九話 おみずやだ!!
お茶会を終えた後、私はラッセル殿下に王城を案内してもらっていた。途中で夕食の時間がやってきて、その後も更に王城を案内してもらっていた。
流石王城である。物凄く広くて広い。簡易的な説明と案内であったはずなのに、半日仕事だ。人の顔と名前を覚えることは極端に苦手だが、それ以外はそれなりに物覚えの良い私でなければ頭が破裂していた。
王城の廊下は照明に照らされ、夜だということを忘れかねないほどに明るい。そんな中、私が聖女のドレスに着替えさせてもらった部屋の前で、ラッセル殿下が振り返った。
「──さて。もう知っているとは思うけれど、ここがきみの部屋だ」
「聖女って神殿の長なのに住むのは王城なんですね」
「賓客をもてなすのは王城の仕事だからね」
「あぁ」
納得して手を打つ。そういえばルヴィ殿下も聖女のことを『異界より招いた賓客』と表現していた。
「まぁ、実際は聖女の監視を兼ねた、神殿による聖女悪用を抑制するための策なんだけれどね。ゼーレリアの法は聖女に通じないから」
「聞きたくなかったかも」
さらりと続けられた真相に頬を引き攣らせる。
どこまでいっても聖女は突然連れてこられた女の子でしかないのに、こうやって政治劇に巻き込まれるなんて。歴代聖女たちに黙祷。
本日二度目の黙祷を捧げていると、ラッセル殿下が鼻から抜けるような息をついた。
「それはさておき、これで王城の案内は一通り済んだかな」
「そう、ですね。はい、大体の場所に連れて行ってもらったと思います」
頭の中にこの半日で描いてきた王城の地図をぺらりと広げてから首を縦に振る。ところどころ穴があったりはするが、まぁ王城なのだから隠し部屋とか隠し通路とかあるだろう。そもそも今日一日で隈なく事細かに案内しきれるわけがないのだ。
背後に設えられた窓、そこから見える一つきりの月と数多の星々を何気なく振り仰ぐ。空はかつて私が見上げていたものと一見して差異はなかった。私は星読みを生業の一つとする陰陽師ではないので、星の正確な位置がどうとかは分からない。まぁ違うのだろうなとは思うけれど。
視線を感じたのでラッセル殿下の方に目を向けると、彼は相変わらず微笑みを湛えていた。初めに比べれば随分と社交辞令っぽさが薄れていて、代わりにからかうような、呆れているような色が濃くなっている。
「どうかしましたか?」
「見栄なんか張らなくていいんだよ。ゆっくり覚えていこうね」
「はい? ……っあ違う違う違いますほんとに分かってますよ! 適当に話合わせたわけじゃありません!」
「父上と母上の名前は?」
「………………一文字目がディかアかロかリの四択だったと記憶しています」
嘘である。記憶はしていない。そんな気がしているだけだ。
ほれ見たことかとばかりにラッセル殿下が眉をハの字にした。困った子を見るような表情を向けられて、私はサッと顔を背ける。
本当なんです。本当なんですよ。人の顔と名前以外はそこそこちゃんと覚えられるんです。……ほんとのほんとですよ?
不安になってこそこそと頭の中で地図を広げて記憶と照らし合わせていると、ラッセル殿下が言った。
「今日はゆっくり休むんだよ。明日から聖女としての仕事をお願いすることになるから」
「はい。精一杯頑張ります」
静かな言葉に、私は神妙に頷く。真剣な顔をして頷いたのに、あるいはだからこそなのか、彼は小さく笑った。
「僕の名前を忘れないことも、精一杯頑張ってね」
「がっ、頑張らせていただきます!」
普通の口調で、しかし刻み込むように紡がれた言葉に私は反射的に姿勢を正す。真っ先に会いに行ったルヴィ殿下よりも長い時間を一緒に過ごしたので分かってきたが、ラッセル殿下は怖い人だ。大抵にこにこしているけど怖い人だ。油断ならなくてお腹の底が見えなくて容赦のない人だ。つまりは非常に胡散臭くて腹黒い。だというのに人々からとても慕われている。
正直、分かりやすく不機嫌でぷんぷん怒ってくれる弟さんの方が彼より余程親しみやすいと思う。思うのだが、弟さんは忌み子の為同じ土俵にすら立たせてもらえない。酷い話もあったものだ。
そんな感想など知る由もないラッセル殿下は、私に道を譲るように部屋の前から一歩横にずれた。
「おやすみ聖女。良い夢を」
「おやすみなさいラッセル殿下。良い夢を」
優しげに響く挨拶に同じように返す。ラッセル殿下は小さく頷くと、さっと身を翻して去って行った。
彼の背中が角を曲がって消えてしまうまで見送って、私は宛がわれた自室の扉を押し開ける。部屋の中は、廊下よりも温かな印象を抱かせる光に満たされていた。
その光を散らすのは、吊り下げられた豪奢なシャンデリア。寂しく冷たい夜が部屋へ入ってこないようにと守っているようだ。
扉の向かいの壁にはいくつかの窓が設けられている。ゆったりとしたカーテンをそれぞれ両脇に従えたそれらの内、真ん中にあるものの先には、緩く円を描くバルコニーが続いていた。あそこに出て、夜風に吹かれながら月明かりを眺めればきっと気持ちいい。
私から見て右の壁、その中央辺りには天蓋付きのベッドがある。絶対に一人用ではない大きさのベッドの脇には、質素ながらも上品な照明を乗せた小さなテーブルが佇んでいた。
その他にもお洒落な鏡台や見るからに座り心地の良さげなソファや、磨き抜かれたローテーブルなど様々な家具たちが置いてある。
シャンデリアが灯されていること以外、昼間に神官長が連れて来てくれたときと変わらない。左の壁につけられた、別室に繋がる扉も健在だ。ちなみに、何の為の部屋なのかはまだ教えてもらっていない。
入ってきた扉を後ろ手に閉めて、私は苦笑いした。
「……まだ二回目だからでしょうか、慣れませんね」
否、これは二回目だから慣れないとかではない。こういう形式の部屋にも、ここまで豪華な部屋にも触れたことがないから慣れないのだ。慣れない、というか場違い感を覚えてしまう。
そわそわと何の意味もなくお洒落な鏡台を覗きこんでみる。……当然だけど、自分の赤に近い濃い桃色の瞳と目が合った。
ちょっと顔を顰めたそのとき、左の壁にある扉が微かに軋んだ。
ぱっとそちらを見ると、お仕着せの良く似合うメイドさんが出てくるところだった。
深い深い緑色の長髪を一本の三つ編みに纏め、可憐な黄色の花を敷き詰めたような瞳を持つ彼女は、私を見て目を丸くしている。
見覚えがあるようなないような、頭の片隅に引っかかるものがあるようなないような。こうして悩まなければいけないということはつまり、彼女とは一度会ったことがあるのだろう。そして会ったことがあり、ふんわりと朧気にでも記憶に残るほど関わったメイドさんといえば一人しかいない。
そう、私を着替えさせてくれたメイドさんだ。ふわふわとした雰囲気に似合わずテキパキと私の支度を調えてくれたのを覚えている。名前は覚えていない。例によって。カーテシーをしてくれたときに名乗ってくれたはずなのに……
ごめんなさい、本当に申し訳ないとは思っています。顔か名前か、せめてどっちかは覚えられるようになりたい。これから人に関わる機会も増えるだろうし。
そんなことを思っていると、気を取り直したメイドさんが優雅なお辞儀をしてくれた。
「お戻りになられていたのですね聖女さま。隣で用意をしていたものですから、気付くのが遅くなってしまいました」
「ついさっき戻ったところです、気にしないでください。ところで、用意って?」
「湯浴みの用意です」
「ゆあみ」
思いもよらなかった言葉に硬直する。ゆあみ。ゆあみ、湯浴み? 湯浴みというと、あの湯浴み? いやいやいや、ここは異世界だ。もしや示す意味が違うかもしれない。
「……湯浴み、というのは。こちらの世界でも湯を浴び湯に浸かり、汚れを落とすという行為を指しますか?」
「えぇ、合っておりますよ」
「ひぇ」
何の躊躇いもなく頷く彼女に、私はつい間抜けな悲鳴を上げる。ついでに一歩後ずさってしまった。
今度はメイドさんが首を傾げる。
「聖女さま? いかがなさいましたか」
「いっ、その、えっと」
まさか水が苦手だから湯浴み嫌ですなんて言えない。
だらだらと冷や汗を流しながら目を泳がせる。当然ながら打開策はどこにも落ちていなかった。
「……聖女さま。突然異界に連れてこられ、警戒するお気持ちは分かります。ですが慣れない環境でお疲れでしょう? ゆっくりお風呂に浸かってリラックスいたしましょう」
メイドさんが勘違いしてしまった。これ以上うだうだしていたら彼女の勘違いが加速してしまう気がする。
でもどうしようせめて覚悟を決める時間が欲しい。
尚も私が渋っていると、メイドさんに両手を握られた。
「大丈夫です。わたしが全てお世話させていただきますので、煩わしいことなどありませんよ」
「あ、いや、はい」
真っ直ぐな瞳と声音にこもった誠実さに圧され、私はつい肯定の返事をしてしまう。
しまった、と思ったときにはもう遅く、彼女はふわりと笑った。見る人全てを安心させるような、温かく柔らかな笑顔だ。
「では、参りましょう」
「そっ、あっ、その、待って、待ってください。あのあのあなたのお名前は? ごめんなさい度忘れしてしまって。百回くらい繰り返していただけませんか」
「わたしですか? わたしはオリビア・シェルハームと申します。聖女さまがお望みとあらば百度でも千度でも繰り返しますが、先に湯浴みを終わらせてしまいましょう」
昼間に会ったときにも名乗ってくれたというのに、メイドさん──オリビアは一切疑問を挟まずにもう一度名乗ってくれる。そして私の苦し紛れな時間稼ぎを亡き者にしてしまう。
やめてください、どうかお慈悲を!
なんて祈ってみるけれど、実際問題慈悲を与えるべきなのは聖女である私の方なのであった。
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