第10話 一男(いちなん)去って、また一男(いちなん)

 葉山さんとの約束の日。わたしは待ち合わせの時間よりも早く来ていた。

 天気は曇り。空はどんより暗いけど、雨が降る心配まではなさそうだ。


 一周が半里ほど(約二キロ)の不忍池しのばずのいけのまわりには、屋台や茶店が並んでいて、たくさんの人でにぎわっている。ここを過ぎると上野の山で、丘を登るとあの有名な西郷隆盛さいごうたかもりの像や帝室博物館ていしつはくぶつかんが建っている。


 ――この人混みの中に、ひょっとしたらお姉ちゃんが……。


 きょろきょろとあたりを見まわしても、それらしき人影はない。池の蓮を眺めたり、甘味を頬張ったりと、みんな思い思いに楽しんでいる。

 知らない土地でひとりきり。幸せそうな人でいっぱいの場所にたたずんでいると、なんだか自分が異物のように思えてくる。


 ああ、なんだかこういうところって苦手だなぁ。まえはそうじゃなかったのに。

 ため息をついてぼんやり周囲を眺めていたら、むこうから仇敵きゅうてきが歩いてくるのに気づいてしまった。まっすぐに伸ばされた背中、油断なくあたりを警戒する冷たい瞳。誰がなんと言おうと衣川ころもがわさんだ!


 ここはあいさつすべき? でも無視されたら悔しいし!

 どうしようかと悩んでいたら、わたしとあまり歳の変わらない女の子が、小走りで衣川さんの前までやって来た。ここからではわからないけど、頬を真っ赤に染めてなにやら一生懸命話しかけている。

 でも、衣川さんは相変わらずの鉄面皮で。風に乗って、一瞬「人違いだ」という声がこちらに届き、あとはまたなにを話しているのか聞こえなくなってしまう。

 と――さっさと女の子に背中を向けて、冷血軍人は歩きだしてしまった。ちょっぴり泣き出しそうな顔で、その背中を見つめる女の子。「人違いだなんて、そんなはずないじゃない」とつぶやいた声が、またもやこっちに流れて来て……。


 これってもしや、愛の告白⁉ 白昼堂々、帝都の女の子って大胆だなぁ!

 冬の日の夕暮れ、西の空にただひとつぽっかり浮かんだ三日月のように、怜悧れいりな印象の衣川さん。その容姿に一目ぼれしちゃう子がいてもおかしくはないんだけど。

 でも彼は堅物そうだし、きっと今のように「人違いだ」でかわしてしまうのだろう。


 なんとなく見てはいけないものを見てしまったような気がして、とっさに茂みに隠れると、わたしに気づかず衣川さんは行ってしまう。いや、気づいていたかもしれないけど、地を這う蟻に注意を払う人間がいないように、取るに足らないものとして彼の中で処理されてしまったのかもしれない。となると、わざわざ身を隠した自分が馬鹿々々しく思えてくる。


 あーあ、わたし、なにやってるんだろう……。

 我知らず肩を落としてしまったら、


「これはこれは! 亜寿沙さんではないですか!」


 唐突に明るい声が響きわたった。


「そんな物陰でどうされたのです? ……はっ、ひょっとして誰かに追われているとか⁉」


 たちまちのうちわたしに背を向け、手にしたステッキを構えて警戒態勢を取る露西亜ロシアの紳士。


「えっ? 追われてなんかいませんよ! わたし、そんなに素行が悪そうに見えるんですか⁉」

「いえいえ、亜寿沙さんは大変魅力的な女性です。無理やり親しくなろうとする不埒ふらちな輩がいてもおかしくないのでね!」

「……はあ?」


 そ、そんなわけあるわけないでしょうに! どちらかといえば負けず嫌いで攻撃的、触らぬ神に祟りなしって扱いをされてきたんだから! ラドミールさん、わたしのこと買い被りすぎだよ!


「ほんと、大丈夫ですから! そのステッキ降ろして下さい!」

「本当に? ……失礼。自分の勘違いでしたか」


 ラドミールさんは、すっと背筋を伸ばすとわたしのほうへ向きなおる。


「では亜寿沙さん、こんなところでいったいなにを?」

「人と待ち合わせです。ラドミールさんは?」

「自分は散歩です。たくさん人間がいる場所が大好きなので」


 りんさんによれば、ラドミールさんは露西亜からひとりでやって来た人。同じくひとりで田舎から出てきたわたしとは、同じような境遇なのに。

 片や、人混みが苦手になってしまったわたし。片や、大好きだという彼……。


「ひとりで日本に来て、寂しいと思ったことはないですか?」


 思わず訊いてしまったけれど、しかし、彼は屈託がない。


「知り合いの誰ひとりいない、まっさらな土地へ行く。それはつまり、新しい自分としてやり直せる、ということでは?」

「……でも。そんなにうまくいくでしょうか?」


 どんなに土地が変わっても、自分は飽くまで自分だ。わたしなんて、上京一日目にして鼻もちならないきつい女という、いつもの自分を丸出しにしてしまったわけだし。


「まぁ、生きかたは人それぞれですから。気持ちがふさいだら、私のところに遊びに来るのもオススメですよ?」


 パチンと片目をつぶってみせ、ラドミールさんはどこまでも快活だ。


「そう言えばラドミールさんは、六区でお仕事されてるんですよね?」

「ええ。今年の春に浅草で大きな火事がありましてね。そのとき被害に遭われた方が故郷に帰られるとかで、お持ちの建物を安く譲っていただけたんです。そこで見世物をやっています」

「見知らぬ土地で商売だなんて、ラドミールさんはすごいですね」

「いえいえ、気の向くまま、暇つぶしでやっているだけですから」

「暇つぶし……」

「そう、人生は暇つぶし。だったら楽しいほうがいいでしょう?」


 では、と役者のような優雅な礼をひとつ、穏やかに紳士は去っていく。

 その後ろ姿を見送りながら、わたしはひとり、立ちつくしてしまっていた。

 そう言えば、維吹さんもどこからかひとりで帝都に来た人だっけ。

 彼に同じ問いを発したら、なんて答えるんだろう?

 寂しかった? それとも清々した?

 どちらも想像がつかなくて、わたしはしばし考えこんでしまった。

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