第40話 招かれざる客は賓客と会う

 目を覚ますと、どことも知れない場所だった。

 ついこのまえ、維吹さんに買った襦袢じゅばんの模様を思わせる、紫がかったススキ野原と夜空にぼんやり浮かんだ月。そんな寂しい風景のなか、わたしはひとり、緋毛氈ひもうせんの上に寝かされていた。

 首だけ動かし見てみると、少し離れた場所にはかがり火が焚かれ、たくさんの人が酒盛りをしている。


 今、何時だろう? 長屋に戻ったら年越しそばを作って維吹さんと食べようと思っていたのに。


 上半身を起こしてしばらくぼんやりしていると、


「目が覚めたかい?」


 聞き覚えのある声がうしろからかかった。

 タクシーで一緒だったおばあちゃんだ!

 とっさに振りかえると、そこには白髪を丸髷まるまげにした人間ではなく、わたしの腰までありそうな、大きな獣がたたずんでいて——。


「き、狐っ⁉」


 座ったままで飛び上がったわたしに、


「なに言ってんだい、あんただって同じじゃないか!」


 声だけはおばあちゃんのまま狐が言う。

 え? なぜかわたし、狐に間違われてる⁉ だから一緒に連れてこられちゃったの⁉

 狐はしきりとインバネスをぎながら、


「ここは大みそかに関八州かんはっしゅうの狐たちが集まる場所。万一人に見られたら、その人間は食い殺さなきゃいけない決まりでね。だから、自分は人間だなんていつまでも寝ぼけてないで、しゃっきりおしよ」


 と、飛んでもないことを言う。


 わたし、どうして今まで気づかなかったんだろう。

 大みそか、関東八か国の狐が集まると場所といえば、王子にある稲荷神社。江戸時代の浮世絵師、歌川広重うたかわひろしげも題材にしてる有名な場所じゃないの!


「わ、わたし、帰ります!」


 恐怖に押され、はじかれたように立ち上がると、


「帰る? けどもうすぐ殿のお出ましだよ?」


 ほら、と前脚で示された瞬間、酒盛りのざわめきが瞬時に消えた。

 かがり火が一層強さを増して、むこうの緋毛氈の上に、身体が人のふたまわり以上もある大狐おおぎつねが現れた。


「皆の者、集まったか?」


 ひとこと声を発するだけで、口からは青い炎がちろちろ舞って、その威厳たるや周囲の空気が震えるほど。零感のわたしでもはっきりわかる、とんでもない力を持ったあやかしだ。


今宵こよい無礼講ぶれいこう。心行くまで呑み明かすがよい。ただし――そのまえにひとつ」


 思わせぶりに言葉を止めて、あやかしはおほんと咳を払う。


「ここ、わずか百年の間に人間どもは科学の力を発展させ、異国のあやかしですら容易にこの島に渡ってこられるようになった。我らに害成す者も多いゆえ、ゆめゆめ、気を抜くでないぞ」


 その言葉に「ははっ」とかしこまる声が続き、


「では、改めて乾杯といこうか」


 どこからともなく真っ白な千早ちはやを着た狐が一匹、直立歩行でしずしずと現れた。あか漆塗うるしぬりの銚子ちょうしを器用にささげ、大狐が手にしたさかずきに並々と酒を注いでいく。


「では、皆の者――」


 さかずきを掲げて視線をまわし、今まさに乾杯の音頭が取られようとしたまさにそのとき。


「……な、何者っ⁉」

「止まれ、それ以上近づくな! おまえ、止まれと言っているのが聞けんのか!」


 宴のむこうで響いた怒声が、なごやかだったあたりの空気を瞬時に払った。

 まさか、今言ったばかりの異国のあやかし⁉

 狐たちの毛皮が緊張のあまり逆立って、わたしの心臓も跳ね上がる。


 けれど――固唾かたずを呑んで目を見開いたわたしのはるかむこう、狐たちの囲みを割って静かに現れたのは、見覚えのある男性で。

 藍染めの結城紬ゆうきつむぎの上に灰色のインバネス、風が吹けば折れてしまいそうなひょろりとした体型は、誰がどう見ても陰陽師の維吹さん!


「おお! 誰かと思えば! まったく、あやかしを脅かすとはおぬしも人が悪い!」


 大狐がうれしそうに、鋭い牙を剥きだして笑う。

 とたんにあたりから、「若様だ!」「若様が来た!」とほっとしたようなざわめきも溢れだす。


「やっと招きに応じてくれる気になったのだな! さぁさ、遠慮はいらぬ。わしの隣に来い。今宵は共に呑み明かそうではないか!」


 めちゃくちゃご機嫌になった大狐だけど、維吹さんは固い表情で首を振る。


「申し訳ないが、あなたと酒を酌み交わすつもりはまったくない。それよりいい加減、僕を宴に誘うのはやめてくれないか? それと、無関係な人に術を掛けたり、乗りこんだタクシーからいきなり消えるのもやめにしていただきたい」

「……なんだ。ようやく応じてくれたと思えば単なる苦情か。つまらん奴め」


 大狐は盃の中身を飲み干すと、不貞腐ふれくされたようにあぐらをかき直す。


「まったく、タクシーから消えるなぞ、今に始まったことではないではないか。駕籠かごや馬の時代から、間抜けな人間どもは皆我らに化かされてきた。化かされたほうが悪いのだと、なぜそう思えぬ?」


 しかし、維吹さんはことさら大きくため息をつく。


「奥多摩ではサトリが住む場所をなくし、世捨て人の仙人ですら安住の地を失っている。そんな時代に前時代的な化かしかたしか知らず、あまつさえそれを伝統だのとうそぶくつもりなら――いつかあなたも、虚仮こけにしている人間たちから追われる身になるだろうね」

「…………」

「わかってもらえたのなら、僕はここで失礼させてもらうよ」

「いきなり来たと思えばもう去ると言う。まったく人騒がせ、いや、狐騒がせな奴よ」


 大狐は恨みがましそうに維吹さんを見るけれど、陰陽師は取り合わない。

 さっさときびすを返し、それからふと、遠くの毛氈の上にちょこんと座ったわたしに気づき――


「あ、亜寿沙さんっ⁉」

「……こ、こんばんは……」

「こんばんは、じゃなくて!」


 さっきまでの冷たくりんとした雰囲気はどこへやら。つんのめるようにして走ってきた彼はわたしの前で膝をつき、


「もしかしてさらわれたのかい⁉ 妙な術とか掛けられてない⁉」


 両肩に手を置いて、ガクガクと揺すってくる。


「ち、違います、違います! 成り行きでこうなっちゃっただけです!」


 慌てたわたしが顔の前で手を振ると、


「成り行きで狐の宴に参加するって、まったく訳がわからないんだけど!」

「そ、そんなこと言われても! だったら狐の宴に招待されちゃう維吹さんだって、全然訳がわかりませんよ!」

「……そ、それは!」


 藪蛇やぶへびだ、とでも言いたそうな渋い顔で、維吹さんはつか押し黙る。


「……実は、僕の遠い先祖のひとりに母親が狐だという伝説の人がいてね。だから僕も眷属けんぞくのひとりとして、帝都に来てから宴に招待されるようになってしまって……」

「は、母親が狐ぇ⁉」


 それってつまり安倍晴明あべのせいめい⁉ 清明の母親は実は狐だったって話は有名で、それを題材にした『くず葉狐はぎつね』や『信太妻しのだづま』なんてのもあるくらいだし!


「はっきり言って先祖なんてどうでもいいし、僕は実家と縁切りしてるから放っておいてほしいんだけど」


 維吹さんは不愉快そうに立ち上がり、「ほら」と手を差し出してくる。


「……え?」

「ほら、立って! それとも君は、こんなところに長居がしたいの?」

「い、いいです! それより早く帰って維吹さんと年越しそばが食べたいです!」


 白くてか細い、繊細な手。その手を取りかけたまさにそのとき、無数の青い狐火がわたしたちを取り囲んだ!


「きゃっ⁉」

「亜寿沙さん、僕から離れないで!」


 とっさにわたしを背中にかばい、陰陽師が声をあげる。

 いつのまにか、わたしたちのそばに音もなく大狐が立っていた。


「このままでは帰らせんぞ?」


 お腹の底から響くような声で、至近距離から維吹さんの顔を覗き込む。

 どうしてこのあやかし、こんなに維吹さんに執着するの?

 妖狐の一族にとったら維吹さんなんて傍流ぼうりゅうも傍流だし。ほとんど根拠のない、遠い親戚みたいなものなのに。


「それとその女、いったい何者だ?」


 肉食獣の瞳でじろりと睨まれ、わたしは「ひっ」と悲鳴を漏らす。

 本当はなにか言ってやりたいのに、ふたりが反発しあう理由がわからないから意見のしようがない! それになにより大狐が怖すぎる!

 わたしは丸く小さくなって、ただただ維吹さんの背中で震えているしかできなかった。

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