第21話 猿って言ったらヤマネコだった

 鳥の声ひとつ響かない、うっそうとした森の中。

 小泉さんから必死に逃げて、気づけばわたしはどことも知れない森の中に立ちつくしていた。


 ううっ、これっていわゆる遭難てやつ?

 小泉さんにとったら願ったり叶ったりだろうけど、ここで熊に襲われたり、餓死して土に還るのはまっぴらごめんだ。

 でも運よく小屋に帰れたとしても、そのあといったいどうすれば?

 いろいろなことが頭の中をぐるぐるまわり、脳みそが沸騰してしまいそうだ。


 陰陽師の弟子(偽者)になってから、命を狙われるのはこれで二度目。本業の維吹さんなんて、実はああ見えてかなりの修羅場を掻いくぐってきたんじゃないだろうか。


 そんなことを考えながら尾根伝いに降りていくと、いくぶん拓けた場所に出た。さらにそこには炭焼き小屋と、傍らでのんびり煙草をくゆらすおじいさんもいて――。


「あれ? 徳治とくじさん⁉」


 知っている顔に出会ったことで、緊張の糸が切れたわたしはその場にへなへなとくずおれてしまった。自分ではしっかりしていたつもりだったけど、命を狙われた衝撃が、今になって襲ってきたようだ。


「ん? 迷子か?」


 ぼろぼろになったわたしを見て、徳治さんが近づいてくる。

 ああ、どうしよう……?


 実は殺されかけました。

 そう正直に言って、村の駐在ちゅうざいさんを呼んでもらう? いや、「殺人事件をサトリが予言したんです!」なんて、どこまで信じてもらえるだろう? 徳治さんや衣川ころもがわさんならともかく、ついこの前までのわたしのように、「寝言は寝て言え!」で終わってしまいそうな気もする。


「……山を甘く見たらいかんぞ」


 黙りこむわたしの前で、徳治さんは竹を切った湯呑に薬缶から水を注いでくれる。乾いた喉を滑り落ちていく水はおいしくて、ヘトヘトだった身体にゆっくりと力が戻ってくる。軟膏なんこうももらって傷に塗り、固くなったふくらはぎを手で揉みほぐす。

 そうして気分が落ちついてくると、さっきの一件を冷静に振り返られるようになっていた。


 とりあえず、小泉さんのことは黙っているべき?

 単に魔が差しただけかもしれないし、思うことと実行に移すことは別物だ。ちょっと気の荒い職人なんか、すぐに「ぶちのめすぞ!」なんて言うけれど、本当に殴った場面は見たことがない。なにより、まだつきあいの浅い小泉さんだけど、彼が乱暴なことをするようには思えないのだ。

 ……まぁ、とっさに逃げてきた奴がなにを言う、って話だけど。


「で? サトリには会えたのか?」


 わたしが水を飲み終えたのを見計らい、徳治さんが訊いてくる。


「会うには会えましたが、退治なんて夢のまた夢です……」


 神出鬼没で情け容赦なく人の心を暴き出す。ある意味、直接牙を剥いてくるあやかしよりも厄介だ。


「まぁ、サトリを倒すなんて、この山できんを見つけるようなもんだしの」

「金……?」


 唐突に出てきた例えにわたしはきょとんとしてしまう。


「なぁに、サトリ退治も金探しも、同じくらい無茶だってことよ。ここらにゃ大昔から金掘きんほしゅうがやって来たが、出ても石灰か満礬マンガンがいいところ。今までさんざん掘っても出なかったものが、この大正の御代に奴らの前に運よく姿を現すとは思えんのでな」


 さらに意味不明な単語が飛びだして、わたしが「奴ら?」と訊き返すと、徳治さんは「ここに来た鉱夫らのことよ」と苦笑してみせた。


「金鉱を見つけた、なのに独り占めしようとした、と血を見るような喧嘩になっての。互いに疑心暗鬼になったあげく、最後は山から出ていった。ま、煮炊き用の炭を大量に買ってくれた上客だから、それを貶すのはちと心苦しいが」


 つまり、あの小屋の惨状はこのときの喧嘩が原因だったのだ。

 でも、わたしが聞いた話はサトリを気味悪がった鉱夫たちが逃げ出したというもの。ありもしない金を巡って喧嘩になったとか、そんな話は聞いていない。

 どこかで話が食い違った? それともふたつの話は同じもの?

 なんだろう? 妙に心に引っ掛かる……。


「ま、おまえさんたちもいい加減諦めて、帰ったほうが身のためかもれしん」


 考えこむわたしをよそに、徳治さんは話をさっさと締めくくる。


「さて、それではわしも帰るとしようか。世間は盆だというに、仏さんをほったらかして小屋の見回りに来たのがバレたら、息子夫婦に炭馬鹿じじいと罵られてしまうわ」


 自嘲気味にひとりごち、地面に落とした煙草を踏みつぶす。

 と、ちょうどそのとき。背後でガサリと音がした。


「サ、サトリ⁉」


 パッとわたしが振り返ると、そばの木には子猿が一匹。まだあどけない顔をして、物珍しそうにこちらを見ている。


「なぁんだ、ただのさ……」

「それ以上言ったらいかん!」


 とたんに徳治さんが爆発したように叫び、灰まみれの手でわたしの口をバッと押さえた。


「む……むぐぐぐ⁉」

「おまえさん、山言葉やまことばを知らんのか?」

「むぐ?」

「……まぁ、街のもんならあたりまえか」


 いきなりのことにわたしが目を白黒させていると、徳治さんは低い声できっぱり言う。


「いいか? ここではあれを、そのままの名前で呼んではいかん」


 こくこくとうなずいてみせると、ゆっくりと手が離れていく。


「ぷはぁっ! い、いったいどういうことですか?」


 理由を求めて涙目で訊ねるも、「そういう決まりだ、昔から」という、答えになっていない答え。


「一歩山に入ったら、里で使っている言葉――里言葉さとことばで呼んではいけないものがある。例えばあれは……」


 徳治さんは猿を指さし、


「このあたりでは、ヤマネコと呼んでいる」

「猫じゃないのに?」

「理由はとっくに失われて、もはやわしでもわからん」

「じゃあもし、うっかり呼んでしまったら……」

「その日は仕事をやめて山を降りる。でないと災いが起こると言われていてな。大学の偉い先生の話では、この国で山仕事をする者には共通する習慣らしい」


 迷信深い、と一笑に付してしまえばそうなのだろう。

 けれど、徳治さんの顔は真剣そのもの。笑いとばすことなんてとてもできない。

 それにしても、山言葉を使うと災いから逃れられるってどういうこと? 災い、というのも具体的に気になるし――。


 あれ?

 ふと、わたしの頭になにかが閃く。

 もし、災いの正体を「サトリに心を読まれること」だと仮定したら? 山言葉を使うことで避けられる? そもそも山言葉とは、山の中で口にする言葉。心で思うぶんには里言葉でも構わなくて……というか、普通、里言葉で考えちゃうよね?

 頭が混乱しそうになりながら、自分なりに整理していく。


 もしかしたら、このからくりを解くことで、サトリを退治することが――少なくとも隙を作ることができるかも。

 これ、絶対に維吹さんにも伝えるべきだ!


 あれこれ考えながら視線を再度木に戻すと、子猿の姿はいつのまにか消えていて。

 ただ、猿が掴んでいた枝だけが、左右にゆらゆらと揺れていた。


―――――――――


※「山言葉って実際にあるんですね」というコメントをいただいたので、ほんの少し解説を。

山言葉は木こり、炭焼き、猟師、材木の川流しなどをしていた人が使っていた言葉で、山中限定。

たとえば、作中の「猿」を「ヤマネコ」と言い換えるのは武蔵国(東京都、埼玉県、神奈川県の一部)になります。

他にも地方ごとにいろいろな山言葉があるんですが、わたしが一番おののいたのは、そのものずばりの「山言葉にる」。

越後で「死ぬ」を意味するんですよ……!

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