十二話 間違っているけれど、まちがいにはしたくない
夜の帳に覆われていた空の向こうで、太陽が姿を見せはじめてから数時間。
朝日の温もりが体を包んでも尚バルコニーに突っ立っていた私の耳に、トントンという微かな音が届いた。
「失礼いたします聖女さま。オリビア・シェルハームでございます……っ?」
「あ、オリビア! おはようございます」
約束通り名乗ってくれたオリビアが、部屋に入ってくる。ここからでは良く分からないが、何かを持っているようだ。今日も緑髪を三つ編みに纏めた彼女は、カーテンの隙間から私を捉えると固まってしまった。
私は小首を傾げて手すりを離れる。名前を教えてくれたのが嬉しくて元気一杯に挨拶してしまったから驚かせてしまったのだろうか。それとも、一晩中窓を開けっ放しにしていたから怒っている? そうか、それは怒りますよね。
「えっと、オリビア」
「聖女さまっ」
「はい!」
言い訳をしようと口を開いた途端、オリビアは呪いが解けたように私の名前を弾けさせた。反射的に私の声も大きくなる。
ぱたぱたと駆け寄ってきた彼女の瞳には、怒りと心配が
「聖女さま、そのような薄着で外に出られてはいけません! 風邪を召されてしまいますよ! あぁっ、こんなに冷えてしまっているではありませんか。早く中へお入りになってください!」
「落ち着いてくださいオリビア。私の体温はこれが普通ですし、私は風邪を引いたりしません」
「いいから早くこちらへ!」
「すみませんっ」
あわあわしている彼女につられてあわあわしつつ、手を引かれて部屋に戻る。ちゃんと歩くと、ずっと同じ姿勢で固まっていた足がぎしぎし軋んで痛かった。
私を半ば無理やりベッドに座らせたオリビアは、慌ただしくクローゼットに向かう。すぐに上着を取ってくると、柔らかな雲のように真っ白なそれを私の肩にかけた。
「突然異界に一人放り出され、心細さに月や星々に頼りたくなるのは分かります。分かりますが、せめて暖かくしてお出になってくださいませ」
「はぁい、すみません」
銀のお盆に乗せて持ってきた、ティーカップとティーポットで紅茶の用意をしながら、オリビアはぷりぷりとそう言った。私は首を竦めて謝る。
私は別に暑かろうが寒かろうが体に不調を来すことはない。ないが、せっかく手向けてくれた心配をわざわざ蔑ろにしてまで告げるようなことでもないだろう。単に心配されたのが嬉しかっただけとも言う。そもそも積極的に口にしたいことでもないし。
オリビアの仕事は早くて、さして待つこともなく紅茶を手渡された。その温もりがじんわりと染みる。すぅっと息を吸ってみれば良い香りがして、一口含めば甘くて優しい味がした。
「美味しいです。昨日お茶会で飲んだ紅茶より好きです」
紅茶どころかありとあらゆるものに詳しくないから評価に正確性はないけど、個人的にはオリビアが淹れてくれたものの方が好きだ。
「うふふ、紅茶を淹れるのとお菓子作りは得意ですので。……昨日のお茶会、と申されますと?」
「えっと、…………あー、第一王子殿下にお誘いいただいて」
「まぁ第一王子殿下に」
名前がパッと出て来なくて、呼ぶのを諦める。そこには触れず、オリビアが目を丸くした。
敢えて第一王子殿下を名前で呼ぶ必要などないのだから、当然の反応である。……本人の前で呼ばなければ「また忘れたの?」と穏やかで優しい笑顔を向けられるのだろうな。
顔と名前の記憶は一晩と保たなかったのに、彼が度々見せた圧のある穏やかな表情は頭に残っている。今日は会わないようにしよう。
そう決意していると、オリビアが両手を合わせて嬉しそうに笑った。
「第一王子殿下にお出しされるような紅茶よりも美味しいと言っていただけるなんて、光栄です。……でも、そんなことを言って機嫌を取っても薄着で外にいらっしゃったことは忘れませんからね」
「そ、そういうつもりではなかったのですが」
後半でいきなり低くなった声に、私はつい尻で後ずさる。本当に思ったことを思ったまま告げただけであって、決してそんなつもりはなかったのだ。むしろたった今その方法に気付いたので、どうしてそうしなかったのかと悔やむ気持ちが芽生えかけている。
オリビアは瞼を半分下ろし、じっとりとした目つきで私を見た。
「それに、昨夜はお眠りになっていないのでしょう。ベッドの乱れがほとんどありません」
「あ、あはは。ちょっと寝付けなくてぇ……?」
下手くそに笑いながら自分が腰かけているベッドにちらりと視線を向ける。確かに昨夜オリビアが整えてくれたときの姿と大差ない。異界からの賓客たる聖女に付けられるほど優秀なメイドである彼女が、それに気づかないはずもなかった。
空になったカップを私の手から回収しながら、半眼のままのオリビアが溜息を吐く。
「まったく。ベッドに聖女さまの姿がなかったとき、わたしの寿命がどれだけ縮んだのか、あなたはお分かりにならないでしょうね」
「寿命縮んじゃったんですか⁉ それは困ります!」
手が空っぽになった瞬間、私は勢いよく立ち上がった。それは困る、大いに困る。命は大切なものだ、不用意に縮めたり伸ばしたりしていいものではない。
これ以上オリビアの寿命を縮めないためにも、今夜からは眠れなくてもとりあえずベッドに寝っ転がることにする。日の出前から彼女が来るまでの数時間ていど横になっていれば充分だろうか。あと温かい恰好をすることも必要な気がする。
あわあわしていると、私を見上げていたオリビアが、仕方なさそうに笑った。
「聖女さまったら。物の例えですよ。ですがそこまでわたしの身を案じてくださるのなら、ご自身をこそ慮ってあげてください。あなたはゼーレリアの希望なのですから」
「……きぼう」
「えぇ、そうですよ聖女さま」
拙く繰り返す私に、オリビアは柔らかく頷く。彼女が口にした言葉の意味は分かるのに、全く別の言語のように思える。いや、私はいま神の祝福とやらで彼女らと言葉を交わすことが叶っているだけなのだから、違う言語のように思えるのは間違っていないのかもしれない。
けれど、きっと間違っていた。私をそんなものに例えるオリビアは間違っていた。
間違っているなぁとは思うのに、それでも向けられたものに答えたくて、彼女を真似るように優しく微笑んだ。
「では、希望に相応しい振る舞いを身に付けなければいけませんね」
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