人生の長さに対する優雅な絶望

七草葵

人生の長さに対する優雅な絶望

 加瀬さんの身体には、深い傷跡がある。

 それらは大小さまざまで、えぐれたり膨らんだり、縮んだり張りつめたりしながら加瀬さんの肌を歪にしている。はっきり言ってグロい傷だ。

 じっと見ていると、人の顔に見える部分がある。動物や食べ物に見える時もある。暇つぶしに、わたしは加瀬さんの肌を眺めたり指でなぞったりしながら、色んな形を探す。空を見上げて、雲の形を何かに例えるのと同じようなものだ。

「よく見ていられるね」

 加瀬さんは苦笑いを浮かべている。「僕自身でも、気持ち悪いと思うのに」

 わたしは加瀬さんの言葉には答えずに、

「生まれた時からこうなの?」と、尋ねた。

「ちがうよ」

 加瀬さんは首を振って、さっとシャツを羽織った。

「今日はありがとう。支払いはしておくから、ゆっくりしていていいよ」

 そう言って、ベッドのサイドテーブルにお金を置く。加瀬さんはやけにきちんとして、礼儀正しいひとだけれど、お金を渡してくる時は封筒に入れたりしない。「その方が安心するでしょ」と言って。その言葉を聞いた時、遊び慣れてるひとだな、と思ったものだ。

 本当はお金なんて、別にくれなくてもいいのだ。お金を払ってくれるおじさんは他にいくらでもいるし、そういうおじさんにはオシゴトとして接しているし、それなりのサービスもする。加瀬さんには、そういうのはしない。普通に、ふたりで遊んでいる、という感覚だ。 加瀬さんとは、ホテルのバーで会った。オシゴトで、おじさんに連れていかれたホテルだ。若い女の子に、大人の世界を見せてあげる自分、みたいなロールプレイが好きなおじさんだった。オシゴトなので、わたしはおじさんが注文した甘ったるいカクテルをおいしそうに飲んだり、バーやカクテルのうんちくに相槌を打っていた。店内は静かで薄暗くて、ぽつりぽつりと店員さんたちの手元を照らす明かりが冷たく輝いていた。ゆきとどいた空調に肌がピリピリした。大人ってつまんないな、と思った。陰鬱な店で、体に悪いものを飲んで、ばかばかしい話をもっともらしく語り、もったいぶったまわりくどい段取りをつけているくせに、結局はセックスがしたいだけなのだ。男のひとたちが必死になって編み出す、セックスに持ち込むための長い長い道程が、果てしなく退屈だった。

 眠気を誘う、店内のBGMに耳を傾けていたその時、唐突に悲鳴が上がった。

 声がした方へ目を向けるのと、女の人が店を走り抜けて出て行くのとはほとんど同時だった。女の人が来た方向には、店員にタオルを差し出されている男のひとがいた。カウンター席に座っていて、髪やワイシャツがぐっしょりと濡れている。水か何かをかけられたみたいだった。その男の人は、困ったように笑いながら、店員さんと話していた。濡れたワイシャツが透けて、肌がうっすらと見えていた。違和感を覚えて目を凝らすと、肌が妙な形に歪んで見えた。幻燈のような明かりに照らされたその歪な肌の複雑な陰影にわたしは目をうばわれた。あのひとの肌を触ってみたいな、と思った。

 だから、オシゴトのおじさんとバーを出る時に、連絡先を書いて渡した。加瀬さんが連絡をくれて、わたしたちはふたりで出かけるようになった。カフェに行ったり、映画を観たり……セックスをしたり。オシゴト抜きの、気楽で奇妙な関係。わたしは、この関係を結構気に入っている。


「制服着てる」

 平日に待ち合わせたとき、加瀬さんはびっくりしていた。わたしの通っている学校は、このあたりではお嬢様が通っていると評判だ。制服マニアのおじさんが、たまに盗撮しようとして捕まったりしている。

「うれしい?」

「行ける場所が限られるな」

 加瀬さんは困ったように笑った。いつものスーツ姿で。

 わたしたちは並んで歩いた。なんとなく、人が少ない住宅地へ向かって歩いた。犬を散歩している人とすれ違うと、加瀬さんはびくっと怯えた。

「犬、苦手なの?」

 わたしが尋ねると、加瀬さんは恥ずかしそうにうなずいた。

「可愛いのに」

「知ってるけど、怖いものは怖いんだ」

 大人なのに犬なんかに怯えている加瀬さんは、ちょっと面白い。あんなにふわふわで可愛い生き物を怖がる必要が、どこにあるっていうんだろう。

「加瀬さんって、何してるひとなの」

 スーツ姿の加瀬さんが、まだ明るい住宅地を歩いているのは変な感じだった。

「普通の会社員だよ」

「ふつう」

 本当だろうか? 加瀬さんみたいに不思議なおとなが『ふつう』に働ける会社は、あまり想像がつかなかった。

 住宅地を抜けると、さびれた商店街に出た。チェーン店らしきスーパーや薬局が開いている程度で、他はシャッターが閉まっている。

「これから、どこ行く?」

「どうしようかな」

 またなんとなく歩きだした時、ぽつりぽつりと雨粒が落ちてきた。それは一気に勢いを増して、コンクリートを真っ黒に染め上げた。

「雨宿りしなくちゃ」

 わたしたちは走って、スーパーに入ろうとした。その時、お店の前に繋がれた犬が激しく吠えた。加瀬さんが、怯えた様子で後ずさる気配がした。加瀬さんのシャツは、雨に濡れて透けていた。歪な肌が、うっすらと、けれどたしかに見えていた。

「行こう」

 加瀬さんの手を握って、わたしはその場を離れた。加瀬さんが犬を嫌いなんじゃなくて、犬が加瀬さんを嫌いなのかもしれない、と思いながら。

 屋根付きのベンチがあるバス停を見つけて、わたしたちはそこへ滑り込んだ。時刻表を確認すると、次のバスが来るのは一時間ほど後だった。きっとしばらくは誰も来ないだろう。「気を遣わせてすまない」と、加瀬さんは言った。雨音にかき消されそうな、か細い声だった。

「別に、そういうのじゃないよ」

 どちらかといえば、わたしは他人に加瀬さんの傷跡を見せたくなかった。加瀬さんの歪んだ肌は、なるべくわたしだけの秘密にしておきたかった。小さい子どもが、大事なおもちゃを隠すのと同じようなものだ。

「どうして、そんな風になったの」

 わたしが尋ねると、加瀬さんはすこし驚いたように目を見開いた。それから、困ったように笑った。

「きみはすごいね」

 よく分からないけれど褒められた。何がすごいのか首をかしげていると、加瀬さんはますます笑った。

「俺、昔自殺しようとしたんだ」

 雨音にかき消されることなく、その言葉はまっすぐに耳へ飛び込んできた。

「すごくキツい会社に入っちゃって。ほら、いわゆるブラックってやつ。それで、社会人になって2年くらい経ったころ急に生きているのが嫌になっちゃったんだ。学生時代も全然いいことなくて、いじめられてて、社会人になってもずーっと立場は変わらないんだって思ったら、この先10年も20年も生きていくのが怖くなった。それで、会社の屋上から飛び降りた」

 加瀬さんは、わざと笑い話にしようとするようにかるい調子で話した。わたしは相槌も打たずにそれを聞いていた。沈黙は雨音が埋めた。加瀬さんがこんな風に、たくさん喋るのは初めてだった。雨音に乗って聞こえる加瀬さんの声は、寂しくて切ない音楽のようだった。

「落ちた場所が悪くて。ゴミ捨て場だったんだ。燃えるゴミの日で、大量の紙クズと生ゴミがクッションになったせいで、死ねなかった。すごく怒られて、リハビリとかして、カウンセリングとか通わされて……それが15年前。親も最初はめちゃくちゃ心配してたけど、今はふつうに働いてるし、一人暮らしも許してくれたし、さすがにもう大丈夫だろうって思ってるみたいだ」

 わたしは、屋上からゴミ捨て場に落ちた加瀬さんのことを想像した。かわいそうな加瀬さん。でも少し、滑稽だ。

「よりによってゴミ捨て場だなんて、なんだか加瀬さんっぽい」

「笑えるよね」

 加瀬さんは、いつものように、困ったような顔で笑った。

「今でも、死にたくなるとき、ある?」

 わたしの言葉に、加瀬さんは少し考えてから、頷いた。

「生きたいと思うには、人生は長すぎる」

 わたしには、加瀬さんの言っていることがよくわからなかった。

「人生が、長い?」

「ああ。人生は長すぎる」

 わたしはまだ学生で、可愛くて、若くて、周りの子も、大人たちも、みんなちやほやしてくれる。世界中がわたしの味方のように感じる。もちろん嫌なことはあるけれど、様々な問題は放っておいてもなんとかなってきた。だって、わたしは可愛くて若くてちやほやされる価値があるから。人生を長いと感じたことはない。毎日はあっという間に過ぎ去っていく。のらりくらりと生きているうちにあっという間に人生は過ぎていく。人生は短い。だから世の中にはたくさんの「死に際の後悔」を書いた本や「不老不死」を願うおとぎ話が溢れているんだろう。そう思っていた。

「加瀬さんの傷跡、わたしは好き」

 上手く考えをまとめられなくて、結局、それだけしか言えなかった。加瀬さんは他のひとたちと違う。そういうところが、好ましいと思っている。

「もっと触っていたいから、頑張って生きててね」

 加瀬さんはきょとんとしたあとに、困ったように笑った。

「きみは、本当に……」

 何かを言いかけて、思い直したように口をつぐんだ。そして、誤魔化すように笑った。雨のせいか、加瀬さんが泣いているように見えた。


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