第15話 爪楊枝でも、やるときはやるのです

 翌朝。

 昨日の騒動から一夜明け、なんだかまだ夢を見ているような気分だったわたしは朝一番で銭湯に出かけた。早いところは六時から開いていて、朝風呂と洒落込むには持ってこいなのだ。

 ほとんど客のいない大浴場。そこで心身ともにすっきりして、鼻歌まじりに帰ってくると、葉山さんが面目なさそうな顔で長屋の板戸の前に立っていた。


「や、おはよう」


 なにげないふうを装ってあいさつしてくるけれど、頭に来ていたわたしはとうぜん無視だ。


「ごめん、やっぱ怒ってるよな⁉ 実は昨日、一度雑誌社に戻って出直そうとしたら、運悪く先輩に捕まって手伝いを頼まれちゃって。この埋め合わせは必ずするから!」


 顔の前で手をすり合わせ、必死で拝んでくる葉山さん。

 あんた、ねぇ……。

 その予定外の行動のせいで、わたしはとんでもない目に遭ったんだけど! おまけに懐中電灯もかさばるだけでまったく出番がなかったし! あれ、どこかの質屋にでも売ってやろうかしら⁉

 喉元まで出かかった言葉をぐっと呑み込み、代わりにしれっと言ってやる。


「もうあの怪談、取材しても無駄よ」

「え?」

「維吹さんが退治しちゃったから」

「えぇっ⁉」


 とたんに彼は、窒息気味の金魚のようにせわしなく口をパクパクさせる。


「そ、それどういうことだよ? やっぱ凶悪な追剥おいはぎがいて――いや、維吹先生みたいな爪楊枝つまようじが追剥に立ち向かえるわけないよな? じゃあまさか、本物のあやかしがいてやっつけたってこと⁉」


 爪楊枝はちょっと……と思ったけど、わたしは重々しくうなずいてみせる。


「マ、マジ⁉」


 そのときの話をくわしく! と興奮気味にせがまれたけど、わたしは木戸を音高く閉めてやる。そのまま彼が追ってくる気配もなく、長屋の敷地は夏の午前の日差しを受けて静謐せいひつな空気を漂わせている。

 そして、その日を浴びて白くさらされてしまったような頼りない風体の維吹さんが、珍しくおもてに立っていた。


「……よかった、帰ってきた」


 わたしが声をかけるよりも早く、維吹さんが息を吐く。


「帰ってきた?」

「いや、昨日あんなことがあったし、気味悪がられて逃げてしまったんじゃないかって」

「銭湯に行くって嘘をついて?」

「――ああ」

「まさかぁ!」


 わたしは笑ってしまったけれど、維吹さんの表情は動かない。

 たぶん、過去に同じようなことがあったのかもしれない。うっかりにしろ故意にしろ、自分の力を見せて嫌われて――。


「あ……でも君は、僕が手も使わずに木戸を開けたり、式神を使って牛乳瓶を開けても怖がらなかったものな」


 う。全部手妻てづまで「反応したら負け!」なんて思っていたとか、今さら言えないよ……!

 信じたくはないけど、わたしはこの目であやかしを見てしまった。さらに襲われて命を奪われそうになってしまったのだ。

 今までの価値観がすべてひっくり返って、ちょっとどうしたらいいのかわからない。

 い、いや、でも、インチキな拝み屋はこの世にたしかに存在するし、あやかしだと思ったら科学的に説明がついちゃいました、なんてことがあるのも嘘ではない。だから今は少しばかり、視野が広がったと前向きな気持ちでいることにしよう……。


「亜寿沙さん、このあとはカフェーで仕事かい?」


 維吹さんが穏やかな顔で訊いてくる。


「ええ!」


 とびきりの笑顔でわたしはうなずき、そのまま自分の長屋の前まで何歩か歩いて――ふとあることを思い出して振り返る。


「今度のお休み、牛乳寒天作りますからね!」


 その声に維吹さんはしばしのあいだ目を見張り、やがてにっこりほほ笑んでくれる。

 見上げれば、帝都の空はどこまでも青く澄んでいて。

 今日も暑い一日になりそうだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る