第12話 修道士、再びの訪問

 次の日。


 キャンバスに炭でデッサンを描いていたシリウスは足音に気づく。

 時間的にはユディットが来るころだ。 


 だが。

 階段を上がる足音はひとつじゃない。


 サンダースさんも同行しているのかと思ったが、彼女の足音でもなかった。というより、サンダースさんが足音をたてることなどほぼない。


 シリウスは炭をテーブルに投げ出し、汚れた手を革のエプロンでぬぐう。

 立ち上がり、キャンバスを越して部屋の中央に移動したころ。


 ノックもなく扉が開いた。


「こんにちは。……えーっとジョーンズ」


 いつもの笑顔で現れたのはユディット。だが彼女が口にしたのは「シリウス」ではなかった。


 ジョーンズ。シリウスの偽名だ。


「こんにちは、ジョーンズさん。もうだいぶん体調はよろしいようですね」

「ごきげんよう、ジョーンズさん。これは喜ばしいことですね」


 ユディットの背後に立つのは黒の外套と修道服を着たふたりの男。


 ひとりは若く、もうひとりは60代。

 数日前にシリウスに毒を盛り、しらじらしくも治療に来た義兄とその配下の者だ。


「修道士さまが予後観察にいらっしゃったの。私はもうシ……ジョーンズは元気だから大丈夫ですよ、とはお伝えしたんだけど。お手数かけます」


 ユディットがふたりに深々と頭を下げるのを苦々しく思いながらも口出しすることはできない。


 彼女を巻き込みたくない。

 なにも知らなければ、嘘はつけない。


 嘘をつかなければ。

 彼女が罪に問われることはない。


「それではお嬢さんは別室で待機を」

「診察が終わればまたお声がけいたします」


 修道士が言い、ユディットはつつましく会釈をした。

 部屋を出ていく一瞬、彼女はシリウスに小さく手を振った。「あとでね」。声にはせずに唇だけ動かして退室した。


「ずいぶんななつきようだな」


 ぱたりと扉が閉まり、足音が遠ざかってからフードを外し、義兄であるパトリックがくぐもった笑い声を漏らした。


 こんな、顔だったろうか。

 シリウスは白日のもと、その青年をまじまじと見た。


 真っ黒な髪は鴉の濡れ羽色をしていて、濃く長いまつ毛にふちどられたのは翡翠のような瞳。すっと伸びた鼻筋と薄い唇はどこか頑固そうに見えた。


 記憶の中の義兄というより。

 ものすごくおぼろげなのだが、この容貌は非常に父王に似ている気がした。


 視線を感じたのだろう。

 パトリックも意志の強い視線をぶつけてくる。


 ぶしつけにこちらを見られた。

 自分はこの兄のように父の外見を継がなかった。


 金色の髪も、青い瞳も。すべて母のものだと聞く。


 厳しいナラン派で修業したおかげなのか、パトリックは服越しにもわかるがっしりとした体格をしているが、自分は塔で幽閉されて数年だ。必要最低限の筋肉しかない。


「女のようだな」

 案の定、吐き捨てられた。


「まあ、だがいい。その容姿なりのおかげでユディットとかいう小娘も警戒しないのだろう」


 蔑んだ瞳で扉を一瞥した。


「お前でも手籠めにできそうなほどだな。もう抱いたのか?」

 答えるのもばかばかしい。シリウスは意図的に黙する。


「いまのうちに手を出しておいて孕ませておけ。そうすれば宮中伯も逃げられまい」

 パトリックはシリウスの前に移動し、睥睨するように見下ろした。


「宮中伯を味方につけたい。お前はあの小娘を手放すな」

「先日も申し上げましたが」


 冷静でいようと思ったのに、声は若干怒りで震えた。


「かような無謀なことはおやめください。義兄上。もう王位は譲られたのです。サイネリア朝は終焉し、ルブラン朝の御代なの……」


 語尾を言うまでもなくどん、と諸手づきで胸をつかれた。


 防御することも、ましてや逃げることもできずにまともに食らい、シリウスは床に吹っ飛んだ。


「おやめください! けがでもしたらをなんと説明するのです!」


 さらに殴りかかろうとしたのだろう。年配の男が慌てて制止しているようだ。


 シリウスは存分にパトリックを警戒しながらゆっくりと立ち上がった。したたかに打ち付けた腰がずきずきと痛い。掌底で殴られたせいか急にせき込み、腰を折ってむせ返る。


「この腑抜けが! それでも男か! 犬でも飼われた恩は忘れぬというのに!」


 ようやく息を整え、口元を袖口でぬぐうシリウスを、パトリックは指さして糾弾した。


「父が、祖父が! 我々の先祖が守り抜いたこの国を荒らされて……! 貴様はそれでもよしとするのか!」


「義兄上がそうやって現体制に歯向かい、内乱を起こせば他国の侵入を許すきっかけになるやもしれません。それこそ本末転倒」


 今度は十分に距離を保ちながらシリウスは言い返した。

 不意を突かれなければシリウスだって格闘にはそれなりの自信がある。なにしろあのユディットの相手をしているのだから。


「かように……自分にとって都合の良い夢を見るのはおやめください」

「貴様には国民の悲痛な叫びが聞こえぬのか!」


 シリウスは無言で首を横に振った。

 聞こえない。

 それはパトリックにしか聞こえていないのではないか。


「どうしても手伝わぬというのなら、いまここで死ね」


 パトリックは外套のすそを払って腰ベルトに差し込んでいる短剣を抜き、シリウスに向かって放った。


 それは床を一度だけ跳ね、あとは滑りながらシリウスのつま先で止まる。


 シリウスは腰をかがめ、無造作に取り上げる。


 ぎょっとしたのは年配の男だ。

 パトリックに襲い掛かるのかもしれない。


 そんな表情をしているから可笑しい。

 死ね、と言ったのはそっちなのに。


 シリウスは右手で握り、左手の人差し指で切っ先をつつく。小さな痛みのあと、ぷくりと紅玉に似た血が盛り上がった。切れ味はいいらしい。


 シリウスは短剣を両手で持ち直し、おもむろに自分の首に当てる。


 死ぬしかない。

 数日前に義兄に会い、反乱をほのめかされたときからいろいろ考えてきたが。

 結論としてこれしかない。


 宮中伯を巻き込まず、ユディットを守るためには。

 義兄が反乱を起こす前に自死するのが一番だ。

 息を吸い、そのまま引こうとして。


「おやめください!」


 年配の男に飛びつかれ、もろともに再び床に転倒した。

 手首をひねりあげるようにして短剣をもぎ取られる。


「王太子も挑発するようなことはおやめください!」


 年配の男は素早く短剣を懐に隠し、パトリックをしかりつける。だが逆にパトリックはにらみつけた。


「余計なことはするな。せっかく自分で自分の始末をつけようとしたのだから」

「この王子はいずれ役に立ちます!」


 年配の男の訴えにパトリックは鼻で笑った。


「確かに女をたらしこむにはいいかもな」

「そうではありません。以前も申し上げましたでしょう。なぜロバート王子が亡くなり、シリウス王子が生き残ったのか」


 床に座り込んでいたシリウスだったが、ロバートという義弟の名前を耳にして反射的に顔を上げた。


 王都の牢獄からシリウスとともに宮中伯都に移送される途中で暴行死したロバート。


 生前のロバートの顔は思い出せないのに。

 死に際の顔はいまでも鮮明に脳裏に浮かぶ。


「正統な父王の血を継ぐ第二王子だから殺されたのだ!」

 パトリックの言葉に年配の男はきっぱりと首を横に振った。


「いいえ。以前もお伝えしましたが、シリウス王子は殺せなかったのです」

「……殺せ……なかった?」


 呟いたのはシリウスだ。


 暴行犯たちはシリウスの馬車も狙った。

 襲われたのはシリウスも同じだ。

 護衛の騎士がいたのも同じ。

 殺されぬように剣をふるったのも義弟と同じ。


 それなのに。


「なぜこいつが殺せぬのだ」


 パトリックの問いに、年配の男は言葉を選ぶようにゆっくりと話す。


「そもそも、なぜ一介の侍女との間にできた私生児を陛下は『王子』として遇したのでしょう」


 パトリックよりも誰よりも。

 シリウスが一番年配の男の言葉に引き込まれていた。


 そうなのだ。

 それは当時、幼いながらも自分が感じていたことでもあった。


 シリウスは実母を知らない。

 生んですぐに産褥熱で死んだと聞いた。


 もとはしがない貴族の娘で、行儀見習いのために王宮を出入りする先王妃の侍女だったと聞く。


 子を孕んだとしても、『余の子ではない』とはねつけてもよい立場であるし、適当な貴族と縁組させてその貴族の子として育てさせてもよかったはずだ。


 事実、高位貴族たちはそうやってきた。

 その高位貴族の頂点にたつ王。


 その王が。

 なぜ、自らの子であることを認め、正妻に気を遣ってまで実子と認め、私生児とはいえ「王子」の称号を与えて王宮内で育てることにしたのか。


「そして幽閉されているとはいえ、拷問を受けているわけでも虐待を受けて育ったわけではない。彼は健やかに過ごし、預かり人である宮中伯の娘さえこうやって自由に出入りしている」


 そう。

 王が変わった当初。


 自分とロバートは牢に放り込まれ、つい昨日までとはまるで違う扱いを受けた。

 残飯のような食事。冷たく寒い牢は不衛生で、排せつ物も垂れ流しさせられ、それを見て監獄人たちは見世物のように嗤った。


 だが。

 この辺境伯都の。 


 この塔内ではそのような扱いを受けたことはない。


 むしろ。

 幽閉されているとはいえ、身体を鍛えさせられ、趣味まで与えられている。


「この王子にはなにかあるのです。生かし、そして手元においておくことで我らはなにかを手にする」


 熱を込めて年配の男が言う。

 その言葉が耳を通してシリウスの体に入り込む。


 途端に寒さを感じた。


 このままでは。

 自分は利用される。


 とっさに視線を転じた。

 油彩画を書くためのペインティングナイフ。


 あれなら。

 喉をついて死ぬことができる。


「もしお前がここで死ねば、宮中伯のせいであると喧伝してやる」

 動きを制するようにパトリックが言葉を発した。


「前王の遺児を何年も塔に幽閉し、虐待を繰り返した上に残忍な処刑方法で殺害したと国中に触れ回り、怒りに燃える国民とともに俺は立ち上がろう。国を変えるための狼煙をあげるのだ。そのとき、一番に血祭にあげられるのは宮中伯とあの娘だろうな」


 パトリックはひとの悪い顔でにやりと嗤った。


「暴れまわる民衆ほど手に負えないものはない。しかも自らが正義だと信じているときにはな。いいか? もしお前が自死でもしようものなら、その死の理由を宮中伯とその娘のせいにしてやる。あの娘が死ぬとしたら、お前が自死したせいで民衆の暴力にさらされて死ぬのだ」


 シリウスは奥歯をかみしめる。殴られたばかりの胸が痛む。熱を感じた。こぶしを握り締める。


 得策ではない、と思った。

 いまここで死ぬのは悪手だ。


 いのちはひとつしかない。

 失敗できない。

 やり直しはできないのだ。


 どうせ死ぬなら。

 ユディットと宮中伯が優位な状況で。

 そしてパトリックが失墜する状況を。


 そこで死ぬしかない。


「もうそろそろ我らは退席しましょう」


 年配の男はパトリックの衣服を整え、ローブをかぶせてやりながら口早に言った。


 目深にかぶっているというのにフードの奥からは残虐な義兄の目がらんらんと自分を見ている。


「いいか、いつもお前を見張っている。忘れるな」


 ふと記憶がよぎる。


 あの夫人。

 世話係のおばさんが体調不良でくることができなくなり、臨時雇いされた夫人。

 あれも、見張りの一種だったのだろうか。


 パン屋は変えたと言っていた。だからこうやって直接会いに来ることにしたのだろうか。


「また来る」


 パトリックは年配の男を従えて部屋を出ていく。

 遠ざかる足音は途中で止まり、そしてユディットの声が聞こえてくる。


 たぶん待ちきれなかったのだろう。

 修道士の足音が聞こえてきたから急いで出てきたらしい。

 二言三言会話を交わし、そしてふたたび階段を上がる音がする。


「シリウス!」

 ユディットが笑顔で部屋に飛び込んできた。


「よくなってよかったわ!」

 そうしてユディットが抱き着いてくる。


「うん、ありがとう」

 彼女の背中に腕を回し、軽く抱きしめる。


 この子を。

 絶対に守らなくては。

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