第6話 謎の夫人

 そのあと。

 臨時雇いの夫人がシリウスの夕ご飯をトレイに載せて運んで来た時には、もうユディットはサンダースさんと帰った直後だった。


 コンコンコン、と。


 几帳面に鳴らされたノックに、「そうだ今日はいつもの人じゃないんだ」と改めて思った。いつもの人ならノックもなしにドアを開けることも多い。


「はい」


 シリウスも律儀に返事をし、額の汗を肩口でぬぐった。


 鉄板がつま先に入ったやたらめったら重い靴を脱ぎ、やれやれと息を吐く。まだ汗がひかない。ダンスレッスンというより、もはやトレーニングだ。


「失礼します」


 入ってきたのは今日だけという限定付きで雇われた夫人だ。


 近隣の村民なのだろう。着ている服も木綿のそれで、髪型だって凝ったものじゃない。30代のように見えるが、化粧をしていないせいで年齢より少し老けて見えるだけかもしれない。


 夫人は静かに室内に入ってきてトレイをテーブルに置く。


 黄色を帯びていた夕日もだいぶん濃くなり、闇色を内包しはじめた。

 そんな光が満ちた室内で、夫人はふとシリウスを見た。


 視線を感じ、シリウスも向かい合う。


 今日、はじめてしっかりと顔を合わせた気がする。シリウスはそんなことを思った。同時に、どこか異国情緒のある顔だな、とも。鷲鼻や髪色など、隣国に多い特徴を容姿に残している。


「夜が来る前にお暇しようと思います」

 夫人は不意にそんなことを言った。


「ああ、はい。そうですね」

「風呂桶には湯をいれています。ふたをしているのでしばらくは冷めないでしょう。保温用に熱した石をいくつか入れていますから、入るときには足元にご注意を」


「わかりました。夫人、あなたもどうぞお気をつけてお帰りを」

 そう告げると、夫人は軽く頭を下げて扉に向かって数歩進む。


 そして。

 出ていくのかと思いきや、ふと足を止めた。


 なんだろう、といぶかしむシリウスの前で夫人はくるりと振り返る。


「どうしました?」

 シリウスが尋ねる。


「この塔に幽閉され、もう4年ですか?」

「ええ、そう……なりますね」


「なにか、お困りのことなどありますか? わたくしにお手伝いできるようなことであれば、ということになりますが」


 控えめな申し出に、シリウスは少しだけ首を傾げた。


 自分に同情しているのだろうか。

 年頃の。18歳になろうとする男が、日がな一日限られた空間で、会う人も限定されて過ごしている。


 そんな境遇を憐れんでくれているのだろうか。


「いいえ、夫人。僕はこうみえて何不自由のない暮らしをしているんですよ」


 だからシリウスはにっこりと微笑んで見せた。

 この優しい夫人をできるだけ傷つけぬように。


「宮中伯は僕の身を案じてここに保護してくださっているのです。護衛の騎士は頼もしく、世話係の女性には甘えてばかりで……。趣味の絵に没頭する暮らしをさせてもらって申し訳なく思っているところです」


「ですが、かような……」


 夫人はかすかにうつむく。その頬を闇色の混じる夕日が照らした。


「正統なる血を受ける方が……」

「……夫人?」


 シリウスは十分に警戒をしながらそっと呼びかけた。


 様子がおかしい。


 この塔にいて。

 いろんな人物に出会った。


 ユディットやサンダースさんはもとより。

 日々顔を合わせる世話係の女性。それから護衛をしている騎士たち。年に数回しか顔をあわせないが宮中伯。


 いままで。

 誰もこの状況におかれたシリウスに否定的なことを言わない。


 なぜなら。

 ここは王城より、王都より、あの牢獄よりマシであることを知っているからだ。


 もちろん幽閉されていることに間違いはなく、いつ宮中伯の気分が変わってシリウスの立場が危うくなるかもしれない。そんな微妙な立場であることは間違いない。


 だからこそ。

 シリウスを「正統な」などということはない。


 もはや「傍流」ですらないのだと。

 余計なことは言わずに口を閉ざし、気配を消して暮らしている。


 それが一番安全なことなのだと誰もが知っている。


(……これは、誰だ?)


 シリウスは夫人の顔を凝視した。

 まだ王子だったころに出会った誰かなのか。


 王城にいたころの記憶は霞がかかったようになっていてもう思い出せない。父王や、尼僧院にいれられたという義母。同じく修道院に入っている義兄の顔さえも。はっきり覚えているのはロバートの死に顔だけだ。


 今日だけの臨時雇い。

 その不安定な立場にひやりとさせられる。


 宮中伯が選んだ人間なのだから自分に害なすものではないと勝手に思っていた。


 だが。

 本当にそうなのか? 


 そもそも。

 自分はなぜ幽閉されているのだ。


 ほかの身内は殺されるか、修道院や尼僧院にいるというのに。

 なぜ自分だけ王都から離れたこんな場所で生かされている?


「すぐに楽にしてさしあげましょう」


 夫人の言葉にゾッとする。

 それは、処刑という意味か。


 一瞬にして血の気が引き、軽いめまいを覚えたシリウスが壁にそっと手を突いたとき。


 隣にいたイジェット君がその動きにつられて大きく傾いだ。


 あ、と思う頃にはイジェット君が倒れる。慌ててそのシャツをつかんで床に落ちるのを防いでいたら。


 夫人はいつの間にか退室していた。


 かつかつかつかつ、と。

 螺旋階段を降りる足音が遠ざかる。


 そして。

 最下層の扉が開き、夫人がこの塔から完全に出たのを音で確認してから。


 シリウスはようやく深く息をついた。

 とりあえずイジェット君をもう一度壁にたてかける。


 そして、おそるおそるシリウスはテーブルの上に載せられたトレイに近づいた。


 まさかと思うが。

 この夕飯に毒が混じっているのではないか。


 そんな不安を空気ごと飲み込むと、ごくりと喉でつぶれたような音がした。


 いままで。

 少なくともこの塔に幽閉されてから。

 出されるものは普通に食べていた。


 まさかここになにか毒物が混じっているなど。

 そんなことを深く考えたことはなかった。


 改めてトレイを見つめる。


 ジャガイモと根菜のスープ。皿の上にはタラのソテー。紙袋に入っているパンと思しきもの。


 それだけだ。

 見た目はなんの違和感もない。


 行儀が悪いと思いながらも、おそるおそる鼻を近づけるが、ソテーに使われたバターの香ばしい香りと、スープのブイヨンしかにおわない。


 色見だってそうだ。

 濁ったり変色したりしているようには見えなかった。


 そっとスプーンを手に取り、スープをかきまぜる。特段変化はない。タラの身を割る。変な汁がにじみ出てきたり、異臭がしたりはしない。


 紙袋を持ち上げる。


 封を開けると、焼しめた香りにバジルの匂いが乗る。袋を逆さにしてトレイに中身を出した。


 こぶりのロールパンがふたつ。

 そして。

 皿の上に折りたたまれた紙が出てきた。


(なんだ……?)


 こんなものが入っていたのは初めてだ。


 シリウスはゆっくりと紙を広げる。よほどしっかりおられているのか。一度テーブルの上に載せて上から押してしわを伸ばす。


 まだ明かりをともさずとも十分に文字が読み取れた。


 そこには「王位を簒奪した」とする「ルブラン王朝」の「不正や腐敗。国民の悲痛な叫び」とやらが細かい文字がびっしりと書き込まれており、文末にはサインと。


 印が押されていた。


 忘れようもない。

 サイレウス王朝の。

 それは正統な継承者のみが使える印璽いんじ


 追伸、と。


 その手紙は締めくくられていた。

 近いうちに会おう、我が弟よ、と。

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