epilogue
父から公爵家の嫡男として当主を譲る上で、一つ条件を出された。
『ヴォンホードの菫を摘んでこい』
フランソワ王女に関わる全ての醜聞は知っていた。
その上で、父からの課題に頭を悩ませた。根こそぎ摘むにはどうすればいいか、考えた末に一つの妙案に辿り着いた。上手くいけば、幼馴染を悩ませている問題まで片付けることができるだろう。
父に全容を話せば、荒削りだが及第点をもらった。“ただし実行するなら、まず殿下の了承を取れ”と言われた私は喜び勇んで、この計画を殿下に持ちかけた。
しかし、彼は一度この計画を断ってきた。きっと後悔することになるから、と。
何を後悔することがある?
今や社交界でヴォンホード家の醜聞を聞かない日はない。フランソワ王女とアルフレッド・クリケットの美談、二人の関係に嫉妬しひたすらに彼を無視し続けた前妻と気難しく勉強嫌いの娘、それに引き換えフランソワ王女とは比べ物にならないほど貞淑で全てが完璧なロゼット王女。
真実なんてどうでもいい、誰かが泣いていてもどうでもいい。全ては、ヴェルガモット公爵家と優秀な幼馴染が恙無く明るい未来へ邁進できるなら、瑣末なことだ。
歴史からヴォンホードという名前が消えたところで、私たちには何の問題も無い。
『あとで泣きついてきても知らないからな』
彼は、いつだって冷静で合理的だ。何でもできる幼馴染に勝てることなんて、女の口説き方くらいだった。将来、何の瑕疵もなく王位に就いてもらうために、女の子たちを使って色んな情報を集め、仇敵にハニートラップだって仕掛けた。夜会は戦場だ、頭の良い父や幼馴染に戦略などでは勝てないが、人をたらし込むのは俺のほうが上手かった。
『お前は、鈍感だからなぁ』
父や殿下には、よくそう言って窘められた。今ならこの言葉の意味がよく分かる。
ヴォンホード家に、嘘は通用しない。そのことを頭に置いて行動しろ。何度も何度も言われた言葉の意味を、私は履き違えていた。“計画がばれないようにくれぐれも注意しろ”と言われているのだと、そう思っていた。
全部が盤上のコマだ、自分自身さえも。そこに気持ちなど必要ない、仕事に気持ちなど持ち込まない。
『初めまして、ヴィクトリア嬢。私は、ヴェルガモット公爵家のロイと申します。婚約者として、どうぞロイとお呼びください。これからよろしくお願いいたします』
『…私のことは、好きにお呼びください。私から何かを求めることはありませんわ』
『では、ヴィーと』
『かまいませんわ。私、気分が悪くなったので失礼します。どうぞ、パーティーを楽しんで』
夜会でロゼットに聞いていたよりも、少女は可憐で、生意気だった。
それを微塵も感じさせないように、いつものように微笑んでみたがそっけなく行ってしまった。まだ始まったばかりだ、焦る必要はない。
伯爵領の菫を褒めれば音を立てて飲む紅茶も、肝心な口説き文句の腰を折る菫の砂糖漬けを齧る音にも我慢しよう。代わりに、完璧な淑女であるロゼットが私を慰めてくれるのだから。
しかし、違和感が積もっていくのが自分でも分かった。その違和感に確信を持ちたくなくて、初めて弱さを見せて『助けて』と手を伸ばしてきたヴィーの言葉を【嘘をつくな】となじっていた。
その後から、彼女は紅茶を音を立てて飲むことは無くなって、よく笑うようになった。それでいい、都合の良い駒でいてくれないと困るのだから。
機嫌を取るために何かプレゼントを買っていこうと、呼び寄せたブティックの中からいつものように適当に流行りの物を選んでいく。
(似合いそうだな…)
彼女の紫がかったプラチナブロンドを思い出して、静かに手に取ったリボンは別に今季の流行を先取りしたものではなかった。いつもなら手にしないそれを、なぜか彼女の髪に飾りたくなった。
それを不思議そうな顔で受け取って、はにかんで笑った顔がとても可愛かったのがいつまでも忘れられない。
相変わらず、砂糖漬けを食べる頻度は変わらなかったが、そんなに好きなら嫁いだ後も取り寄せようと無意識に口にしていた。
霞草が見頃だったな、と気がつけば散策に誘っていた。
三種類届いていたウエディングドレスの生地の好みが分からなくて、二人で選ぶ提案をしていた。
『君は…少し意地悪だな…』
そのどれもに、彼女は不思議そうな顔をした後、必ずあの笑顔を見せてくれた。
もう一つのポプリをロゼットに渡すことになっても、別に胸は痛まなかった。計画外だが仕方がない、仕事だ。
見本に作ってくれていたポプリを右胸にしまい込んで、明日から会えなくなるであろう彼女との時間を噛み締めた。
『ヴォンフォード伯爵家の秘密をお教えしますわ』
計画が大きく動いた。
本来ならばヴィーが使っているはずの立派な書斎の隠し扉から、ロゼットが【あの書簡】を持ち出してきたのだ。そこに書かれていたことに一瞬息が止まった、殿下が予想していたことが半分当たっていたからだ。
ヴォンホード家の当主たちは、やはり皆何らかの方法で会話から嘘を見抜いていた。しかし、その方法までは書いていなかった。
“俺だけは、彼女の占いの当たりが悪かったんだよなぁ”と父が残念がっていたことをふと思い出し、私は彼女との茶会を振り返った。
彼女が紅茶を音を立てて飲むのは、菫を齧るのはいつだった?彼女たちは五感のいずれかで嘘を拾っているんじゃないか、と。
父は近眼で光に目が弱いので、よく色付きのコンタクトをはめていた。俺は裸眼だが、ヴェルガモットの香水を好んでつけていた。父との共通点、相違点を洗い出してみる。
ひょっとして彼女たちは、瞳孔や体臭で嘘を見抜いていたのではないだろうか?そうなると…俺の嘘は、どこから見抜かれていたんだろうか?
そこまで答えに辿り着いても、全てが終わる一歩手前だった。
昨日届いた熱烈なラブレター、そこに書かれていたのは…会いたいという言葉に隠された、俺たちが一番知りたかったアルフレッドたちが薬物を取り扱っているという決定的な証拠が揃っている日の密告だった。
『嘘ばかりでしたわね』
春の国に、珍しく降った雪が頬を濡らした。
父は確かに言った、菫を摘んでこいと。
殿下や父は、ヴォンホード家の秘密を大体把握していたのだろう。けれど、口にはできない約束があったから筋を通したのだ。彼らは、王位に一番近かった者と近い者だ、フランソワ王女の行いに、一番憤っていたのは
悪あがきの最後の時間、頼み込んで毎日通った牢獄での会話が、嬉しくて仕方なかった。その理由を今更誰も教えてくれない。
はじめに言われていたんだから、“後悔するぞ”と。
『ヨーゼフさんのお喋りを聞くの、とても楽しかったわ』
彼女と最期に話した数日後、処刑場にまた一体犯罪者の体がぶら下がり、鎮魂の鐘が鳴った。
処刑者の顔が良く見えるように、処刑場に柵はない。近づこうと思えば、彼らの真下まで行ける。けれど、私は彼女の笑顔を忘れたくなくて、顔が見えないくらいの位置から先へ進めなかった。薄情な男だと、自虐の笑いが漏れた。
ゆらゆらと白菫のように可憐な少女の体が揺れて、その首からはヴェルガモットのポプリも揺れていた。
短くなった髪の毛も、彼女のころんとした頭の形が分かって可愛かったことを伝えそびれてしまった。
また、髪が伸びたらリボンを買ってあげるから、待っているよと伝えることも。
“君に、ヴォンホード領を治めてもらおうかな”
彼女たちの愛した菫は、今も咲き乱れているのだろうか?
知れば知るほど嘘に塗れていたヴィーの言葉や評判だったが、同じくらい嘘に塗れていた私に、一度くらい怒ってくれたらよかったのに。
『嘘つきね』
その言葉のかわりに、彼女は菫の砂糖漬けを齧ったのだろう。
静かに処刑場を後にして、馬車の中で最低な初対面の挨拶から彼女の最期の笑顔を思い出しながら、報告書をまとめた。その資料の中に、当日押収した伯爵家の非公開の公文書の写しもあった。
全てが公にされた、彼等の秘密以外が。
離れてしまった民心を取り戻すために、殿下と父は忙しくなる。しかし、傷心の私を労るように、彼等は長い休暇をくれた。ヴォンホード領の伯爵邸を検(あらた)めるという名目で、休んでこいと。
最低な婚約者だった私を、菫は許してくれるのだろうか。ごとごと揺れる馬車の窓から、彼女と過ごした牢獄の赤レンガが見えた。
彼女の最期に見た景色に、あの赤レンガは映っていたのだろうか、そんなことを考えて、また報告書をまとめることに集中した。
ゆっくりゆっくり旅を進めて、十日目にやっと伯爵邸へと辿り着いた。
相変わらず美しい館が、私を出迎えてくれた。しかし、いつもいた門番はおらず固く錠前が門を閉じていた。その鍵を開けて、中に入っていく。至る所に、さまざまな菫が咲いていた。自己嫌悪が湧いてくるのに、どうしたってその可憐な花が愛おしい。
誰もいないはずの館の扉に立ち、また鍵を開けようとするが、その前にキィと静かに扉が開き、なぜか顔馴染みの執事長と侍女長が無言で深く頭を下げながら、俺を出迎えてくれた。
封鎖されて誰もいないと聞かされていたので、目の前で何が起きたのか分からずに、呆然としたまま突っ立ってしまった。
さらに、コツリコツリと聞き慣れた可愛い足音が、正面の階段から静かに降りてきた。
彼女の短い紫がかったプラチナブロンドには、白菫色のリボンで作った髪飾りがあった。おもむろに、その袖口からヴェルガモットのポプリを取り出して弄ぶ指先。
私は、手に持っていた荷物や報告書を放り出した。
「私の嘘に、もう少しお付き合いいただける?」
ヴェルガモットの香りを身に纏った彼女の体を、力一杯抱きしめた。
終
君の嘘なら喜んで くくり @sinkover88
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