第44話 異国から来た鬼

 軍服を脱がせて身体からだを拭き、維吹さんの浴衣を着せたころには、衣川ころもがわさんの顔にも赤みが徐々に戻りはじめていた。


「はあ、人魚の肉ってすごいのねぇ」


 志遠さんが感心したように、昏々こんこんと眠り続ける軍人を見つめている。


「でも、いったい誰がこんなことを……?」


 改めてわたしがつぶやくと、維吹さんがため息を漏らす。


「実は、亜寿沙さんがここに来る前――おととしの冬から去年の春にかけて、帝都では人事不省じんじふしょうに陥る女性が続出していたんだ。原因は、急激に血を吸われたことによる一種の記憶障害でね。ただ、それきり動きがまったくなくて、ひょっとしたら犯人のあやかしは逃げてしまったのかも、なんて衣川さんと話していたんだ」

「ところが偶然見つけてしまい、返り討ちに遭ったと?」

「たぶんね」


 ――うーん? 血を吸うあやかし、ねぇ?

 わたしは腕を組んで考えこむ。


「だったら磯女いそおんな、ですかね? でもあれは海限定か……」


 ほかに、人の血を吸うバケモノだったら山姫なんかも有名だ。

 でもそっちは山限定で、街に降りてきたなんて聞いたことがない。


「僕も初めはわけがわからなくてね。日本のあやかしを調べてみても、ほかに同じやり口のものが見つからない。で、手当たり次第文献をあたってみた結果、どうやら異国のあやかしが怪しいということになった」

「華の帝都を異国のあやかしが跋扈ばっこする……。なんだかすごい世の中になりましたね……」


 とは言うものの、島国である日本には、少数ではあるものの昔から異国のバケモノたちが渡って来ている。

 有名どころで言えば、遣唐使の船に乗ってきた九尾の狐――玉藻前たまものまえとか、宣教師の船でやってきたキュウモウだぬき――魔法様まほうさまとか。

 狐や狸ばかりでなんだかなぁって気持ちはあるんだけど、現在はさらにたくさんのあやかしたちがこの国に渡ってきているはずだ。大晦日の宴でも、大狐が「異国のあやかしに気をつけろ」って言っていたし。


「じゃあ、その異国のあやかしってなんなんです?」


 わたしが訊くと、維吹さんは行李こうりの中から一冊の本を取り出してみせた。


「大正三年に、平井金三ひらいきんざという学者が書いた本なんだけど」

「えーと? 『心身修養しんしんしゅうよう 三摩地さんまいち』……? なんだか難しそう……」

「亜寿沙さんなら大丈夫だよ。それに、この筆者は芥川龍之介あくたがわりゅうのすけの高校時代の英語の先生だったとか」

「ん? 芥川龍之介って、『蜘蛛くもの糸』とか『杜子春とししゅん』の人ですよね?」


 わたしでもよく知っている、有名な小説家。そんな人の先生だったと言われると、なんとなく親しみが湧いてきて、無暗むやみに敬遠しなくても大丈夫そうな気がしてくる。


「で、この本のここ、亜寿沙さんはどう思う?」


 まんまとうまく乗せられて、目の前に出された本を志遠さんにも聞こえるように読んでみる。


「日本では聞いた事は無いが、欧呂巴ヨーロッパには吸血鬼Vampireとふものがるとてこれまにうけるところ彼是かれこれに有る」


 うわ! しょぱなから吸血鬼――英語だとヴァンパイアって読むのかな?――なんて、そのものズバリじゃないの!

 わたしはドキドキしながらさらにページを進めていく。


此妄信このうそしんじこと欧呂巴ヨーロッパ東部の方『すらぶ』すなわ露西亜ロシアの人、『ろうまにつく』の人、希臘ギリシャの人などの住む『だにうぶ』河の下流や『ちつさりい半島』あたりもっとさかんる」


 ヴァンパイアは世迷いごと、迷信だという書きかただけど、大切なのはこの後に載っていた特徴だ。

 それによると、このあやかしは死後も活動を続ける忌まわしき存在であり、夜中、寝ている人間に襲いかかり、生き血をすするのだという。しかもその際、犬や猫、蜘蛛などにも変身するし、血を吸われた人の中には仲間になってしまう者までいるらしい。

 さらにこれを退治するには、心臓を棒でつらぬくか、額に長い釘を打ち込む必要があり、国によってはそれを生業なりわいにしている人までいるという。


「ふーん? このヴァンパイアってあやかし、かなり個性的なんですねぇ……」


 ひとしきり感心するわたしに、維吹さんが「え?」とつぶやく。たぶん、「怖い」とか「忌まわしい」なんて感想を勝手に想像していたからだろう。

 けれどわたしが感じたのは、たったひとこと、『設定多すぎ』。


「だって日本のあやかしに、死後も動いて変身して、強制的に仲間まで作るのなんていないじゃないですか? おまけに退治法まで特徴的だし!」

「まあ、そのせいもあって、欧呂巴ヨーロッパでは好んで物語の題材に取り上げられているみたいだね。僕もとりあえず翻訳ものを当たってみたんだけど、そこに書かれた彼らの特徴がまちまちで、どこまでが真実で、どこからが創作なのかがわからないんだよ。ひょっとしたら、ヴァンパイアと一括ひとくくりに言っても、無数に枝分かれした種族がいて、少しずつ能力が違うのかもしれないし」


 考えこむ維吹さんの脇で、志遠さんがハッとしたように顔を上げる。


「ねぇ、ヴァンパイアに血を吸われたら仲間になっちゃうんでしょ? だったら衣川さんが仲間になってる可能性は⁉」

「わわっ! そうですよ! だったら大変!」


 慌てるわたしたちに、維吹さんはゆるりと首を振ってみせる。


「ああ、それはたぶん大丈夫。ヴァンパイアの仲間になるということは、彼らと同じ不死者になる、ということだから」

「――あ、そっか。衣川さん、すでに不死者ですもんね!」

「じゃあ、私も大丈夫なのね?」


 志遠さんもほっとしたように胸をなでおろす。

 ていうか、自分のまわりに死なない人が普通にいるってどういうことなの……?

 妙な気分になってしまったわたしを尻目に、維吹さんがさらに言葉を続ける。


「それに、噛みつかれた者すべてが仲間になるというのなら、この世はとっくにヴァンパイアだらけのはず。けど、意識不明になっていた人たちも、その後は特に変化がないって話だし」

「よ、よかったぁ。伝染病みたいなあやかしって、ほんとタチが悪いですね……」


 わたしがホッと息をついて本を返すと、


「これからこのあやかしが、どう出てくるのかわからないけど。平安時代の鬼退治は酒吞童子しゅてんどうじ、現代はヴァンパイアだなんて、なんだか時代を感じるよ……」


 維吹さんはそれを受け取りながら、疲れたようにつぶやいたのだった。


―――――――――――


※このお話に出てくる平井金三ひらいきんざと、彼が書いた『心身修養しんしんしゅうよう 三摩地さんまいち』は実在のものです。

ちなみに、ヴァンパイアという言葉に「吸血鬼」という日本語を一番最初にあてたのは、博物学者の南方熊楠みなかたくまぐすだと、あやかし大好き界隈ではずいぶん長いこと言われておりました。

が、この作品を書くにあたって改めて調べたところ、平井金三のほうが先だというのが判明。知識のアップデートって大切ですね。

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