浅瀬の希望

「そらにつばさを〜、ひろ⤵︎げて⤴︎〜」


 クセのある歌い方で古い名曲を口ずさみながら、クアセがサングラスを手持ち無沙汰に振り回す。僕は足を投げ出して座る彼女の小麦色の足の上に片足を乗せ、波が膝裏あたりまで濡らして引いていくのを眺めた。膝まで巻き上げたスカートが濡れないよう、少しだけ腰の方に引き寄せる。


「クアセ、振り回すのやめろ。今日サンジュが目を怪我でもしたら入院かけるゆりかごだぞ」

「うお、そっか、そうだよね」


 クアセの隣に座る、漁師で彼女の夫のユラがかけた言葉に、クアセがわたわたとサングラスをもてあそぶのをやめ、すちゃっ、と自分の顔にかけてしまう。それこそ広く足を伸ばして、少し距離を空けて並んでいるのに、心配性な二人に僕はくすりと笑った。まあでも、二人が過保護になるのも仕方ないのだろう。例えば、最後まで腹の中で育てる人間と違って砂の奥に産卵する僕らは、子どもたちが生まれてくるまで何人生き残るか分からない。でも逆に、環境が整いすぎていると生まれすぎてしまう。

 ゆりかご、と名付けられた半人半魚の産卵用のプールがある。適度な天気の変化をする人工の空に、普通の海よりもミネラルたっぷりの狭い海、暖かくて軽い砂のベッド。一度に作れる卵が少ない体質の人や、自然の海では卵が全滅してしまう可能性のある未熟卵を安全に育て確実に孵化させるための施設だ。時に、嵐や母親の状態により母子共に健康でもその施設で産卵しなければならないことがあり、そうすると、普通は半分ほどしか孵らない卵たちがほとんど全部孵ってしまうのだ。そうなると、他の生物に劣り海だけでは生活のできない僕らは、人間に子を間引くことを要求される。

 安全な地上に甘えるうち、一度に生む卵の数は減り、“いていい”子どもの数も減った。海の生き物でもなく、地上の生き物でもない、浅瀬にしか居場所のない僕らはそれに順応するしかなかった。

 とまあ、重い話をしたが、平均三十個生んで平均十二個孵りそこからも七、八人減っていくうちの最大五人認められるなら、人間は僕らの種族に寛容な方だと思う。それに僕は、今夫が安全な巣を作ってくれている幸福な場に巡り会えているのだから、暗い話題はこれぐらいにするべきだろう。


「サンジュ、体調はどう?」

「うん、元気にいきめそう」


 あはは! とクアセが白い歯を見せながら大きく笑う。クアセはダイビングのインストラクターをやっていて、僕より二つ上の先輩ママさんだ。半人半魚用のスーパーで気持ち悪くなってしまった僕を助けてくれ、それ以来アドバイスを仰いだり夫の愚痴を言い合う仲だった。生まれたときは全員オスで、大人——二十二歳になると性別の変わる半人半魚で、数ヶ月しか男女でいられない同い年の幼なじみと恋に落ちたという共通点が親しくなるのに拍車をかけ、今では四人の親戚まで顔見知りの家族ぐるみの付き合いである。


「それならよかった! 僕らも応援するからねっ」


 ぎゅっ、とクアセが両拳を握って頑張る! ポーズをしたので、僕も同じポーズをして意気込んでみせた。彼女の後ろで、ユラが白いミニスカートの眩しい産卵しに来た家族向けのラムネの売り子に声をかけられているのが見えた。彼も人間でなく、半人半魚だ。ここは人間の入れないビーチ——そう、そういえばだけれど、僕らは性別に関わらずスカートを履く。ズボンよりスカートの方が泳ぎやすいというものもあるし、元々の服の文化が和服に近かったのが大きい。近ごろの少年たちは人間の文化に影響されてスカートをあまり履かないようだけれど、僕なんかは涼しくて夏はずっとスカートだ。


「クアセ」


 ユラがいたずらで、ぴと、とクアセの頰にラムネの瓶をつけた。ぴゃーー!! とクアセが笛のような甲高い悲鳴を上げて座ったまま跳ねる。


「やめろよ、もう!」

「あはは、ごめん」


 ユラが代金を売り子の少年に渡しながらえくぼを浮かべて笑う。彼は、身体は大人になったけれど、内面は男性のままだ。その違和感や常識と戦って、クアセと結婚し誰かの配偶者という半人半魚にとって異例の戸籍を得たユラは変わり者で、一途で、大人になっても男性を突き通す格好良い人だ。それに感化され、僕らも結婚した。


「サンジュも、ほら」

「ありがとう」


 水筒は各自持ってきていたが、炭酸は半人半魚の大好物だ。ありがたくいただく。ユラから空色の瓶を受け取り、かしゅっ、と蓋を開け、溢れた泡で濡れた手を波ですすぎながらビー玉が詰まらないように炭酸を煽った。しゅわわ、と口の中で二酸化炭素が弾けるのに、地上では仕舞われている首元のエラが開く。深(エラ)呼吸すると、爽快な甘い匂いが肺に広がった。ううむ、さわやか〜。


「リイガ、ラムネ」


 ユラが立ち上がり、膝まで海に浸かった僕の夫の方へラムネを渡しにいく。リイガは他の人が僕の卵の上を通らないよう、僕らの周りに杭を打ったりロープを張ってくれていた。


「あ、ありがとうございます」


 にぱ、と笑ってリイガがラムネを受け取った。僕らに基本的に敬語の文化はないけれど、ユラの部下であるリイガは彼には敬語だ。ついでに、僕は彼らが釣ってきた魚の料理を出す母親の店を手伝っている。その場で蓋を開けると、リイガはみんなと同じように手を波ですすぎながら煽った。ぱかっ、とエラが開いて、彼女は心地良さそうに緩んだ笑みを浮かべる。ユラがリアクションの分かりやすい彼女に可笑しそうに笑った。


「ちょっとくれよ」

「もう、自分の飲んでくださいよ〜」


 そう言いつつも、リイガは快く自分の瓶を彼に渡す。ユラは口を付けずにラムネを口いっぱいに注いだ。


「ちょっ、ひどいです!」

「むふー」


 兄弟のように仲の良い二人に頰が緩んだが、僕は直後眉をしかめた。慌てて倒れ込むようにクアセの袖を掴み、力を入れて引っ張る。


「わっ、なに? ……って、リイガ!」


     *


 痛みに頭を占領され、何も考えられない中、背中に柔らかい感触が触れた。クアセの声が不意にまっすぐ耳に届く。


「深呼吸だよサンジュ、ラムネみたいに」


     *


「サンジュ、大丈夫?」

「大丈夫じゃない……」


 こぽ、と言葉を発したのに合わせてあぶくが上へこぼれていく。僕は産卵が終わった後、母さんたちやクアセに言われていた通りに海の中へ入った。というか動けなかったので、リイガに横抱きにして運んでもらった。たしかに、陸上にいるよりも呼吸が深くできるし疲れや痛みが和らいだ気がする。


「帰ったら、ゆっくりお風呂入ろうねぇ。ご飯も僕が作るし」


 エラが大きく開き、腕や足を鱗に包まれた彼女が心配げに言う。小柄なリイガ二つ分くらいの深さまで歩みをすすめると、彼女は足を止めた。僕を三角座りに地面に下ろすと、後ろに座って包み込むように腹に腕を回してくる。つう、と鮮やかな黄色をした熱帯魚がそばを抜けていった。


「ハロー、エンジェルフィッシュ。今日ね、サンジュとの記念日が新しく増えたんだ」


 エンゼルフィッシュは聞いていないどころか彼女に尾ひれを向けているが、リイガは構わず見せつけるように僕のうなじに鼻先を擦り寄せた。すり、と鼻先が髪の生え際に潜り込み、首元にふわりとまた違う熱が触れた後、笑ったような大きなあぶくがうなじから髪へ滑っていく。


「もう」

「サンジュも〜」


 僕は彼女を振り返り、そのふっくらとした唇に向かってふうっと息を吹きかけた。その泡は唇から頰や鼻を滑り、ショートカットに潜り込み、彼女はあぶくまみれになった。


「わ〜、あはは。サンジュのキス、レアだから吸っとかなきゃ! すうぅううっ」


 あはは! と僕が大爆笑するのに驚いてか、エンジェルフィッシュがぱたぱたと身を翻して逃げていった。

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