第34話 廻る因果

 翌日、カフェー・フィーニクスに出勤途中のわたしは、うしろから誰かが慌ただしく駆けてくるのに気がついた。

 振りかえれば、それは女給仲間の美津さんで。

 まだ遅刻するような時間じゃないし、そんなに慌ててどうしたんだろう?


「おはよう、美津さん」


 無視されるかもしれない。そう思いながらも挨拶すると、意外や意外、美津さんはいきなりわたしの手を取って、


「お願い、一緒にカフェーまで行って!」


 と、今にも泣きだしそうな顔で懇願してきた。

 乱れた髪に鼻からズレた丸眼鏡。なにかから必死で逃げてきたような慌てぶりに、わたしもついつい不安になる。


「美津さん、いったいどうしたの?」

「それが、妙な男の人につきまとわれて……!」


 言われるがまま、彼女が来た方向を見てみれば、塀の陰から若い男性が覗いている。


「妙な男の人って、あの人?」

「う、うん……」

「わかった。歩きながら話して」


 よろける彼女の腰に手をまわし、落ちつかせるようになるべくゆっくり足を進める。


「……あの人、『君のことをカフェーで見てから忘れられなくなってしまった』て、いきなり声をかけてきたんです。でも私、全然覚えがないし、慌てて逃げようとしたら追いかけてきて……」


 震える声で、訥々とつとつと説明してくれる美津さん。

 異人のラドミールさんが店に来ただけで、無暗に緊張してしまう美津さんだ。普段ならわたしや洋子さんが対応するけど、孤立無援の状態で見ず知らずの男性に声をかけられたら悲鳴をあげて逃げ出してしまってもおかしくない。

 たぶん彼女、めちゃくちゃ怖かったろうな……。

 そんなことを思っていたら、今度は彼女の歩きかたがおかしいことに気がついた。左足を引きずるような、妙に不安定な歩きかただ。


「もしかして、ケガしてるの?」

「う、うん。さっき少し捻ってしまって……」


 驚いて逃げる際に足首でもやってしまったのだろう。

 しかも、その災難はさらに続き、やっと店に着いたと思ったら、今度は安堵のせいか床にばったり倒れてしまった!


「えぇっ⁉ ちょっと美津さん、しっかりして!」

「……ああん? いったいなんの騒ぎだ?」


 騒ぎを聞きつけたマスターが、カウンターの奥からやって来る。


「それが、美津さんが立ち上がれなくなってしまって……」

「はあ?」


 素早く彼女を抱き上げ椅子に座らせ、マスターは「おい、ひどい熱だぞ、こりゃ!」と声をあげる。


「熱?」

「こんなに顔が赤いし、ちょっと手で触れただけでも燃えるように熱いじゃねぇか。まるで俺が西班牙風邪スペインかぜにかかったときみてぇだ」


 一、二年前に流行った凶悪な流感の名前を出して、マスターの顔が青ざめる。


「おい、誰かひとっ走り行って角の医者を呼んで来い!」


 その声にすでに出勤していた燐さんが飛び出していき、同じく洋子さんも「私、水枕を用意するから!」と駆けだしていく。

 残ったわたしはマスターと一緒に美津さんに肩を貸して奥の部屋へ。

 眼鏡を外させ、壁際にあった長椅子に横たわらせると、


「あ、いけねぇ。鍋を火にかけたままだった!」


 マスターも慌てて部屋を出て、後にはわたしと美津さんのふたりだけが残された。

 とはいえ、もうすぐ洋子さんが水枕を持ってくるはずだし、わたしがここにいてもなにかできるわけでもない。


「それじゃ、わたしも仕事に戻るね」


 きびすを返しかけた瞬間、脳裏になぜか、みんなに訊いてまわった願掛けの内容が蘇った。


 一ツ、マスターが西班牙風邪スペインかぜにかかって高熱を出したとき、お参りをしたらすぐに治った。

 一ツ、洋子さんが足首をひねったとき、お供えものをしたらすぐに治った。

 一ツ、燐さんが客の男性につきまとわれて困っていたとき、縁切りをしたらそいつはすぐに現れなくなった。


 無言のまま、わたしは長椅子に横たわった美津さんを見下ろす。

 今の彼女に降りかかっている災難と、かつて誰かがはらったやく。それらがそっくり同じなのはなぜなのだろう?

 浅草寺せんそうじからの帰り道、維吹さんはこう言った。


「このあと僕は、賽銭に掛かった『抑え』を外す。そうすれば硬貨に込められていた厄や穢れはすべて泥棒に降りかかるから」と。


 そうして一日あまりが過ぎて、すべての厄が降りかかったのは美津さん。

 つまり、賽銭泥棒の犯人は美津さんだったってこと……?


 やっと下手人がわかったのに、わたしの心は半信半疑だ。

 だってわたし、彼女に恨まれる覚えがまったくないのだ。とはいえ、このまま無視することもできない。

 なんて彼女に切り出せばいいのか、そしてもし本当に彼女が犯人だったとしたら、このあとどういう決着をつけるべきなのか――。


「亜寿沙、さん……?」


 いつまでもその場を動かないわたしに気づいたのか、美津さんが苦しそうに目を開けた。熱のためか、視点の定まらない瞳でぼんやりこちらを見上げてくる。

 ええい、ままよ!

 駆け引きや鎌掛けなんかが苦手なわたしだ。だったらまっすぐ行くしかない!


「あのね、美津さん。いきなりだけど、わたしに賽銭泥棒の濡れ衣を着せたのって、美津さん⁉」


 ひと息に切り込むと、とたんに彼女の目が見開かれた。


「……わ、私……」

「そうなの? 違うの? どっち⁉」


 あああ、こういう問答しかできないから、同性からは「怖い」、男性からは「がさつで可愛げがない」って言われちゃうんだろうなぁ……。

 やがて、美津さんはふらふらと長椅子の上に身を起こす。

 深くうつむき、膝の上のこぶしを握ったり開いたりしたあとで、


「……ごめんなさい、亜寿沙さん」


 全身から振り絞るように声を出した。

 ということは、やっぱり犯人は美津さんだったってこと……?

 あっさり相手が認めたことで、ほっとしたのと同時に心に衝撃が襲ってくる。わたし、美津さんとは特別仲良しでもなかったけど、だからといって犬猿の仲だったわけでもない。だったらいったい、なにが原因だったの?

 問うようなわたしの視線に、彼女は小さく口を開く。


「だって……亜寿沙さんはすぐにお店のお客と仲良くなれるし、献立表もすらすら暗記できちゃうじゃないですか。なのに私は気が利かなくて不器用で、先輩のくせになにをやっても全然うまくいかなくて――それで、亜寿沙さんの鈴を拾ったとき、魔が差して……!」


 言うだけ言うと、あとはわっと泣き出してしまう。

 そんな彼女にわたしはかける言葉が見つからなかった。

 とんだ逆恨みだと、責めることはいくらでもできる。

 でも、わたしは彼女をたしなめ、説教ができるほどの立派な人間なんかじゃない。

 なぜならわたしは美津さんと同じだからだ。


 ――出来のよい姉と不出来な妹。

 いつも比べられていたわたしは自信を無くして逆恨みまでして、挙句、心に傷をつけるような言葉までかけてしまった。

 おまけにわたしが帝都にやって来た元々の理由は、お姉ちゃんを見つけて仲直りするためなんかじゃない。


「……許してくれとは言いません。私、正直にマスターに打ち明けます。それに、これで踏ん切りもつきました」

「……踏ん切り?」

「ええ」


 泣き腫らした瞳がある種の決意をたたえてこちらを見上げる。


「実は、だいぶ前から縁談の話が来ていて……。嫌だと断っているのに、親がすぐに帰って来いとうるさいんです。本当は、洋子さんみたいな自由な恋愛に憧れて、素敵な人と出会えるように願掛けまでしていたのに。でも、カフェーのお客に声をかけられただけで逃げ出してしまう私には、とうてい無理だとわかりました……」


 美津さんがした願掛けは、予想通り恋愛絡みだった。

 華やかな帝都で、自由な恋に憧れて。

 意外と彼女も今どきの人だったんだな、と思うと同時に、「踏ん切りがついた」の意味するところが「店を辞めて縁談を受ける」ことなのだと気づく。


「だから……最後にこれだけは言わせてください。亜寿沙さんはいいですよね。葉山さんやラドミールさんとも楽しく話せるし、あの維吹さんが親戚で、一緒に暮らしているんですから」


 聞きようによっては開き直りとも受け取れる言葉。それを、わたしは反論もせずに受け止める。

 葉山さんやラドミールさんとのおしゃべりを特別だと思ったこともなかったし、維吹さんとの件も成り行きと偶然の結果だ。

 それでも、大人しくて引っ込み思案で、恋に恋する彼女からすれば十分うらやましいことだったのだろう。


「……ありがとう、美津さん」

「え?」


 お礼を言われるなんて思ってもみなかったのだろう、美津さんの瞳が大きく開かれる。


「それって、どういう……」


 だが、その問いを遮るように、叩戸ノックもなく燐さんと白衣の男性が現れた。


「美津、医者を連れてきた」

「よかった! それじゃあ美津さん、お大事にね」


 入れ違いに部屋を出たわたしは、そのままカフェーを抜け出す。

 向かうは維吹さんが待つ長屋。これ以上、美津さんに厄が降りかからないよう頼まなくてはならない。もう賽銭泥棒の犯人はわかったから、心配しなくていいですって。


 美津さんの告白のおかげで、お姉ちゃんの気持ちがほんの少しだけわかった気がした。

 たぶん、お姉ちゃんも、わたしに恨まれているなんて微塵も思っていなかったんだ……。

 濡れ衣事件は解決したはずなのに、胸の奥が痛くて寂しい。

 あの人の良い陰陽師の顔が見たくて、「お帰り、亜寿沙さん」というやさしい声が一刻も早く聞きたくて、わたしはひとり、帝都の道を駆け続ける。

 我慢しなきゃと思うのに、涙が溢れて止まらなかった。

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