第20話 ホテルの一室
その次の日の夜。
シリウスとユディットは今晩の宿泊先であるホテルの一室にいた。
「美味しかったわね、シリウス!」
いまだに感動ひとしおのユディットが猫足の椅子に座り、満足そうに眼を細めている。
昨日あんな目に遭ったというのに、彼女はいたって普通だ。
そして彼女の心をとらえて離さないのは、ご当地メニューだという牛肉の煮込み料理。
なんでもソースにぶどうを入れているらしく、言われなければ「この甘みはなんだろう」とシリウスも不思議だった。
葡萄酒が有名な土地なのだが、選別されて不適切となったぶどうをこうやって肉料理のソースとして使うらしい。
「僕は普通に出てくるパンがどれもおいしいことに感動している」
宮中伯都を出て一路馬車は王都を目指しているが、もちろん昼食時にはレストラン街に馬車を止めて食事をし、夕食と朝食はホテルでとる。
さすがというかなんというか。
宮中伯とその令嬢が使用するホテルだ。格が違う。
一流のもてなし。
一流の食事。
一流の警備で迎えいれてくれるし、初日のホテルには地下にスパがあり、ユディットとサンダースさんは存分に楽しんだらしい。
「ほんと、僕は別にこんなに好待遇じゃなくていいんだけど……。ホテル、君たちと別でもいいんだよ?」
なんとなく所在なげにシリウスはソファの端っこに座る。
シリウスにも1室とってくれるのだから申し訳なさすぎる。
「ホテルを別にしたら困るわ」
てっきり警備のことを言うのかと思ったのに。
「私ね、なんだかんだこうやって夜になってもシリウスとおしゃべりできるのが嬉しいの。いつもなら夕方には帰らなきゃいけないじゃない?」
椅子のひじ掛けに頬杖をつき、ユディットは笑った。
「毎晩夜更かししてたくさん喋れるなんて」
「今日は早く自分の部屋に戻ってよ?」
シリウスはうんざりした顔で言う。
襲われた昨日など、サンダースさんの催促ノックがどれだけ響いたと思うのだ。
それでも無視して会話を続けようとするユディットの肝の太さには感心した。
だいたい昼間に襲われたというのに。よくこんな男の側にいようと思うものだ。
最終的にサンダースさんが「旦那様にお嬢様がシリウスぼっちゃんの部屋から出てこないって告げ口しますよ。なにをしているのか疑うばかりです、と」と強めに言われてしぶしぶユディットは自分の部屋に戻った。
「ねぇ」
「うん?」
シリウスはゴブレットを持ち上げ、レモン水を口に運ぶ。
「今日はここに泊まっちゃだめ? 一緒に眠ろうよ!」
盛大にシリウスはレモン水を吹いた。
「きゃあ! ちょっとなにしてんの!」
「君が変なこと言うからだろ!」
げほがほとむせ返りながら、シリウスはズボンから引き出したハンカチで口元をぬぐう。
「なんでよ! パジャマパーティーしようよ!」
「ティモシーとでもやれば⁉」
「なんでティモシーよ!」
「じゃあなんで僕なんだよ!」
「楽しいから」
きっぱりと言われてシリウスは大きくため息をついた。
もうほとんど空になったゴブレットをテーブルに戻し、ひざを抱えてソファの端っこに座る。
「ふざけたこと言ってないで、もう部屋に戻れば?」
「えー。ふざけてないし。ってかなんで怒ってんの?」
ユディットは椅子から立ち上がると、軽やかな足取りでシリウスの隣にすとんと座る。
「シリウス?」
「あのさ」
「うん」
「君には僕がどんな風に見えてるの?」
シリウスはぴとりと隣に座るユディットに首をかしげて見せる。
すぐそばにいる彼女は。
もうすぐ就寝間近だからか、ミルクティー色の髪はほどいておろされ、若葉色の瞳は室内の光を受けてつややかに輝いていた。
昼間着ていたワンピースではなく、腰をしばっていないシュミーズドレス。絹地は薄い。薄くて軽い。体のラインがはっきりわかるし、なんなら広い襟ぐりから彼女の胸の谷間が見えそうだ。
見る人が見れば、しどけない恰好。
それはなにより。
シリウスのことをまったく警戒していない証拠のように思える。
「シリウスのことをどう見ているか、ってこと?」
きょとんとした顔でユディットが尋ね返す。
「そう」
シリウスは深く頷いた。
「僕は君の兄弟じゃないし、親戚の誰かでもないんだよ?」
「わかってるわよ」
「君は16歳のお嬢様で。僕は18歳のそのへんにいるような男で」
「うん? その辺にいるかなあ」
「そんな男と君はさ」
「うん」
「いまどこにいるの」
「シリウスの部屋」
「そう。君と僕はいま、ふたりっきりなの。ソファに一緒に座って。そこにベッドまであって」
シリウスはユディットに顔を近づける。
鼻と鼻がくっつくんじゃないかと思うほどなのに。
彼女はおびえるでもなく、背をそらすでもなく。
距離をとるでもない。
ただ、シリウスの瞳を見返している。
「襲われるとか思わないの?」
「シリウスは襲わない」
「そんなことわかんないよ」
「わかるわよ」
ユディットは笑う。
彼女の呼気がふわりとシリウスの頬を撫でた。
「だって、シリウスだもん」
「なにその絶大な信頼」
頭を抱えたくなる。というか実際に抱えた。
「君は僕のことを異性だと思ったことないんだろうねぇ」
「そういうシリウスはどうなのよ」
頭を抱えたままの姿勢でいると、ユディットがぷらぷら揺らす脚が見えた。
「僕?」
「シリウスこそ、私のことを喧嘩が強い幼馴染ぐらいにしか思っていないんでしょう」
なんだか不満げな色がにじむ声に。
シリウスはそのままの態勢で答える。
「そんなことないよ。初めて出会った頃よりも随分ときれいになった宮中伯令嬢だと思っているよ」
「私はね」
「うん」
「シリウスのことを」
「うん」
「出会った時から、王子様だと思っているわ」
「そりゃあ、その頃は元王子だったから」
思わず笑いながら顔を上げ、ソファにもたれる。
何気なく隣を見た。
そして口を閉じる。
ユディットが。
頬を赤くして。
真剣な顔で自分を見つめていたからだ。
「私は、いまでもシリウスがただひとりの私の王子様だと思っている」
「それは……」
どういう意味で、と問いかけたシリウスの言葉は強烈な破壊音に潰えた。
けたたましい音を立ててバルコニーに続く窓が割れていく。
「ユディット!」
シリウスはユディットを腕に抱え込み、ソファから床へと転げ落ちる。
一旦止んだはずの破壊音。
だがすぐに跳弾の音が続く。
しかもシリウスたちのすぐそばだ。
小鳥のさえずりに似た音は、徐々に近づいてくる。
「銃⁉」
「かもしれない!」
ユディットはシリウスに抱かれたまま腕を伸ばし、床に転がるゴブレットをつかみ上げた。
そのまま素晴らしいコントロールで照明器具を破壊する。
室内の明度が一気に落ちた。
途端に銃弾は止む。
シリウスはそのすきにユディットを連れてソファの陰に隠れた。
ついでに床に散乱した家具や調度の欠片をかき集め、ユディットとともに室内照明に向かって投げる。
がしゃんがしゃんと立て続けに音を鳴らしながら室内は完全に夜の闇と同等の暗さを保った。
銃声は。
ようやく消える。
「……止まった?」
シリウスがつぶやくように言う。それでもしばらくは警戒を解かずにユディットは耳をそばだてる。
「違う」
はっきりと告げた。
「入って来る気だわ」
「まじか」
あっけにとられながらも、シリウスの耳にも窓枠に金具がひっかけられる金属音が聞こえてきた。
「シリウス、窓からできるだけ離れて扉まで逃げましょう」
「了解」
そっとソファの陰からふたりそろって動き出すのと、部屋の扉がぶち破られるのは同時だった。
「お嬢様⁉ シリウスぼっちゃん‼」
サンダースさんが騎士数人をつれて飛び込んできたのだ。シリウスとユディットは抱き合ってほっと安堵の息を吐いた。
その三十分後。
シリウスとユディットはコーネリアス宮中伯が宿泊している部屋へと移動していた。
「まあ、わたしも敵が多いからね」
肩をすくめるコーネリアス宮中伯は、執事たち総出で着替えさせられているところだった。
「巻き込んですまなかったね、シリウス」
「いえ、あの……」
シリウスは口を開く。
「たぶん……僕のせいではないでしょうか」
「だよねぇ! なんかシリウスずっと狙われてない⁉」
ユディットが前のめりになる。
彼女はシュミーズドレスのままではあったものの、サンダースさんによって上から重ね着をさせられ、上着を着用させられていた。
「その……以前相談しようとしていたことと関連するのですが」
意を決して口を開いたが、コーネリアス宮中伯は立てた人差し指を自分の唇に押し付け、「しぃ」と言った。
「その話は、王都に到着してからしようじゃないか」
「なに⁉ どういうこと! 気になる!」
ぴょんぴょんと跳ねるユディットに、コーネリアス宮中伯が笑った。
「王都に到着すれば、否応なくお前も交えて話することになる。それまで我慢なさい」
「いま! いま聞きたい!」
「それより急ぎ準備をしなさい。このホテルを離れて馬車で移動するから」
「え⁉ いまから⁉」
シリウスとユディットが顔を見合わせる。
コーネリアス宮中伯は執事にネクタイを結んでもらいながら鷹揚にうなずいた。
「こんなに正面切って攻撃してくるとは思わなかったが……。こうなっては仕方ない。いち早く王都に到着するよう、馬車を飛ばそう。なあに、ここから5時間ほどだ」
「王都に行けば安心なの?」
不思議そうにユディットが首をかしげる。コーネリアス宮中伯は「ああ」とうなずいた。
「あそこは、アジル派がほとんどだ。ナラン派は修道服でさえ目立つからね」
どきり、と。
シリウスの心臓が跳ねた。
ナラン派。
それは義兄が所属する宗派。
シリウスはコーネリアス宮中伯を見る。
視線は感じているのだろうが。
彼はなにも言わない。
言わないが。
すべてわかっているような気がしていた。
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