十話 つめたくてつめたくてあたたかいの
「あああああ、あああああ……おあうあ~」
「頑張ってください聖女さま。始まってしまえば終わりますよ!」
自室の隣に作りつけられた浴室で抵抗虚しくひん剥かれた私は、オリビアに応援されながらばっしゃんばっしゃんお湯をかけられていた。実際にはばっしゃんばっしゃんなんて擬音が似合わないほどとても丁寧に扱われているのだが、気分的にはばっしゃんばっしゃんだ。とても辛い。お水コワイ。
小さく小さく縮こまり、うっかり泣き出したりしないように気を付ける。大袈裟だと思われるかもしれないが、私は水が大の大の苦手なのだ。その程度はと言えば、猫ちゃんもかくやというほどである。
あうあうしていると、ようやくお湯かけの工程が終わったらしく次は頭を洗われる。濡れた体に思うところがないではないが、とにかく肩から力を抜いた。丁度いい力加減で頭皮を揉まれ、大変心地いい。
「聖女さま、痒いところなどございませんか?」
「だいじょうぶです~。強いて言うならこの先に待ち構えている濯ぎの工程が恐ろしいです」
「本当に水がお嫌いなんですねぇ……」
湯浴みなどしたくないと必死に抵抗する私との格闘の末、私の水嫌いを知ったオリビアが半ば呆れたように言う。そうですお水怖いです。だからやめにしませんか? そうはいかない? そうですか残念です。
目に泡が入りそうになって、反射的にぎゅっと瞼を閉じる。一つの感覚を閉ざしたおかげで、私に触れるオリビアの手の優しさが鮮明になった。
それはただ丁寧に、何か欠けさせないようにと、欠けさえしなければそれでいいというように扱っている手付きとは違って。慈しみとか思いやりとか、もしかしたら愛なんてものが含まれているかもしれなくて、本当に泣きそうになった。
じんわりと滲んだものは、私の後ろに立つオリビアには見えていないだろう。見えていても、私が零したものだとは気づかれないだろう。
オリビアが口を開く。
「どうしてそんなに水がお嫌いなんですか?」
「むかし溺れ死にかけたことがありまして。まぁあと他にも嫌な記憶に結びついていると言いますか……そんな感じです」
なるべく軽く聞こえるように、今もまだ残り続ける見えない傷を抉る。息が詰まりそうになって、必死に呼吸を整えた。
それに勘付いたのか、そもそも内容に衝撃を受けたのか、オリビアの動きが止まる。一拍置いて、静かな謝罪が降ってきた。
「そんな、ことが。お辛いことを思い出させてしまい、申し訳ございません」
「いいんですよ、こんなに嫌がってたら理由も気になるってものです。……謝罪ついでに湯浴み終わらせてくれてもいいんですよ?」
「そろそろ泡を流させていただきますね」
「もしかして選択肢ない感じですか? 私はもう泡塗れのまま飛び出してもいいくらいの気持ちなんですけど」
「ここまで我慢なさったのですから、最後まで耐えてくださいませ。大丈夫、そんな怖い目には合わせませんよ。ゆっくりゆったり浸かれば、きっと気持ちいいです」
殊更柔らかく響いた声に、私は諦める。このメイドさん、結構頑なだ。
頭も洗い終わったようで、またお湯がかけられる。先程までよりも更に優しく、労わり思いやるようなやり方だった。
まだ怖いものは怖いが、ほんの少しだけ心が解れる。いつか、こうして身を清める行為を心から心地いいと思える日が来るのだろうか。
きゅっと縮こまっている間にも、あれよあれよとオリビアは私の体を洗っていく。湯浴み前の宣言通り、全てお世話されてしまった。
そろそろと爪先を浴槽に浸し、のろのろと湛えられたお湯に身を沈める。お湯が体を撫でる感触に鳥肌が立った。けれどあの時のように荒れ狂っているわけではない水中は、すぐ傍で私の手を包む体温と相まってそこまで恐ろしいものでもなくて。
私は体の強張りを解くように、細く深く長く吐息をついた。
「聖女さま、お湯加減はいかがですか?」
「丁度良い感じです……でも手は離さないでくださいねオリビア。厄介だとは思いますが、お願いだから離さないで」
「えぇもちろん。聖女さまの命とあらば、いつまでだってこうしておりますよ」
慈しみに満ち満ちた言葉に、力なく微笑む。こんなにも優しい彼女の名を、忘れたくないなと思った。それが出来なくても、早く早く覚えたいなと思った。
「ねぇオリビア」
「なんでしょう?」
「私、人の顔と名前を覚えるのがとっても苦手なんです。だから、その日いちばん最初に顔を合わせたとき、いちいち名乗ってくれませんか。あなたの名前を忘れたくないんです。早く、覚えたいんです」
オリビアの可憐な黄色の目が見開かれる。その瞳は、すぐにこれ以上ないほどの光を湛えてきゅうっと細められた。
「光栄です、聖女さま。あなたがお望みならばいくらでも繰り返しましょう」
彼女の頬が紅潮している。さんざお湯を使ったのだから、まぁ当然だろう。
でもそれだけではない気がして、胸の内までが温かくなった。
「──ところで」
「はい?」
ふとオリビアの声が心配げに揺れた。心配される覚えがなくて、私は首を傾げる。もしや人の顔と名前を覚えられないことを心配されている? ごめんなさいそれはこれから改善していけたらいいなと思っております。
「手がとても冷たいままです。お湯加減は丁度いいとおっしゃってくださいましたが……」
「あっ! 違います違います、私あれです冷え性なんですよ」
「それにしてもこの冷たさは……まるで温かさを一切受け付けていないかのようです」
オリビアの顔はますます曇っていく。温かさを一切受け付けていないなんていう表現が的確過ぎて、私は危うく息を止めるところだった。
繋いでいない方の手をばたばたさせて誤魔化す。
「私の世界では大体みんなこんな感じです! 普通です! だから気にしないで!」
「ですが、私が昔読んだ聖女のことが書かれた本には」
「前任の聖女が辞してから私が来るまで長く時間が空いたのでしょう? きっとその間に変わったのですよ」
「……そう、ですか」
こういうとき異世界出身というのは便利だ。突拍子もない発言でも『異界だしな』と納得させることが出来る。私が文字通り冷たいのには色々と理由があるのだが、それをわざわざ言いたくはなかった。
今は、ただ、普通の。
自分自身さえも
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