第9話 恋多き女と仮想敵

 翌日、カフェーに出勤したわたしは、「なんだか元気がないわねぇ」と洋子さんに声をかけられた。


「もしかして、昨日の初仕事で張り切り過ぎた?」

「いえ、そういうわけじゃないんですけど」

「じゃあなによ?」


 テーブルを拭き、花を生け替え、くるくると働きながらも洋子さんは新入り女給の観察に余念がない。昨日、ラドミールさんに気に入られるような行動をとってしまったせいで、彼女に「こいつは危険だ」と思われてしまったのかもしれない。

 ああ、面倒だなぁ……。

 そうは思いつつも、ちょっと訊いておきたいこともある。


「洋子さんは、最近流行している不忍池しのばずのいけの怪談って知ってます?」


 わざとおびえたふうを装うと、とたんに彼女はおかしそうに笑いだした。


「なぁに? あんなのが怖くてふさいでたわけ? 夜中に池まで行かなきゃいいだけじゃない!」

「いえ、でも怖いじゃないですか!」


 ここから不忍池までは四、五町ほど。近すぎず遠すぎず――といった距離だ。

 それにしてもこの怪談、あまりそういうのに興味がなさそうな洋子さんまで知ってるなんて。ちょっと意外かも。


「これ、かなり有名な話なんですか?」


 さりげなく訊ねてみると、


「ほら、上野のそばの本郷ほんごうには帝国大学があるじゃない? そこの学生の間で肝試しのひとつとして流行っているらしいのよ。この店にも帝大のお坊ちゃまがたまに来るから、それで小耳に挟んだんだけど」

「……なるほど、今度の狙いは帝大生か」


 そばでテーブルを拭いていたりんさんがつぶやいて、


「あ、何人か常連さんがいますもんね! お目当てはどなたです?」


 無邪気に美津みつさんも声をあげる。


「ちょっとぉ! そういう下衆げすの勘繰りやめてよね~!」


 洋子さんは顔を真っ赤にして叫ぶけど、たぶん燐さんの勘は当たってる。

 帝大っていうと、バンカラ――粗野で荒々しくて男気を大切にする人たち――がいっぱいいて、破れた学帽にマント、高下駄姿のイメージが強い。

 恋のお相手としてひ弱な陰陽師もアリだけど、バンカラ学生もアリって……洋子さんの守備範囲はほんと広いなぁ。


「ほらおまえら、いい加減おしゃべりは仕舞いにしろ! 店を開けるぞ!」


 奥からマスターが叫び、わたしたちは「はぁい!」と声をそろえる。

 店の外に看板を出しにいくと、背後から「よお!」と元気な声がかかった。振りかえれば鳥打帽にズボン吊り姿の見慣れた男性が立っている。


「あれ? 葉山さん?」

「おまえがちゃんと働いてるか、見に来てやったぞ」

「はあ? そんな心配無用だから!」

「紹介した手前、おれにも責任てもんがあるんだよ!」


 葉山さんはずかずかと店の中に入っていき、「ライスカレー!」とひとこと。

 お気に入りらしい、窓際の席に腰を下ろしたのを確認して、


「ところで葉山さん。最近このあたりで流行ってる怪談なんだけど……知ってる?」


 思わずこそりと訊いてしまうと、


「浅草の不死身男? それとも不忍池の怪談?」


 さすがは『神秘世界』の雑誌記者、怪談のストックをいろいろ持っているらしい。


「えぇっと、不忍池のほうなんだけど」


 すると彼は「ああ、そっち?」と腕組みをして、


「なかなかおもしろいけど、記事にするにはもう少し何かが足りないんだよね」


 と苦笑いしてみせた。

 つまり、お国が維吹さんに調査を依頼したことまでは知らないのだろう。知っていたら、もっと真剣に首を突っ込みそうだもの。


「ん? なんだ? 人の顔をじっと見て」

「ううん、なんでもないわ」


 余計なことは漏らさない。わたしは維吹さんの弟子ではないが、単なる店子たなこが大家に迷惑はかけられない。


「実は、その怪談についてちょっと気になることがあるのよ」

「へーえ? どんなふうに?」

「なんだか腑に落ちないというか、怪談そのものがおかしいというか……」


 いろいろ話をしたかったが、仕事中にこれ以上の長話は気が退ける。

 そんな気持ちを葉山さんも察したか、


「おれ、明日は休みなんだけど」


 と誘ってくる。


「あ、実はわたしも!」


 山の手の御屋敷から声がかかり、マスターは明日一日、出張厨夫しゅっちょうコックなのだ。


「じゃあ、不忍池で待ち合わせするか」

「そうね。それがいいかも」


 どう考えてもおかしい怪談。それに対して葉山さんはなんて言うのか?

 ちょっとわくわくしてしまったら、


「亜寿沙さん! さっきからなにをこそこそしゃべっているの⁉」


 いきなり脇から叱責が飛んで、わたしはその場で飛び上がる。


「よ、洋子さん! すみません!」


 彼女にこれ以上目をつけられて、敵認定されたら大変だ。


 わたしはちろっと舌を出すと、急いで女給の仕事に戻ったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る