第8話 修道士たちの訪問

 その三日後のこと。


 昼食を食べ終えたときのことだ。

 やけに喉の渇きを覚え、もう少し水をもらおうと立ち上がった。


 世話係のおばさんは1階にいる。

 ゴブレットを手に取り、数歩あるいて異変に気付いた。


 やけに足元がぐらつく。

 扉を開けたものの、しばらく壁にもたれかかるようにして動きを止める。


 ぐらついているんじゃない。めまいだと気づいたときには、どうしようもない吐き気に襲われた。


 ゴブレットを放り出し、手すりにつかまりながら必死に階段を降りる。


 そのたびに視界が揺れ、胃が浮かび上がりねじれて内容物を出そうとする。

 必死に奥歯をかみしめ、階段を降りる。最後の数段はほぼ転がり落ちた。


 音に気付いたのか「シリウスぼっちゃん?」と厨房のあたりからおばさんの声が聞こえたが、返事をしているひまなどない。


 そのままトイレに駆け込み、嘔吐した。


 間に合ったとホッとしたものの、すぐに上半身が支えられないほどのめまいに襲われる。


 目を閉じても揺れはおさまらない。荒波に翻弄される小舟に乗っている気持ちだ。

 めまいのせいで波状的に嘔気が生じる。


 便器にしがみつき、必死に胃の中のものを出していた。


 どれぐらいそんな状態が続いていたのかはわからない。

 気が付けば体中汗だくになってトイレに座り込んでいた。


 開いた目が見せるのは、ぐるぐると回る天井。それだけじゃない。やけに光がまぶしい。おまけに視界に入る〝色〟が極彩色だ。鱗粉りんぷんをまぶしたように光輝いたかと思うと、渦を描いて動きだしたりする。


「大丈夫ですか⁉ どうなさいました!」


 ぼわん、と。

 耳の中に水がはいったような感じでおばさんの声が聞こえる。


 自分の背中を撫でたり、額に浮かぶ汗を手拭いで拭いてくれるのだろうが、彼女の腕が怪物のように伸縮するから驚いて身をよじる。


 だがまったく思い通りに身体が動かない。シリウスは素早く動いたつもりだったのに、ほんの少しみじろぎした程度だった。


「歩けますか? まだ吐きたい?」


 おばさんが顔を近づけて尋ねるが、その顔に焦点が合わない。無理にあわそうとするとまた視界がぐるぐると回る。


 大丈夫。

 そう話そうとしたのに、ろれつが回らない。らいひょうふ。そんなかすれた声が喉から洩れた。


 なんとか立ち上がろうと床に手を這わすが、身体全体を布かなにかで覆われたように感覚が鈍い。そしてまたひどいめまいに襲われたかと思うと、強烈な痛みをこめかみに覚えた。


 どうやら転倒し、こめかみを打ったらしい。

 おばさんだけではシリウスの体を支えられず、彼女も床に膝をついていた。


「警備の人を呼んできます!」

 シリウスが覚えているのはそこまでだった。



 次に目を覚ましたのは、ユディットの声が聞こえたような気がしたからだった。


「ユディット……?」

 名前を呼び、目を開こうとして驚く。


 目が開かないのだ。

 同時にまたあのめまいがおこる。


 真っ暗闇の中をひたすら身体をぐるぐると回転させられるあの気持ち悪さ。

 吐きたくてももう胃になにもない。


 奥歯をかみしめると、ぐう、と喉が空気を閉める音がした。


「シリウス? 起きた?」

 ユディットの声。不思議なことに彼女は鼻声だった。


 どうしたんだろう。風邪でもひいたんだろうか。彼女のことだ。どうせ薄着で外出したんじゃないんだろうか。もう少し周囲の意見を聞くべきだ。


 そんなことを思いながら目をこする。

 ばりばりと。

 なんだか目元にいやな手触りがあり、ついで痛みが走る。目の周りの皮膚がざらざらしていた。驚いたことに目ヤニらしい。


「待って、シリウス。タオルで拭いてあげる」


 ユディットが言うので、シリウスは素直に従うことにした。

 水音がし、そのあとすぐに温かいタオルが押し当てられた。


 その温度とやわらかな肌心地にほ、と息を漏らす。 

 そしてゆっくりと目を開くと。

 思わずうめいた。


「まぶしい」


 まるでハレーションを起こしたようだ。

 しかも一色じゃない。幼児が無邪気に水彩絵の具をぶちまけたように、様々な色が光を放ちながら網膜を刺激する。


「サンダースさん!」

 ユディットが悲鳴を上げる。


「窓を隠しますが、たぶん無理でしょうね。シリウスぼっちゃん。しばらく目の上に温かいタオルをかぶせておきます」


 そのあとすぐに目の上に温タオルをあてられた。

 相変わらずめまいはしつこい。


 サンダースさんは自分で言った通りなにかで窓を遮ろうとしてくれているのだろう。ゴトゴトと物音がした。ひょっとしたら1階浴室で使用している衝立をここまで引き上げてきたのかもしれない。あれで窓を覆っているのだろう。


「今から夕日も入りますし……。しばらくは目を閉じていた方がいいかもしれません」


 サンダースさんの言葉に無言で頷くと、ユディットの声が続いた。


「もうすぐお医者様が来るの。シリウス、大丈夫? しんどいところはない?」


 そのあと、自分の額にひやりとしたなにかがふれる。

 ユディットの指だ。


「冷たくて気持ちいい」

 思わずそう言う。


「やっぱり熱もある……。なんだろう、サンダースさん。シリウス、なにかの病気なのかな」


 驚いたことに。

 そのあとユディットが泣き出した。


 そうしてようやく理解する。

 彼女の鼻声の理由に。


「医師に診てもらわないことにはどうにもですが……。いまのところ近隣で嘔吐をともなう感染症の広がりは見られません。また、同じものを食べた世話係の女性が症状を呈していないところを見ると食中毒でもなさそうです。まあ、これは個人差や食事量にもよりますが……」


 サンダースさんはぼそりと最後につぶやく。


「ただ、この視覚異常。これは……」

 彼女の語尾をノック音が打ち消した。


「あ! お医者様だわ、シリウス!」


 ユディットがシリウスの手を握っているということは、扉に近づいていく足音はサンダースさんのものだろう。


 扉を開き、なにごとか会話をしている。


「たまたま近くにナラン派の修道士様がいらっしゃったの。宮中伯都の医師を呼ぶより断然早いから診てもらおうとお願いしたらすぐに来てくださったわ」


 ナラン派。

 シリウスも聞いたことはある。


 この国の国教であるマリーバラン教は教義の解釈や実践方法により大きく3つの派閥にわかれている。


 王が正式に「正統」と認めているアジル派。

 経典内容がすべてであり、それ以外の科学的解釈を全くみとめない原始経典派。

 それから清貧と神への奉仕こそが世界を救うと信じているナラン派。


 ナラン派は医療に特化した知識を持っていることや、アジル派のように王都貴族と癒着した暮らしをしていないせいで、ここ最近はとみに南部の領主たちに人気だとも聞く。


「患者さんはこちらですね?」


 こつこつと複数の足音が近づいてきた。声は男のそれだ。深みがあるが、まだ若いのではないだろうか。


「そうなんです、修道士様。お昼を食べたあと急に吐いて……。それから気を失って……。めまいがひどいんだよね⁉」


 ぎゅっと手を握ってユディットが尋ねる。


「そう」

 かすかな声で答える。


「この方のお名前は?」

「ジョーンズです。わけあってここで生活をしております」


 ユディットやシリウスがなにか言う前に、サンダースさんが応じた。


 シリウス。

 その名を隠したいのだろう。


「そうですか。それではご婦人方は一度退室をしていただきましょう」


 さっきの発言者とは別の。こちらは比較的年配の男が話した。かすれ声に特徴のある男だ。


「え? いちゃいけないんですか?」

 ユディットが不満というより困惑していた。


「診察のために衣服を脱がす場合があります。婦女子のみなさまには退席していただくのが一番よいかと」


 かすれ声の男の声に、やわらかな声が重なる。例の若い男の声だ。


「大丈夫です。ジョーンズさんになにかしようとするわけではありません。外科げか的処置が必要であればそのとき、また声掛けしますからご心配なく」


「そう……ですか」

「お嬢さんにとってよほどこのジョーンズさんは大切な方なのですね。大丈夫です。わたしたちが力になりますから」


 若い男にそこまで言われ、ようやくユディットは退席することにしたようだ。

 手を離す直後に、彼女は一度だけぎゅっと力を込めた。


「じゃあ、すぐ戻るからね。なにかあったらすぐ呼んで」

「わかった」


 シリウスが答えると、サンダースさんに促されて退室したようだ。ぱたりと扉が閉まる音がした。


 そのあと、塔の階段を降りる足音が続き、またすぐに扉が開く音がした。

 この短さから判断するに、すぐ下の部屋で待機するつもりらしい。


 そこは空き部屋で、ときどきシリウスとユディットが異種格闘技対決をするのに使っている。


「さて、と。見る限り視覚異常が強く出てしまったようだな」


 若い男の声。


「最少量にしたのですが……。こればっかりは個人差が大きく出ますからね」


 年配の男の声。


「この部屋を見る限り……。まあ、仕方あるまい。やけに窓が大きいからな。光の影響を受けざるを得ない。へぇ、絵も描くのか」 


 若い男の声のあと、足音が少し遠ざかる。たぶん、キャンバスまで歩いているのだ。


 ほんの数日前まで描いていた油彩画はすでに宮中伯のところへ納品した。

 いま、イーゼルにたてかけているのは炭で描いたデッサンだ。


「構図が面白いな。ふぅん」

「絵がお得意なのであれば、なおさら色覚に特異な症状が出たのかもしれません」


 ふん、と若い男が興味なさげに鼻を鳴らしているが。


 シリウスは困惑していた。

 いま、おかれている状況に、だ。


 ユディットもサンダースさんもこのふたりをナラン派の修道士であり、医療的知識があると言っていた。


 事実彼らは、治療に際して服を脱がすかもしれないから婦女子は退室するように伝えていた。


 それなのに。

 治療らしきことを行うことはない。


 それどころか。

 シリウスはどっと全身から汗が噴き出すのを感じる。


 この会話。

 まるで加害者ではないか。


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