思っていたのに。
大狐の手前、今さら否定できないし、ここはお芝居に乗ると決めたとか? でも予想外の反応をされると、わたしのほうが意識しちゃうよ……!
「……亜寿沙さん? 君の顔、
不思議そうに声をかけてくる維吹さんに、
「いいからほら! さっさと口を開けるっ!」
わたしは取り繕うように、さらにだし巻き卵を近づけて。
「なんだか僕、
「恐妻家! いいじゃないですか! 亭主関白の維吹さんなんて想像つきませんもん!」
わたしが叫ぶと彼は可笑しそうにくすくすと笑い――それからふと、耳に届くか届かないほどの声で言う。
「……言葉を返すようだけど、楽しくて刺激的なのは君のほうだよ。亜寿沙さんは素直で裏表がなくて信用できる。君に会えて、本当によかった……」
――え?
とたんにわたしの胸が小さく痛む。
だってわたしは維吹さんが思うような、素直で裏表のない人間ではない。帝都にやって来たのだって、失踪したお姉ちゃんを心配しているように見せかけて、本当は――。
「じゃあ、いただくね」
ぱくりと卵を頬張ると、維吹さんは懸命に口を動かす。
この人の前でだけは、信頼される自分でいたい。卑怯でずるがしこくて弱い、本当の自分からは離れていたい。
……ススキ野原をさらさらと風が渡っていき、どこからか除夜の鐘が響いてくる。
「来年もよろしくね、亜寿沙さん」
穏やかな瞳で、わたしを見つめる維吹さん。
身体を包むインバネスのぬくもりが、まるで維吹さん自身のようで。
わたしはなんだか泣きたい気持ちで、小さくうなずいていたのだった。
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