十一話 こんなよるを、私は知らない
湯浴みを終えた私は、ふかふかのベッドに横たわっていた。慣れない感触が、体を包んでいる。
カーテン越しの月明かりと星明かりしかない、薄暗い部屋にいるのは私一人だけ。オリビアは私のお世話を嫌な顔一つせず全てこなした後、「おやすみなさいませ」と微笑んで出て行ってしまった。
そんな彼女が緩く結んでくれた、毛先だけが赤い黒髪を弄ぶ。
こんな頼りない明かりしかない中でも、黒を侵食する赤は目立って見えて、私は顔を歪めた。小さく息を吐いて、寝返りを打つ。可愛らしい髪飾りで結われていても、嫌なものは嫌だった。
夜空が落とす光を通したカーテンは、薄青に染まっている。その優しく柔らかな色合いに私は目を細めた。
この世界は、優しいものと柔らかいものだらけだ。いま私をそっと照らしている色も、誰かと囲む食卓も、触れた体温も、オリビアも、ルヴィ殿下も。私なんかに与えられていいのかと戸惑ってしまうほど、優しくて柔らかいものをくれる。……ラッセル殿下のことは保留にさせてほしい。表情も纏う雰囲気も物腰も柔らかで優しげだけど、ルヴィ殿下たちと同列に並べてしまうのは違う気がする。
瞬くように、眠りを迎え入れようとするように、その実なんの意味もなく私は瞼を閉ざす。とっくの昔に忘れ去ってしまった眠気なんてものは、やはり今夜も訪れてはくれなくて。
瞼の裏を眺めているのに飽きて、慣れないベッドの感触も居心地が悪くて、私はのろりと目を開けた。
「……やっぱり夜は、好きじゃないなぁ」
ゼーレリアで過ごす最初の夜は、私が今まで幾度も迎えてきたそれよりも寂しくなくて冷たくなかったが、しかしやはり夜は夜だった。
仰向けになって、私を覆う天蓋の方へと手を伸ばす。何かを掴むように広げてみて、何を掴めるわけもなくて、ぱたんと放り出すようにベッドに投げ出した。
「バルコニー、出てみましょうか」
つまらなさを遠ざけるように呟いて身を起こす。オリビアが丁寧にかけてくれた布団を捲るのは何だか惜しい気がしたけれど、その残された温もりにだけ縋って朝を迎えられる気はしなかった。
おかしな話だ。温もりがなくとも縋るものがなくとも、憎たらしくも喜ばしい朝日はいつもいつも私を照らしたというのに。
「嫌だなぁ」
自分の欲深さと傲慢さと浅ましさに、ぽつりと言葉が零れる。その声は迷子の子供のようで、ますます嫌になった。
ベッドの脇に置かれていた靴に足を入れて、立ち上がる。バルコニーに続く窓を開けば、涼しくも冷たくはない風が吹き込んできた。カーテンがゆらゆらと細やかに揺れる。
僅かに目を細めて、バルコニーへ踏み出した。優雅に円を描く手すりに近寄って、支えにするように触れる。視線を落とせばそこでは美しい庭が月明かりに照らし出されていた。ラッセル殿下と過ごした東屋も、その傍の噴水も見える。
右や左に続いている棟を見回してみるが、ルヴィ殿下に出会った部屋は流石に分からなかった。あの辺りかな、くらいの見当はつけられるが。
静かに月と星々に見下ろされている王城は壮麗で、自分がこれからこの場所で過ごしていくのだということが夢のように思えた。……夢のように、次の瞬間には儚く弾けているもののように思えた。
浮かべた思考に苦笑する。
「夢の見方なんて、随分昔に忘れたのにね」
眠る間の夢も、起きている間に見る夢も、ぜんぶぜんぶ。
とうに、潰えてしまっているのだ。
そのことにまだ虚しさと寒さを覚える自分に驚きながら、いくら触れても温かくならない手すりに頬杖をつく。ふわりと吹く夜風が、私の黒くて赤い後れ毛を揺らした。それが抱いた虚しさと寒さを奥深くへと押しやってくれる。代わりに与えられた優しさと柔らかさに対する温もりが溢れ出てきた。
私に注がれるには勿体ないものだけれど、注いでもらえたおかげで夜の寂しさと冷たさが和らいでくれる。この先も同じようにこれを手渡されるのかもしれないと思うと、胸の奥が痛くなった。嬉しくてくすぐったくて、崩れ落ちてしまいそうなほど恐ろしい。
無意識の内に、私の口が言葉を紡ぐ。
「……かみさま。わたしはここにいていいのでしょうか」
たとえそれがごく僅かな間だけの話だとしても。
こんなものを与えられて、与えてもらって、私は全てが終わった先に続く無為な日々に壊れずにいられるのだろうか。壊れたとして、今のように修復できるのだろうか。
せっかくこんな所に来たのだから、好き勝手やりたい。色んな温かさを、思い出を持ち帰って、支えにしたい。
そう思って、そう願って、今日の日を過ごしてきた。
それでも、それが、それは。
ルヴィ殿下の前で掲げた身勝手さが惑って、揺れる。しかしそれでも今日の夜はどこか優しくて柔らかだった。なら、それが答えなのだろう。
「壊れても修復して、どうにか自己を保ちなおした私に対する、神様ではない何かが贈ってくれた褒美だとおもうことにしましょう。神様がそんなことをしてくれるわけはないものね」
都合のいい結論を出して、私は吐息をついた。
夜明けは、まだまだ遠い。けれど淡い絶望と諦念が私を覆うことはなかった。
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