第16話 宮中伯の誘い
「わ。いっぱいならんでる! シェフ、がんばったなぁ」
西側壁面に並べられたテーブルには盆や皿、ティースタンドに並べられた軽食やフルーツ、ケーキや焼き菓子が並べられていた。
「あのプリンを作ってくれたシェフ?」
シリウスは近くの執事からシャンパングラスを受け取り、喉に流し込む。
細かい泡が喉をはじけながら落ちていく。さわやかな白ブドウの香りが鼻から抜け、しばしシリウスはその匂いを楽しんだ。
「そう! あのあと、お礼を伝えたの。はずれプリンより断然よかった、って」
ユディットは笑みを浮かべ、執事から受け取った皿を手にしてどれを食べようか目を輝かせている。
ユディットのいいところはこういうところだと思う。
嬉しかったこと、よかったこと、楽しめたこと。
それを準備してくれたり企画してくれた人に直接伝え、礼を言う。
高位貴族の子女にはなかなかいない。
さっきのティモシーやダグラスのように。ひとの粗を探し、ひとの失敗を話しのネタにし、自分たちは土俵にあがることもなく誰かを攻撃しようとする。
子育てに関しては放任主義と批判を浴びることの多い宮中伯だが、彼の息子たちや娘を悪く言う人がいないところを見ると、夫婦の子育ては成功したと言えるだろう。
「これにしよう!」
ユディットが皿に乗せたのは、ふんだんにラズベリージャムが乗せられたワッフルと、一口大に切られたチーズケーキだった。
フォークを受け取り、シリウスとともに比較的人が少ないスペースに移動する。
「そういえば、宮中伯は?」
会場を見渡しながらシリウスは尋ねた。
いまのところちらりとも姿が見えない。
「たぶん、もうすぐ来ると思うわ。次に始まるダンスのための衣装に着替えてるんだと思う」
「ああ、ファーストダンス」
「主催者が踊るでしょ? お母さまも衣装替えの最中よ。このジャムおいしいー」
んー、と目を細める。
素直にかわいいなぁと思って眺めていたら、ユディットの口元にブルーベリージャムがついている。
「ユディット。ここ、ジャム」
「え? ついてる? ここ?」
「ううん、反対」
「こっち?」
「違うよ。もう、じれったいな」
シリウスは腰をかがめた。
「ちょっとじっとして」
「うん」
シリウスはユディットの顔を両手で包み込むようにして支える。そのまま彼女の唇の端についた濃い紫色のジャムを、自分の親指でぬぐい取った。
「もういいよ。……あ、ほんとだ。このジャムうまい」
「ちょっと、そんなの舐めないで。自分でも食べたら……」
いいじゃないというユディットの言葉は、黄色い声にかき消える。
どうやら遠巻きにシリウスたちをさっきの女子たちが観ていたらしい。
「こどもっぽいことしちゃったな」
「もう! シリウスのせいよ!」
慌ててユディットは残りのケーキを食べ終わり、皿を執事に返してシリウスの腕をとる。
シリウスはそそくさと彼女の腕をとって人ごみに紛れた。
「さっきの場面をお母さまに見られたら怒られるところだった。あ、そうだ」
ユディットは言ってから、目を瞬かせてシリウスを見上げた。
「お父様にお話があるのよね? ちゃんと伝えてるから大丈夫。夜会終了後に少し時間をとってもらったの」
「あ、そうなんだ。よかった」
立ち話程度でも御の字だと思っていたが、ユディットのこの話ぶりでは、部屋でしっかりと話ができそうだ。
そんな風に考えながらシャンパングラスを傾け、ふと会場内に視線を走らせる。
そして。
思わず立ち止まった。
いや。
一気に体中の血が凍って彫像にでもなった気がした。
(あの人……)
世話係の交代要員としてやってきた夫人。
あの夫人の姿が会場に見えた気がしたのだ。
「シリウ……アダム・ジョーンズ?」
不思議そうに問われ、シリウスはようやく我に返る。
そしてユディットを腕につかまらせたまま、夫人がいたであろう場所まで足を速めた。
「え、どうしたの⁉」
問われるものの返事をする間も惜しんで歩みを進めたのだけど。
もう、彼女の姿はどこにもなかった。
(見間違いだったろうか)
そう思ったが、すぐに「違う」と思い直した。
見張りだ。
義兄が放った見張りなのかもしれない。
シリウスは今日、宮中伯に相談をしようと思った。義兄の無謀な計画について。
それを。
阻止するために彼女は偵察に来たのではないのか。
だとしたら、今日、義兄のことを口にするのは危険かもしれない。
「大丈夫? 顔色が悪いわよ」
気づけばユディットが自分の顔を心配そうにのぞき込んでいた。
「あ……。ごめん。なんか……あの、知っている人がいた気がしたんだけど。よく考えたら、僕の知り合いがこんなところにいるはず、ないよね」
わざとおどけて笑って見せる。
ユディットはそれでも案じるようにシリウスを見つめていたが、つい、と軽く腕を引っ張った。
「あっちに行きましょう。楽団が演奏をするのを間近で見たいの」
「いいよ、行こう」
シリウスは頷き、彼女とともにふたたび会場を歩き始めたときだ。
会場中がざわめき始めたことに気づいた。
「あ」
足を止め、ユディットはうれし気に目を細めた。
「お父様たちのご入場だわ」
なるほど、とシリウスも納得した。
入り口付近から順に参加者たちが腰を曲げて礼をしている。
律儀に皆に声をかけながら歩いてくるのはコーネリアス宮中伯とその妻だ。
宮中伯は別として、その夫人の姿を目にするのはシリウスにとって稀なことだ。
ダンス用のドレスに着替えたと言っていたが、その華やかなドレスに負けぬほどの美貌と若さだ。ユディットを含めて5人の子どもを産んだとは思えないほど優美でほっそりとした体躯をしている。
「ユディットのお母さん、めちゃくちゃ美人だね」
ついそんなことを言ってしまい、ユディットに笑われた。
「毎日大変よ。美容クリーム塗ったり、髪に泥パックしたり。ちょっとでも以前の服がきつかったら大騒ぎ。リンゴダイエットだ、なになに式減量法だ、って。そういうのが好きな侍女たちばっかり集まってるから、みんな楽しんできゃっきゃやってるけど」
「ユディットはそれに混じらないの?」
「つまらないもの。私はサンダースさんと対戦してるほうが楽しい」
今度はシリウスがおなかを抱えて笑う番だった。
「あれ? なんか……こっちに来てる?」
コーネリアス宮中伯夫妻は幾人かの高位貴族らしい人たちに声掛けをし終えると、まっすぐにシリウスとユディットがいるほうに歩み寄って来る。
「そんなはずないわよ。だってシリウスとは夜会のあとに時間をとるって言ってたんだけど」
不思議そうな顔のユディットだったが、夫妻は結局シリウスたちの前にやってきて、にこやかに笑った。
「やあ、アダム・ジョーンズくん。良い夜だね」
コーネリアス宮中伯の言葉に、夫人はきれいに整えられた眉を寄せて夫を見上げた。
「まあ、なんてひねりのない名前。もう少し良い名前にすればよいのに。ねぇ、ユディット?」
扇を広げ、同意を求めるようにユディットに視線を向ける。ユディットは小さく肩をすくめてから両親を交互に見た。
「それよりどうしたの? 夜会のあとじゃなかったっけ?」
「それなんだが、申し訳ない。やはり時間がとれそうになくてね」
コーネリアス宮中伯は周囲に視線を走らせた。
なにか話しかけたそうな貴族たちが数人いたが、なにかを察したのか会釈をして遠ざかる。
少なくとも小声で話していれば誰にも盗み聞きされないほどの人払いはできたようだ。
「もしいまここで話せることなら、話してほしいのだが」
コーネリアス宮中伯に言われ、シリウスは戸惑う。
いうべきか。
義兄のことを。
口を開きかけた。
義兄の謀反について告げようと。
だが。
ふと視界の隅に入ったのは夫人の扇。ゆらゆら揺らしながら口元を隠すその扇を見て。
そうだ、と気づく。
この会場にはあの夫人がいる。
声は聞こえなくても読唇術で気づかれるかもしれない。
シリウスがコーネリアス宮中伯に暴露しようとしていることを。
そうなれば。
いち早くあの義兄が動き出し、ユディットやコーネリアス宮中伯に対してなにをしかけるかわからない。
こういったことは先手を取ったほうが確実に有利なのだから。
「……あの、まだ心の中でまとまっておりません」
仕方なくシリウスはそう切り出した。
「改めてまた、お話を聞いていただく時間を作ってくださいますでしょうか」
そう伝えると、コーネリアス宮中伯はしばらく黙ってシリウスを見ていた。だが、柔和に微笑んでうなずいてくれる。
「わかった。今日は悪かったね、時間がとれずに」
「いえ、とんでもありません」
「では、わたしのほうから」
「え?」
きょとんとまばたきをするシリウスに、コーネリアス宮中伯は笑みを深めた。
「君に伝えたいことがあるんだ」
「僕に……ですか」
「伝えたいこと、というよりお願いではあるんだが」
「なあに、お父様。シリウスに無茶を言うのは私が許さないわよ」
「ユディットが言うとはね。いつも君がシリウスに無茶を言っているのでは?」
「言ってないし。ねえ、シリウス?」
「…………」
「なんで無言なのよ」
むっとした顔でユディットが言い、コーネリアス宮中伯夫人が声をたてて笑う。それを満足げに見ながら、コーネリアス宮中伯はシリウスに言った。
「二日後、わたしと一緒に王都に行ってほしい」
シリウスはしばらくぽかんとコーネリアス宮中伯をみつめ、そのあとようやく「は?」と尋ね返した。
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