第10話 ユディットを守るために

 次に目を覚ましたのは。

 ユディットとサンダースさんの声が聞こえたからだった。


「いや! 今日はシリウスのそばにいる!」

「そのようなことはできません。もうお時間です。帰宅しなければいけないことはお嬢様が一番ご存じでしょう?」


 駄々をこねるユディットと、困り果てたサンダースさんの声。


 シリウスはゆっくりと目を開いた。

 ようやく。

 本当にようやく、視界がまともに戻ってきた。


 室内は橙色と灰色が混じったような。

 夜がそこまで来ていそうな。

 そんな時刻だった。


 いつもならユディットはとっくに帰宅している時間のはずだ。

 だからこそ寡黙なサンダースさんが言葉を尽くして説得しているのだろう。


「ユディット?」


 ベッドに手を突き、ゆっくりと上半身起こした。

 めまいはよくなっていたが、今度は頭痛がひどい。

 額に手を当てて思わずうめくと、ユディットが慌てて駆け寄ってきた。


「シリウス! 頭が痛いの⁉ 大丈夫⁉」


 ベッドわきに両膝をついて下から顔を覗き込んでくる。

 その目は真っ赤で、目元や鼻の頭もそうだ。ずっと泣きっぱなしだったのかもしれない。


「やめてよ、まるで死ぬみたいじゃない」


 つとめて冗談っぽく笑い、できるだけゆっくりと胡座した。

 急に動きさえしなければ頭痛は問題ないようだ。というより今度はトイレに行きたくなった。胃の中のものをすべて吐いたとはいえ、あれから何時間ほどトイレに行ってないのだろう。


「僕、トイレに行ってくる。それまでに君はもう帰りなよ」

 ゆっくりゆっくりと自分に言い聞かせてベッドから足をおろす。


「今日はシリウスが心配だからここに残る!」

「なにいってんの」


 心底あきれてシリウスはユディットを見た。


「この塔は本来牢獄なんだよ? なんでそんなところに宮中伯の娘さんが泊まるのさ。おかしいでしょ。ってか、どいて。トイレ行くから」


「そうですよ、お嬢様。シリウスぼっちゃんのいう通りです。あ、シリウスぼっちゃん。トイレ行く前にこれ飲んでください」


 よいしょと立ち上がり、めまいがないことを慎重に確認していたら、サンダースさんがすかさずゴブレットを差し出してきた。


 中に入っているのは透明な液体。やけにたっぷりと入っている。


「シリウスぼっちゃんは治療中にお眠りになってしまったようで……。目が覚めたら定期的に飲ませるように、と修道士様より言いつかっております」


 相変わらず淡々とした口調からは彼女がいま、なにを考えてなにを感じているのかうかがい知ることはできない。


「薬湯かなにかかしら」


 ユディットが言う。サンダースさんは明確には言わなかったが、シリウスはその内容物があの年配の修道士が言うところの『塩少々と砂糖をまぜた白湯』だということに気づいた。


「さ、どうぞ」

 サンダースさんに促され、一気に飲み干した。


 自覚はなかったが喉は乾いていたのだろう。白湯はおそるべき勢いで身体を中から潤し、大しておいしくもないのにおかわりまでしてしまった。


 そのまま、『手を貸す』というユディットの申し出を断って、1階のトイレに移動した。


 世話係のおばさんはもう帰っているのか、人の気配はない。

 トイレで用を足すと、想像以上にすっきりした。

 それでも息を切らしながら階段を上がり、自室に入るとユディットがベッドに居座っていてあきれ返る。


「なにやってんの。帰りなって」

「だから! シリウスが心配だから!」


「大丈夫だって。もうだいぶんマシになったんだし」

「だってあの修道士さまたち、結局シリウスがなぜこんなことになったのかは教えてくれなかったのよ! また夜中にぶり返すかもしれないじゃない!」


 そりゃあ、自分たちが毒を混ぜたとは言えないわなぁとシリウスは心の中で思う。


「成長期の青年にはよくあることですとか言って! うちには3人の兄と1人の弟がいるけど誰一人こんなことはなかったわ! しょっちゅう鼻血出してたけど!」


 憤然とユディットが言う。シリウスはぷ、と小さく吹き出した。


「大丈夫かと思いますよ、お嬢様」

 ただひとり、サンダースさんが冷静に言う。


「もうめまいも色覚異常もないようです。ということは身体に入った毒物はある程度分解されたか排出されたのでしょう」

「毒物⁉」


 驚きすぎたユディットが、ぴょこんとベッドから立ち上がった。


「解毒薬とかは⁉」

「人工的な毒物でも、自然毒でも、基本は対外排出しかありません。そのときにミネラルや水分が一気に失われるので、こういった塩や砂糖をいれた白湯で補うのでしょう」


 ちらりとからになったゴブレットを見てサンダースさんはつづけた。


「みたところ、やっぱり感染症ではなさそうですし、食中毒だとしても世話係がいまだ症状を呈していないのが気になります。なにより気になるのは吐くだけではなく、シリウスぼっちゃんが示した光や色に関する特異な症状です。これはなんらかの毒物を摂取した可能性が高い。だとすると、世話係が食べず、シリウスぼっちゃんだけが食べたもの。それはパンです」


「最近変えたパン屋! 捕まえよう!」


 急に意気込んで飛び出そうとするユディットを、ドア付近にいたシリウスが慌てて身体ごと止める。


「証拠もないんだよ? 冤罪だったらどうするの」

 冤罪ではないことを一番シリウスが知っているのだが、そういうしかない。


「シリウスぼっちゃんのいう通りです。明日からは購入しない方向で動き、それから秘密裏に探りましょう」


 秘密裏に、という言葉にユディットが反応する。「なるほど、秘密裏にね」と繰り返すからシリウスはため息だ。また『謎の美少女&美女』が暗躍するつもりなのでは。


「そうとなればいつまでもこんなところにいていられませんよ、お嬢様」

「そのとおりね、サンダースさん! 早速調査に行かなくっちゃ!」


 さすがサンダースさん。ユディットの扱いがうまい。

 シリウスが笑いをこらえていると、いままで『帰らない』とごねていたユディットが嘘のようにせわしなく帰り支度を始めた。


「じゃあシリウス、そこの水差しの御白湯を全部飲むのよ!」

「わかってる」


「さみしくなったらイジェットくんに話しかけて! たぶん、彼も心配してくれてると思うから」

「やだよ、怖いな」


「明日もまた来るけど、なにか必要なものはある?」


 小さな、まるでそれ自体が飾りのようなバックを肘にかけ、ユディットはシリウスを見上げた。


「うーん……」


 今からまた寝て、そして明日目覚めるときっともっと体調も良くなっているだろう。そんな予感はある。


 不安なことは山ほどあるし、あの義兄のバカげた策についてはなんとか防がなくてはと思う。


 そして防げなかったことのことを考えると恐ろしくて悲鳴を上げそうだ。

 だから。


「なに? なんでも言って?」

「じゃあ。ハグしていい?」


 ユディットを巻き込んでしまったり、宮中伯に迷惑をかけたり。

 そんな最悪の事態ばかりが頭に浮かんで。


 うまくいくかもしれない。

 あの義兄を止められるかもしれない。


 そんな考えを強化したくて。


 そして。

 せめて今日だけは安心したくて。


 シリウスはゆるく両手を彼女に向かって広げて見せた。


「もちろん、いいわよ。なんだ、体調崩してやっぱりシリウスも不安になってたのね。ほら、サンダースさん。やっぱり帰宅を遅くして正解だったでしょう?」


 ユディットは得意そうに壁際に控えるサンダースさんに言うと、ちょっとだけお姉さんぶって顎をつんと上げて見せた。


「シリウスは私より年上なのにまだまだ子どもね」


 そう言って腕の中に飛び込んできた。

 シリウスの背中に両手を回し、心臓の音を聞くように胸に右耳を当てる。


「大丈夫よ、シリウス。明日もちゃんと来るから。あ、そうだ! 明日なにか作って持ってきてあげる!」


「今日明日、シリウスぼっちゃんは絶食の予定です」


 サンダースさんが言葉を差しはさんでくれてよかった。

 喉は乾いて仕方ないが、食欲は全くないのだから。


「そうか。じゃあ、明後日ね。明日は……そうね、私のお勧めの本を持ってくるわ!」

「それは楽しみ」


 シリウスはユディットを腕の中で軽く囲い、彼女のつやつやとした髪にキスを落とす。ふふ、とユディットは笑うと、お返しだとばかりにつま先立ちしてシリウスの頬にキスをした。


「じゃあまた明日、シリウス。ゆっくり眠ってね」

 うん、とシリウスはうなずいて腕を解く。


 あの義兄のことをどうにかしなければ。

 ユディットを守るために。



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