不忍池にはあやかしが出るそうです

第7話 カフェーの女給は異人に好かれ

 翌日から、わたしはカフェー・フィーニクスで働き始めた。

 熊みたいな風体の店主は、その名も山田熊吉やまだくまきち。嘘かホントか上野の山の精養軒せいようけんで洋食の修行を積んだこともあるらしい。


 カフェーも日本に上陸当初は、文人や芸術家のサロンって感じだったらしいけど。最近はだいぶ気楽なものになって、かわいい女給さんを売りにしたいかがわしい店も増えてきた。

 まぁ、ここはとりあえずおいしい西洋料理を前面に押し出した健全な店だから、その心配はなさそうだけど。


「へえ、あなたが新入りさん? 私は常盤洋子ときわようこ。よろしくね」


 耳が出るくらいの断髪に、細い引き眉、口にはルージュ。女給というよりモダンガールといった見た目の洋子さんはこの店の看板娘だ。

 ほかに、丸眼鏡で気のやさしそうな美津みつさんや、寡黙で無表情、だけどとびきり美人なりんさんという年下もいる。


「亜寿沙さんは陰陽師先生の店子たなこなんでしょ? ちょっとうらやましいわ」


 開店前の準備をしながら、洋子さんは興味津々だ。


「うらやましい?」

「だって……素敵でしょ、あの先生」


 どこかうっとりとした表情で彼女は言うけど、ボウフラと穀象虫こくぞうむしを飼育する虚弱体質男を素敵だなんて――かなり趣味が悪いような。それとも、サナトリウム文学に出てくるような、はかないタイプが好きなのかな?


 そんなことを考えながら、テーブルを拭いてクロスを敷く。

 今日の帝都は朝から雨だ。気づけばもうすぐ梅雨の季節。客相手の商売は天気に影響されやすいから、今日は閑古鳥かんこどりが鳴いちゃうかも。


 が――そんなわたしの予想を裏切るように、開店時間が来るなり店のドアベルが勢いよく音を立て、おまけにやって来たのは金髪碧眼きんぱつへきがん異人いじんさん!

 肩幅が広くて背も高く、三つぞろえのよく似合う姿はまさに紳士。異人さんの年ってよくわからないけど、たぶん三十代の半ばだろう。


「あらン、いらっしゃいませ、ラドミールさん!」


 鼻から抜けるような高い声を出して笑顔で前のめりになる洋子さん。「ひっ!」と持っていたお盆で顔を隠す美津さんに、「美津の異人嫌いはなかなか治らないな……」とつぶやく燐さん。


「こんにちは。おやおや、新人さんですか? レースのエプロンがよく似合いますね」


 ラドミールさんはちらっとわたしを見て笑顔になる。

 すごい、日本語完璧だ!


「いつものやつで」

「はァい!」


 注文を受けた洋子さんがカウンターの奥へとすっ飛んでいき、わたしは壁の隅で美津さんや燐さんたちと一緒に待機。


「ラドミールさんて、お国はどこ?」


 思わず小声で訊いてしまうと、


「たしか露西亜ロシア斯拉夫系スラブけい。革命のせいでいろいろあって、ひとりで日本に渡ってきた」


 燐さんがすらすらと教えてくれる。


 お隣の国、露西亜ロシアでは、長いこと国を治めてきた皇帝が革命によって廃されてしまった。その後、国の主導権を巡ってさまざま派閥が争いを繰り広げ、現在は目を覆いたくなるような内戦状態に陥っている。


「ラドミールさん、今は六区ろっくで仕事をしていて、天気が悪い日はうちに来る。客の入りが悪いから暇なんだとか」

「六区って、浅草の? 劇場や映画館のある娯楽街よね?」


 そんなところで異人さんがなんの仕事をしてるんだろう?

 と――。


「ちょっといいかな? そう、そこの新人さん」

「は、はいっ!」


 話題のラドミールさんに、ちょいちょいと手招きされてしまった。


「最近、やけに蒸し暑くなってきましたね。特にこの国の湿気はどうも合わない」


 んん? なんでいきなり世間話?

 わけがわからずニコニコしてしまったら、


「というわけで、なにかお勧めの飲みものはありますか?」

「えぇっ?」


 唐突な質問にドキリと心臓が跳ね上がる。

 ど、どうしてわたしにわざわざ訊くの⁉ それとも新人の実力を試してやろうって魂胆なわけ?


「そうそう、私はしゃべることはできるのですが、日本語の読み書きができなくて。なので、献立表を持って来られても困りますよ?」


 こちらを観察するように、青い瞳でわたしを見つめるラドミールさん。

 うわぁ、焦る!

 必死で平静を装いながら、脳内に叩き込んだ店の献立を引っ張り出す。さっぱりするならソーダ水が一番だけど、たぶん、そんなありきたりなものは求めていないはず。他にできるといったら珈琲や紅茶、頼めば日本茶も注文可能で。いやいや、違う、もっと臨機応変に、気の利いたものを――!


「モ、モルスはいかがですか?」


 わたしの口から飛び出た単語に、ラドミールさんが不意討ちされたように目をまたたかせた。


「モルス……」

「失礼ですけど、ラドミールさんは露西亜ロシアの方ですよね? 店にある材料でお作りできますが」

「……では、それをいただきましょうか」

「ありがとうございます!」


 ぺこっとお辞儀をひとつすると、洋子さんと入れ違いにカウンターの奥へと駆け込んで、ことの一部始終を報告する。


「勝手なことをしてすみません!」

「いや、客の喜ぶものをお出しするのが厨夫コックの仕事だからな」


 マスターは特に気分を害したふうもなく、淡々とフライパンを動かしている。


「だが、モルスというのは?」

露西亜ロシアの家庭で作られる、果物を使った飲みもののことです。このお店、献立にストロベリーコンポートがありましたよね?」

「苺を砂糖で煮たやつなら、硝子ガラスびんに入っていくらでもあるぞ」

「そのシロップをきれいな水で割ってお出しすることは可能ですか?」

「んなもの、造作もないわ」

「よかった……!」


 本物のモルスは苔桃こけもも蔓苔桃つるこけももで作られる。だが、最近では苺や木苺を利用したものもあるらしい。


「お待たせしました!」


 赤く、きれいなシロップの水割りをお出しすると、ラドミールさんの瞳が子どものように輝いた。


「新人さんはすごいですね! これをどこで知ったんですか?」

「姉の知り合いが露西亜ロシアにいまして。たまに送られてくる手紙に現地の風俗などが書かれていたので」

「ほう……」


 両手で硝子のコップを捧げ、光を透かすようにして見とれるラドミールさん。

 喜んでもらえてほんとによかった……!

 ふとまわりを見まわせば、店内はいつのまにかお客で半分埋まっている。


「それではごゆっくり!」


 わたしが笑顔できびすを返すと、


「ちょっと待って」


 慌てたようすのラドミールさんに引き留められた。


「新人さん、名前はなんというのですか?」

「亜寿沙ですけど」

「亜寿沙さん、ね。覚えておきます」


 ……こういうとき、なんて返事をしたらいいものやら。

 曖昧にうなずいて、わたしはすぐにお隣のテーブルに注文を取りに行ったのだった。

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