第19話 誘拐未遂
「おじさん、そのネクタリンとプラムをちょうだい。シリウスは?」
「あ……。じゃあ、そのリンゴ」
「あいよ、毎度!」
黒ひげの男は手慣れた様子で食べやすいように皮をむき、大きめの葉っぱを組み合わせて作った簡易皿に乗せてくれた。つまようじとともに、可愛い旗のついた飾りまでつけてくれるのだから、容姿に似合わず芸が細かい。
「リンゴはどうするね」
「あ、そのままで」
伝えると、きゅっきゅっと音を立てて布でリンゴを磨いてくれた。
「お嬢ちゃん。その簡易皿は広場のゴミ箱にいれてもらったらいいからな」
「ありがとう!」
「あの、代金はいくらほど?」
『ユディットが好きそうなものをなんでも買ってやってくれ』と言われ、お金は宮中伯から預かっていた。
シリウスは黒ひげの男が告げる値段より少しだけ多めに支払い、リンゴを受け取った。すでに簡易皿を受け取っているユディットはほくほく顔だ。
「噴水のあったところで食べよう!」
ユディットが、てててててと広場の中央へ走って戻る。
「落とすよ⁉ 大丈夫⁉」
シリウスは気が気ではないが、本人は意外にすばしっこく移動し、噴水の縁石に腰かけて場所を取る。
「いただきまーす」
言うなり、ネクタリンに爪楊枝をさして持ち上げた。
みずみずしい果肉からはとろりとした果汁が垂れる。ユディットはそれをためらいもなく口に放り込み、ぱくりと食べた。
「甘い! 柔らかい! とろける!」
そのみっつを言ったっきり、しばらく目を閉じて黙った。余韻に浸っているらしい。
シリウスは苦笑いしながらも、腰ベルトにさしているナイフを抜いた。
「リンゴも食べる?」
「食べる! でもちょっとだけ! きっと入らないから!」
そういうだろうな、と思って。
シリウスは器用に1/4だけ切り取ると、ユディットの簡易皿の上に載せる。ナイフをもとに戻し、リンゴに歯を立てた。かりり、と小気味のいい音が鳴る。果肉がしっかりしていて好みだ。甘すぎないところもいいが、隣ではユディットが「すっぱい! 硬い! はずれ!」と言っているから人それぞれなのだろう。
「これぐらいがいいよ」
「すっぱすぎだよ、これ!」
「お菓子じゃないんだから。最近の果物、甘すぎ」
「甘いのがいいんだって! ほら、これ食べてみてよ!」
言うなり、ユディットはつまようじでさしたネクタリンを差し出してきた。ぱくりとシリウスは口に入れる。
「あまいよ……、これ」
「おいしい、の間違いじゃなくて?」
「うー……ん」
結局リンゴを口に入れた。さっぱりしていいと思うが、ユディットは化け物でもみるような眼をむけてくる。
「リンゴ」
ユディットが言うから、自分がかじっていない方を差し出す。
彼女は腰をねじり、すこし伸びあがるようにしてシリウスの持つリンゴに、かぷ、と歯をたてた。
とても幼い仕草で、行儀もへったくれもないのに。
その姿がしどけなく、しなやかな猫のようで。なんだかとてもエロチックに見えた。
「ユディット」
「なに?」
「君、年頃の女の子なんだからね?」
本当は、行儀が悪いよと叱らなければならないのだけど。
ちょっと顔を背ける。顔が赤くなりそうだ。
「なによもう。ってかやっぱり、うー、酸っぱい」
顔をしかめつつも味わっているのだから、彼女の嗜好こそよくわからない。
「こんなおいしい果物を作ってくれる人を手放すのは悔しいことだったんじゃないかなぁ」
ユディットが不意にそんなことを言いだした。
シリウスは視線だけ隣に座る彼女に向ける。
「そりゃ、人権的なこととかいろいろあるのはわかるよ? そもそも農奴になりたくてなった人なんていないんだから、そこから解放されるのはとてもいいことだと思う。だけど、経営してる側からしたら、いきなりそんなことを言われてもって思うところもあるだろうし。こうやってさ」
ユディットは最後のネクタリンを口に運ぶ。
「自分だけが扱える商品だとおもったのものが安価に市場に出回って……。そしたらなんらかの価値を付与して特別なものを作らないと高位貴族には売れないわけじゃない? その手間や時間を考えたら……」
ユディットはごくりと果汁ごと飲み込む。
「恨みは深そう」
「……だろうね」
国家を転覆しかねないぐらいには、と。
シリウスは心の中でつぶやく。
「あ。このプラムは甘酸っぱい! これぐらいなら好き」
にこにことユディットは食べ終えると、すっくと立ちあがった。
「あのゴミ箱に捨ててくる」
「あ、うん。ちょっと待って。ひとりは危ないから僕も一緒に……」
慌てて立ち上がろうとしたら、ユディットが軽やかに笑った。
「迷子にもならないし、誰にも襲われないから大丈夫。というかシリウスこそ、知らない人に声をかけられてついていかないでよ?」
「僕を子どもか何かとおもってる?」
「子どもじゃないけど、世間知らずだとは思ってる」
それを言われると言い返せない。
むっと口をへの字に曲げると、ユディットは笑いながら遠ざかっていく。
途端に。
なんだか静かになった。
いや、広間は相変わらず人であふれていたし、子どもたちはいたるところで歓声を上げている。少し遠いところでは大道芸が始まったようで、アコーディオンの音も聞こえていた。
なんなら背にしている噴水からは絶えず、さあさあと水音もしている。
だけど。
ユディットが近くにいない。
それだけで音源を断たれた気がした。
王都までピクニック気分でついてきた彼女。
毎日のように塔に遊びに来るふたつ年下の女の子。
だけど自分は廃王子で、彼女はれっきとした宮中伯家の令嬢だ。
自分がいかに愛しく思おうが。
どれだけ慈しもうが。
心が痛くなるぐらい大切だと感じていても。
ここからさき、ふたりの道は交わらない。
ユディットは。
きっと軽やかな音楽と甘い果物と。穏やかな風が吹く世界で暮らしていくのだ。
(そもそも男とは思ってないんだろうな)
ユディットのあの態度。
兄弟か、よくて幼馴染程度だ。
その気づきが胸をじくじくと痛ませる。
かじりかけのリンゴを持ち、うつむいていたら。
ふと、日がかげった。
雲が出たのだろうか。
顔を上げる。
そして。
見知らぬ男たちに囲まれているのに気づいた。
「……なんですか?」
とっさに立ち上がる。足元にリンゴが落ちて跳ねた。
「我々と逃げるならいまですぞ、王子」
男たちは三人。
いずれも麻のベストに木綿のズボンを履いている。
質素でつつまし気な様子だが。
そのうちのひとりが首から下げたネックレスが、ロザリオだと気づく。
平民を装っているが、修道士だ。
「王都に連行されているのですか?」
若干若めの男が声を潜めてシリウスに話しかけた。
「行けば処刑される。逃げるのなら我々とともに」
「ち……違います」
シリウスは反射的に首を横に振った。
きっと彼らは義兄の仲間で、ナラン派の修道士たちに違いない。
シリウスが塔から連れ出されたのに気づき、こうやって尾行してきたのだ。
「義兄上は……。義兄上はいまどこかに⁉」
シリウスは周囲を見回そうとしたが、三人に立ちふさがれてなにもわからない。
「王太子殿下はこの場にはいらっしゃいません」
「ご案内しますので、ぜひ」
「さ、いまです」
ひとりの男が不意に腕をつかむので、シリウスは反射的に振り払う。
「違うのです。義兄上に伝えてください。無謀なことはおやめください、と」
「無謀?」
途端に年配の男の瞳が剣呑な色を帯びる。
距離を詰めるように三人が一歩ずつシリウスに踏み込んだ。誰かが足元に落としたリンゴを踏む湿気た音がする。
シリウスも背後に逃げようとするが、真後ろは噴水だ。逃げ場はない。
「いまさら政権をひっくり返そうなどできるものではありません。そもそも我らは」
シリウスは三人を順に見比べた。
「廃王子なのです」
「いいえ、正統なる血統の王子です」
年配の男が断言し、ふたりの男は深く頷く。
「国内に混乱をもたらしたところでなにもいいことはありません。すでに農奴問題で南部はごたついているのではないですか? そこをつつかれて他国に攻め込まれたらどうするのです」
南部と国境を挟んでいるのは隣国ダルニアン皇国だ。
過去に何度も戦を交えたことがある国。
いまも休戦状態ではあるが、和平状態であるわけではない。
「義兄上に……伝えてください。国の民のことを思うなら、この立場を受け入れるべきだ、と」
「国民は苦しんでいるのですぞ⁉」
「それを見捨てなさるか!」
男たちがすごむが、シリウスはきっぱりと首を横に振った。
「ここで立ち上がったところで、苦しむ国民が増えるだけです」
新たな政策を安定化させるには時間がかかる。
修正作業が必要だからだ。
トライアンドエラーは必須。ここからどう調整し、落としどころを探していくかで手腕が問われる。
「いまは動くべきときじゃありません」
「ひとつお聞きしたい、王子」
男は言う。
「なんのためにあなたは王都に行く」
「それは……僕にもわかりません」
困惑して伝えた。
これは本心だ。
自分は宮中伯の申し出に従っているにすぎない。
「は?」
一番若い男が不穏な声を上げた。
「あなたの兄君は国のため、我々のために危険を顧みずに立ち上がってくださったと言うのに……。あなたは」
「いまはかようなことを言っている時ではない」
年配の男が止めた。
「とにかく保護だ」
「連れて行こう」
男たちは目線で頷きあう。
そしていきなりシリウスにつかみかかってきた。
シリウスはその手を払う。
大声を出そうとした。
騒ぎを起こせば誘拐事件など破綻する。
大きく息を吸い、口を開こうとしたら。
気づかれた。
「この恩知らずめ!」
若い男に、どん、と胸を突かれた。
「よせ!」
年配の男が焦った声を上げた。
シリウスは仰向けになる。
一瞬だけ晴天を見た。
そして次の瞬間には噴水にどぼりと背中から落ちた。
派手な水しぶきが聞こえたのは一瞬だ。
あとは周囲をとりまく泡ぶくがはじける音。
それから自分の口と鼻から呼気が気泡になって水の中にあふれる音。
シリウスは両腕で手を掻いて立ち上がろうとしたが。
すぐに上から足が降りてきて踏みつけられた。
がぼり、と盛大に呼気が漏れる。
水の中でなければ胃が破裂していたかもしれない。
それぐらいの勢いで踏みつけ、シリウスを沈めようとする。
あの不満げな若い男だ。
シリウスは男の剣呑な瞳を思い出す。
噴水の底に背中が押し付けられたのはすぐだ。
なんとか立ち上がろうと思うのに、踏みつける足の力は強く、突っぱねられない。
水越しではあるが、ある程度の声が聞こえてくる。ほかのふたりの男たちが若い男になにか喚いていた。
(立ち上がらないと……!)
力を入れれば入れるほど、口から息が漏れていく。
気が遠くなりかけたころ。
自分を押さえつける手がなくなった。
必死にシリウスがもがく。
その手を誰かがつかみ、一気に引っ張り上げてくれた。
「大丈夫⁉ シリウス!」
噴水の水が目に入って開けられない上に、急に息が肺になだれ込んできて咳がとまらない。姿は見えないが、この声はユディットだ。
「お嬢様、追いますか?」
「ううん。それよりいますぐホテルまで逃げましょう。まだ誰が狙ってくるかわからない」
どうやら。
サンダースさんとユディットに自分は助けられたらしい。
苦しくて涙がとまらない。激しくせき込みながらもシリウスは心底安堵した。
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