十三話 神様になんて、いのってやらない

 円蓋えんがいをそのまま緩く地まで伸ばしたような、硝子で囲われた丸く円い空間の中央に、一本の大樹が植わっている。身を反らさなければ天辺が見えないほど巨大なその樹は、射し込む日の光など関係なく淡く光っていた。神々しい大樹をふかふかの土がそっと支え、青々とした草花が取り囲んでいる。


 この世にも美しい光景が広がっているのは、白く神々しく荘厳な神殿の奥の奥、その最奥部だ。昨日ルヴィ殿下が言っていた『王族さえも立ち入ることのできない場所』である。ドレスが保管されていた場所とはまた別の場所のようだが。


 オリビアに希望だと例えられたその後、私は彼女に連れられて神殿にやってきていた。しかし、そのオリビアの姿はここにはない。王族が立ち入れない場所に、いちメイドである彼女が入れるわけもないのだ。


 代わりにいま私の隣にいるのは、


「──聖女。いかがなさいましたか」


 本日も厳めしい顔をしている神官長だ。本日も、といっても昨日の彼の表情をきちんと覚えているわけではないのだが。例に漏れず、私は昨日見たはずの神官長の面立ちだって忘却している。


 とにかく、隣に立つとその背の高さが良く分かる彼が、私をここまで案内してきてくれたのだ。


 少し身を屈めるようにして私を覗き込む神官長は、昨日と変わらず眉間に皺を寄せている。神殿から出てきて私の姿を認めた途端にその皺が更に深く深くなっていたのは、気のせいだと思いたい。


 彼を見上げていた視線を、何にも邪魔されずのびのびと枝葉を広げている大樹に向けなおす。


「神官長、あれがおっしゃっていた神樹ですか?」

「えぇ、そうです。聖女にはこれから毎日、あの神樹に向けて祈りを捧げていただきます」


 私たちの会話など当然意にも介さず、大樹に宿る光は、まるで呼吸をしているかのように緩やかな明滅を繰り返していた。


 神樹というのは、かつて神がこの地に授けたとされる聖なる樹木だそうだ。国に何らかの危機が訪れた際には聖女の祈りを得て、守護の力を発揮するらしい。つまりこの大樹は、聖女とはまた別の意味で神の代理人なのである。


 で、あるならば。その神聖なる樹を囲うこの空間に、王族すら立ち入ることを許されないのは道理だろう。樹と同じく神の代理人たる聖女と、聖女不在の間神殿を取り纏める神官長しか立ち入りを許されないのだって道理だ。


 益体もないことを考えながら、私は神樹に歩み寄る。一歩踏み出す度に、私の足を受け止めた地と、その周辺の草花がきらきらと光った。水面に生じる波紋のように広がっては消えていく光を何気なく目で追いながら、神樹の根元に辿り着く。ここからではどんなに身を反らして頑張っても、この大樹の天辺は見えない。


 ふと振り返れば、神官長はまだこの最奥部の出入り口付近で立ち止まっていた。


「神官長ー、こっち来ないんですかー?」

「聖女がいらっしゃる今、私がみだりに神樹へ近づくわけには参りませんので」

「今までこの樹のお世話をしてきたのはあなたなのに?」

「神官長とはあくまで聖女の代理。聖女をこの国にお招きした今、代役としてこなしてきた物事に尚も手出しをするつもりはありません」

「ん、そうですか」


 何だか仕事を横取りしてしまったような気まずさを感じなくもないが、本人がいいと言うのならいいのだろう。


 そう自分を納得させて、目の前に聳え立つ神樹に向き直った。聖女である私がすぐ傍に立っても、神樹は何の反応も見せない。ただただ緩やかに光を点滅させているのみだ。


 その表面に触れる。感触は普通の木と同じだ。ざらりとしていて、でもどこか柔らかく温かい手触り。


 光っていることとありえないほど大きいことを除けば、どこにでも生えていそうな木だ。


 それを確認し、私はこっくりと頷いた。そしてまたしても神官長を振り返る。


「神官長」

「何でしょうか」

「祈りを捧げるってどんな感じですか? 何か儀式とかあります?」

「…………」


 神官長が呆れ返ってしまったのがひしひしと伝わってくる。確かにここに来るまでに一度も問わなかった私が悪い。悪いとは思うが、その辺りにちっとも触れてくれなかった神官長もちょっとは悪いと思う。


「すっかり失念してしまっていました。特に儀式も作法もありません。ただ、心を込めて祈っていただければ」

「心を込めて、ですか」


 ちらりと神樹を見上げる。内側からふわふわと光る樹は神々しく、これを見たならどんな不信心者でも神の存在を信じざるを得ないだろう。私は、もう随分昔から神の存在を知っていたが。


「あの、神官長」

「はい」

「祈るのって、神様にじゃないといけませんか?」


 今まで私の声にすぐ応えてくれていた神官長が、言葉を失った。私の問いのせいで、世界がやけに静かになる。悠然と佇む大樹さえ、その呼吸めいた明滅を僅かに乱したように見えた。


 鋭く張り詰めた空気を誤魔化すように、私はへらりと笑みを貼り付ける。


「神様に向けてだと、ちゃんと心から祈れる気がしないんですよ」

「それは、……えぇ。問題は、ないかと。『聖女の祈り』が大切なのですから。歴代の聖女も、あるいは」


 私の発言を噛み砕いて飲み込もうとするかのようにしばらく固まっていた神官長が、ふいに私を見た。誠実で真っ直ぐな視線が私を射貫く。


「神に祈らないのであれば、貴女は何に祈りを捧げるのですか?」

「そうですね……」


 言いながら、私は考える。


 何に祈ろうか。神でも仏でもなく、私が心から尊敬し、私が心から祈りたいと思えるもの。難しくてすぐには思いつけないけれど、でも私は絶対に神様になんて祈りたくないのだ。


 考えて考えて、考えて。


 ぱちりと泡が弾けるように答えが浮かんできた。


 人々が神に祈りを捧げるのは、それが強く尊く美しいものだと思っているからだ。なら、私が強く尊く美しいと思っているものは。


 意図して貼り付けたものとは違うであろう笑顔が、自然と浮かぶ。


「ゼーレリアに生きる人々に。尊き命たちに。私の祈りは全て彼らに捧げましょう。私は彼らのために彼らへと祈ります。彼らが健やかであるように、幸せであるように祈ります」

「そう、ですか」


 神官長の目が、ほんの少しだけ見開かれた。しかし、その表出した驚きは直ちに押し隠されてしまう。なので私の答えを彼がどう思ったのかは分からなかった。少なくとも合ってはいないのだろう。だって神に祈ることを拒否したのだから。でも間違ってもいないのだろう。苦言を呈されはしなかったのだから。


 勝手に結論を出して、私は神樹へと向き直る。目を離して考え込んでいた間に、樹の乱れた呼吸は整っていた。表皮を優しく撫でて膝をつく。これが真実神が残したものであるというのなら思うところがないではないが、お仕事はお仕事だ。私ごときが誰かの役に立てるというのなら、いくらだってこの身を捧げよう。


 正しい祈り方なんてものは分からない。何せ、最後に何かへ祈ったのがもう随分前なのだ。人の顔や名前よりもずっと深くずっと強く廃忘している。


 それでも私は祈る。それがこの国を生きる人々の安寧を守ることになるのなら。オリビアのために、神官長のために、第一王子殿下のために、──忌み子たる、ルヴィ殿下のために。


 いくらだって、祈りを捧げよう。

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