2章
第18話 マーケット
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夜会から二日。
塔を出て王都に向かって出立したその翌日。
シリウスとユディットはグラナダス領の教会内広場にいた。
「……本当に、こんなところをうろうろしてもいいのかな」
シリウスは尻込みしているが、ユディットは喜色を隠そうともせずにはしゃいでいる。
「大丈夫よ! お父様も一時間ならいいよって言ってくださったじゃない」
振り返りもせずユディットは露店をチェックすることに余念がない。
というのも。
本日宿泊する予定のホテルへと移動中、ユディットが馬車の車窓からこのマーケットを見つけたのだ。
どうやらここ数日はこの地にゆかりのある聖イグナチウスの祝日らしく、教会は広場を解放し、大道芸人やいろんな職人を招いてマーケットを開いているらしい。
こんな楽しそうな催しを見て、ユディットがなにもせずにいられるだろうか。いや、いられるはずがない。
馬車を止め、しばらく見物をすることになった。
さすがに宮中伯は「人ごみは苦手で」ということで、広場にほど近いカフェで待機中だ。
「僕、本来は塔にいるはずの人間なんだけど」
なんかもう、巣穴から出てきたばかりの子ウサギなみの挙動不審さだと自分でも思いながら、シリウスはユディットの後ろをついて歩く。
「それはイジェットくんが引き受けてくれてるじゃない?」
顔だけ後ろに向けてユディットが言うから、思わずシリウスは笑ってしまった。
そうなのだ。
シリウスが不在の間、シリウス・サイレウスの影武者はイジェット君が引き受けてくれることになった。
警護の騎士も世話係も、あの
嫌がるだろうと思っていたのに、塔にかかわる者はみな、ノリノリで「シリウスぼっちゃん」とイジェット君を世話していた。
「ここまでくると、本当に
「何言ってんの。あの幽霊瓶にはちゃんと男性の霊が閉じ込められているんだから」
それがいま、自分の身代わりのようだ。
「とにかく、ここでは私のことをあのユディットだと知っている人はいないし、あなたのことをあのシリウスだと知っている人はいないんだから」
くるり、と。
スカートのすそをひるがえしてユディットはシリウスを見上げた。
いまの彼女は、いつものワンピースではない。
ブラウスにスカート。その上から丈の短いジャケットを着ていた。宮中伯令嬢というより豪商の娘に見える。
一方シリウスは、というと。
簡素なズボンにベスト。乗馬用ブーツを履いていて、完全にユディットのおつきの者だ。
「ここにいる人だって、他人のことを詮索するより、お祭りを楽しみに来たのよ。私たちも楽しみましょうよ」
にこにこと笑うユディット。
それもそうか、とシリウスは周囲を改めて見回した。
義兄のことは気がかりだが、あの塔の様子を見る限りではすぐにことが露見することはない気がする。
そしてなにより、この祭りを仕切っている教会は、ナラン派ではない。正統派のアジル派教会だ。
異宗派が紛れ込むことは難しいのではないだろうか。
祭りといっても日中だからか、多いのは母と子だったり、まだ10代前半の子どもたちばかりだ。それ以上の年齢や大人はきっと夜市を楽しむのだろうとシリウスは思った。
とすると、そんなに危険度はないかもしれない。現に大人の男というが見物客の中にはいない。露店商人ばかりだ。
それに、と。
少しだけ肩のこわばりを解く。
シリウスたちからはわからないが、どこかにサンダースさんもいるはずだ。なにかあれば加勢に来てくれるだろう。
「あ! 見て、果物売ってる!」
ユディットが駆けだすから慌ててシリウスは人の波を縫って彼女の背を追った。
「いらっしゃい、お嬢ちゃん! 好きな果物を言いな。皮をむいてやるよ」
黒ひげの男は興味津々のユディットに大きな声で呼びかけた。
ユディットの横に並び、シリウスはテーブルに並ぶ商品を見た。
これは確かにユディットが興味を抱くかも、と思わず頬が緩む。
露店とは思えないほど種類が豊富だ。ひょっとしたら、いつも定期市に出している露店なのかもしれない。
フランボワーズ、すもも、桃、いちじく、りんごなど秋の果物がつやつやと輝いている。
鮮度がいいのか、立っているだけで匂いが鼻先までのぼってくる。
「おじさん、それ、なに?」
物おじせずユディットが指をさす。
彼女が示しているものを見て、シリウスも目をまたたかせた。
大きさは大ぶりのプラムほどある。
だが、表皮は濃い橙色。
「これかい? ネクタリンさ」
「ネクタリン?」
「ものによっちゃ桃より糖度が高いぜ。こっちじゃまだ珍しいが、南部の商人が最近いいものを持ってくるからな。買い付けたんだ」
「南部の果物、なんですか」
シリウスが尋ねると、黒ひげの男は大きくうなずいた。
「おう、そうだ。国王様がご一新なさって以降、こうやって南部のものがこっちまで入ってくるようになったな」
国王様がご一新。
その言葉に思わず身体をすくめる。
「国王が変わったことと、南部のものがこっちに入って来るのは関係あるの?」
ユディットが不思議そうに尋ねた。
「おおありさね。あ、嬢ちゃんたち。ネクタリンを知らないことといい、ひょっとして王都周辺に住んでんのかい?」
周辺といえば周辺か、とシリウスとユディットは顔を見合わせてうなずいた。
「国王様が変わられてからというもの、人を雇うときは雇用契約とかいうのをかわさなくちゃいけなくなったんだ」
「ああ、それなら知ってるわ」
ユディットがうなずいた。
「おかげで雇用契約を専門にする弁護士や行政書士が引くてあまたなんですってね」
「そう。でな? 王都周辺は商売人が多いからよ。もともとそんなのをかわしたりしてんだわ。まあ、口約束もあったからそれを文書化する手間が増えたぐらいだ。だけど、てんやわんやなのが南部だ」
「南部」
シリウスはつぶやく。
そういえば義兄の支援をしているのはナラン派と南部の有力貴族たちではなかったか。
「南部は農園経営をしているお貴族様がほとんどじゃねぇか。しかもほぼ農奴だ」
「あ」
「……そうか」
シリウスとユディットは顔を見合わせて声を上げた。
「まさか農奴とも契約書を?」
「というか、いまじゃ農奴なんてもんはいねぇみたいだぜ? 人身売買も禁じられたしな。奴隷商人のほとんどはちりぢりに逃げたらしい。いまは人を働かせようとしたら契約書を交わし、賃金を支払わなくっちゃ雇用主も奴隷商人も罰せられちまう」
「だけど……そもそも農奴とは賃金を前払いさせられたようなものでしょう? 農奴を買うために農園領主は奴隷商人に支払いをしているはずだ」
シリウスが言うと、黒ひげの男は肩をすくめた。
「もちろんさ。だから大赤字よ、農園主や南部のお貴族様は」
「えー……。でもそんなにたくさんの元農奴に賃金なんて払えるの?」
ユディットが尋ねると、黒ひげの男は笑った。
「払えるもんかい。だから、必要最低限の従業員だけ残してあとは解雇したんだ。もちろん退職金なんて払うもんか。その代わり、適当な農地を与えて放り出したんだ」
「じゃあせっかく奴隷から解放されたのに無職じゃない」
ユディットが目を丸くするが、黒ひげの男はにやりと笑う。
「農園の経営は確かに農園主やお貴族様がしていたかもしれんが、農作物を育てていたのはその元農奴たちだ。やつらは、せっせともらった農地を耕し、本家を超えるぐらいのうまい農作物を作り出した。で、それを」
黒ひげの男は両手を広げて商品を示して見せた。
「こうやって俺たち一般人に売ってくれているってわけだ。みなよ、このネクタリンなんてちょっと前まではお貴族さまの食卓にしかのぼらなかったんだぜ? それがこのお手頃価格。プラムだってそっちの赤いやつは……まあ、酸っぱいのが好きならとめねぇが、この紫のはうまいぞ!」
なるほど、とシリウスはがてんがいった。
なぜ南部だけが義兄を新たな国王としてまつりあげようとしているのか。
現国王の政策についていけてないのだ。
もともと南部の貴族たちと王都周辺の貴族たちには温度差があった。
だが中央や王都が南部の貴族たちをないがしろにできない理由のひとつに、農園経営による莫大な富を持っていることが背景にあった。
彼らの富をあわせれば王家をしのぐ、とも。
そこに新たな勢力としてのし上がってきたのがルブラン家だ。
彼らは海路を使い、交易によって海外からも国内からも巨額の収益を得た。
そして、王位をも手にした。
そのルブラン家がけん制したいのは南部の貴族たちだろう。
そのひとつが「農奴解放」なのだ。
無料の労働力ではなく、彼らは労働者なのだ。労働者には対価を支払わなければならない。
ルブラン王家は、そうして南部の富を人件費として放出させようとした。
この黒ひげの男がいうように、農園の経営は貴族たちだろうが、実質農園を動かしているのは農奴たちだ。
それを解放すれば。
新たな王は人権派として海外に名を売ることができるし、農奴には感謝される。
かつ、南部の貴族たちの金脈を断つこともできる。
一石二鳥だ。
なぜ南部の貴族たちが、旧勢力である義兄パトリックを推すのか。
自分たちの生き残りをかけ、王をすげ変えようと必死なのだ。
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