ヴォンホード伯爵令嬢ヴィクトリア

 この王国は、春の国と呼ばれるほど気候が一年を通して穏やかな土地で有名だ。古今東西、様々な領地で常に花々が咲き誇っていた。そのため観光業が盛んで、王家から貴族に領地内の造園とその管理を徹底させていた。私は、その国の中でも歴史が古いヴォンホード伯爵家の長女として生まれた。


『薄い紫がかったプラチナブロンドは、白菫より美しいわ』


『そればっかり褒めないでよ!ママ』


『だって、本当のことだもの』


『分かってる!ママと私は、嘘をつかない約束だものね』


 幼い私の頭を撫でながら、母はいつもそう優しく微笑んでいた。

 豊かなブルネットが美しかった母は、瞳の中に美しい菫の花が咲いていて、白菫の髪の毛よりも母のそれが欲しかったといつも強請っては困らせていた。

 マダム・ヴァイオレットと皆に親しみを込めて呼ばれていた母は、ヴォンホード伯爵家の一人娘であった。この国では長子が後を取るため、たくさんの釣り書が送られてきたのだという。入婿選びが難航する中、王家から推薦があった。それが、王家御用達のブティックを運営していたクリケット子爵家の次男である父だった。王家の推薦とあっては断るわけにもいかず、ろくに身辺調査もしないまま入婿として受け入れたのだという。


 父アルフレッドは、商家の出らしく商売に関するセンスがあり、元々ヴォンホード領の名産であった菫の砂糖漬けを王家御用達にまで押し上げた手腕に伯爵家は舌を巻いた。金髪碧眼で見目も華やかで長身な彼は、母に連れられて行く社交界でも目立つ存在となっていった。私が生まれるまでは、とても優しい人だったのだという。

 結婚して一年が経ち、私が生まれた年にお祖父様とお祖母様が流行り病で亡くなると、あからさまに当主である母を立てることをしなくなり、蔑ろにし始めたのだという。

 お母様は、お祖父様たちの喪が明けぬうちからの、父の身勝手で派手な振る舞いに心を痛めていた。そんな時、お祖父様たちの遺言書と伯爵家の家財の目録書の中に、母宛の手紙が一通混ざっていたのを顧問税理士が持って来たことで、母は初めてこの婚姻の裏事情を知ることになった。


 アルフレッド・クリケットは、王家の次女であるフランソワ王女と恋仲であった。極一部では、公然の秘密であったのだという。

 二人はブティックを通して知り合い、王家も男癖の悪い次女の火遊びには無頓着であったため、しばらくの間放置されていたらしい。しかし、このフランソワ王女は見目だけは良かったため、隣国の老齢な王に側室へと見そめられてしまったのだ。もちろん、素行の悪さを知った上で求めて来たのだという。隣国は、うちとは比べ物にならないくらいの大国で、同盟国としても友好であったため、王家は断れない。なんなら、国内では評判が悪くてどこからも降嫁を断られていた娘を片付けられると、喜んで差し出したのだという。さて、ここで余ったのがアルフレッドだ。たかが子爵家、けれど彼らはやり手の商人だった。フランソワ王女から聞き出した商売に繋がる情報源が無くなったことを悔しがった当主は、フランソワ王女と王家の身勝手さに息子が弄ばれたと訴えたのだ。どちらにせよ悪評のついたアルフレッドに良い婿入り先など望めないので、フランソワ王女とのアレコレを黙っているかわりに縁談を用意しろと責めたのだという。

 一介の子爵家がこんな態度に出れるのには理由があった。クリケット商会の規模が国内最大規模であったのと、そこの長男と婚姻していたのが現王の姪だった。つまり、王弟(公爵家)の後ろ盾がある彼らの行動に彼らが否やを唱えないを見るに、王家も分が悪いと考えたのだろう。そうして、整えられたのがヴォンホード家との縁談であったという。

 クリケット家としては販路が拡大できれば、誰でも良かったのだろう。そして、父アルフレッドもフランソワ王女以外なら誰でも良かったのだと言っていた。

 母は、どうだったのだろう?祖父母と同じ流行病で亡くなる前、今から死ぬなんて思えないくらい穏やかな顔で色々なことを話してくれた母に、ポツリとそれを聞いてみた。


『父様を、愛してらっしゃいましたか?』


『愛せると思っていたわ、本当よ。あなたが生まれるまでは、そう信じていたの』


『そうですか…、私を生んで後悔していますか?』


『バカな子…世界で一番愛したのは、あの人ではなくてあなたなのよ?』


 私は、その言葉に泣きじゃくっていた。その時は、いつも鼻に付く屋敷に漂う菫の香りが一切せず、年々冷たく感じるようになった菫色の絨毯の色が柔らかく見えた。母は、私が泣き止むまで優しく私の手を握ってくれていて、私が泣き止む頃に静かに息を引き取った。隣国へ買い付けにいったままの父は、最期まで屋敷に帰ってこなかった。

 葬儀をするのに父の帰宅を待ってはいられず、新たな当主となった私が喪主として立つことになった。まだ十二歳だった。

 マダム・ヴァイオレットの葬儀には、たくさんの参列者たちがやってきた。お悔やみとともに“アルフレッド様はどうされたのか”と様々な人に聞かれ、悲しみと失意の底にいた。しかし、領地経営は私の悲しみが癒えるのを待ってはくれない。葬儀が終わり、埋葬を済ませた後すぐに仕事に取り掛かることになった。

 母に叩き込まれた当主の仕事を、最古参の執事や侍女長に助けてもらいながら熟していく。忙殺されていると、悲しみが少し薄れた。


 そうして、母の喪が明ける頃に、ようやく父が隣国から帰ってきた。数年前に崩御された隣国の王の側室であったフランソワ王女と私より一つ年上のその娘と一緒に。

 父は嬉しそうに彼らを私に紹介すると、私が成人するまではヴォンホード家の裁量は親権者である自分にあると主張し、その日のうちにフランソワ王女と籍を入れ、その娘と養子縁組を済ませた。隣国の王が亡くなった時、複数いた側室たちのほとんどが下賜された。金さえ積めば、それこそ平民にも下賜されたという。父は、数年かけて隣国へフランソワ王女と自分の娘を買い付けにいっていた。クリケット家と王家が揉み消そうとした醜聞を、わざわざ連れて帰って来たのだ。


『さて、ビビ。また二人で、商売を始めるぞ』


 父は、幼い頃から私を仕事に連れて回った。夫婦の仲は冷めていたが、子を連れまわし可愛がる姿に世間は娘は愛されているのだと噂していた。隣国への商談に連れて行かなかったのは、私が病床の母から離れるのを嫌がったからだ。どうしようもない父親だったが、この私の願いを聞き入れてくれたことは意外だった。いつもなら足を鞭で打ってでも、無理やり連れて行かされていたからだ。全ては、この日のための下準備をするためだったのだと知ることとなった。

 なぜなら、この後妻との復縁は、瞬く間に美談になったのだ。


 母は、二人を引き裂いた悪女にされ、私は連れ子を苛める我儘放題の娘にされた。父に見捨てられるのが怖くて、邪魔になるのが分かっていても無理やり仕事についてくる弁えない娘。父の商談の席で、汚く紅茶を啜って、持ち込んだ菫の砂糖漬けをポリポリと齧り、商談を中断させるマナーのなっていない未熟な幼い当主。それに引き換え、連れ子は隣国のマナー教育を終えた完璧な淑女として、茶会の席に引っ切り無しに呼ばれるようになった。

 “嘘をつかないで”

 幼い日に母と約束した。その菫の花の優しい瞳を思い出して、嘘に塗れていく自分をどうしようもなく見ているしかできない。せめて、せめて私の口からだけは嘘をつくまいと思ったが、父や継母、その連れ子に強要されて悪童を演じるはめになった。抗えば、激しい折檻が待っていた。


「私の悪評が一通り浸透した十五の頃、父に婚約者を紹介されましたの。菫の花がちょうど見頃の時期で、私の成人を祝うパーティーが開かれておりました。まぁ、そのほとんどの招待客は私以外の家族と楽しそうに歓談されておりましたわ。婚約者であるロイ様も、先に私以外の家族と挨拶を済ませてから…一番最後に、私に挨拶をしに来ましたの」


 父から、公爵家の嫡男だった彼に、伯爵家現当主であるはずの私が嫁に出されるのだと言われた。そして、生まれた子は、義理の姉であるロゼットの養子として引き取られ、いずれヴォンホード家を継ぐのだと。そんな無茶苦茶な道理が通じるわけがない。通じないはずなのに、王家がそれを承認したのだという。王家は、孫であり隣国の血が入ったロゼットをどうしても自国へ引き込みたかったようだった。彼女を王家へと迎え入れる算段もつけているのだと、父が商談の席でとっておきの秘密として相手に漏らしているのも聞いた(その頃には、父の駆け引きは、詐欺に近いものになっていた)。菫の砂糖漬けを周辺各国へ輸出し、菫で染めた希少な布地の販路も好調だった。このまま品質を維持し続ければ、何も問題無く領地運営は平穏に続くだろう。父はそれに満足せず、ヴォンホード家をさらに大きくさせようとしていた。


 色々な思惑あっての婚約に、私が唖然としていると、ロイ様がなんて事ない優雅な笑顔と所作で挨拶をしてくれた。綺麗な紅色の髪は耳にかからないくらいの短さで今流行りの髪型で整えられており、アンバーの瞳が美しかった。


『初めまして、ヴィクトリア嬢。私は、ヴェルガモット公爵家のロイと申します。婚約者として、どうぞロイとお呼びください。これからよろしくお願いいたします』


『…私のことは、好きにお呼びください。私から何かを求めることはありませんわ』


『では、ヴィーと』


『かまいませんわ。私、気分が悪くなったので失礼します。どうぞ、パーティーを楽しんで』


 この日の私の態度に誰もが眉を顰めた、彼が先に無礼を働いたことには目を瞑って。

 相変わらず菫の匂いで満ちている屋敷を歩きながら、父の指示通りにした非礼を心で詫びた。私の醜聞について、事情を知っているごく限られた者たちには口止めしてあった。未だヴォンホード家の実権を握っている父が、紹介状も無しに彼らを放り出したりしてはたまったものではない。

 主役のいなくなったパーティーは、より一層賑やかさが増していた。成人し正式に当主になったはずの私には、メイド一人ついて来ない。婚約者の彼も、追ってくることはない。

 少しだけ期待していたが、どうやら彼も父たちの側に立っているようだった。この時から、私は全てを諦めて、何もかもを受け入れるようなった。


「婚約者のロイ様は、それからまめに私にかまってくるようになりました。いつぞやのフランソワ王女みたいに厄介払いされる形の婚約に、おそらく彼女の意趣返しがあったのだろうと思います。そうしてしばらくして、窓から庭を見下ろせば、ロゼットとロイ様が仲睦まじく過ごしてらっしゃるのを見ることが増えていきました。彼の私を見る目がどんどん冷たくなっているのにも、気づいておりました」


 彼に関わる時にだけ、菫の砂糖漬けを齧る個数が増えた。一際薫る菫の匂いに、この気持ちを誤魔化したかった。年々過ごせば縮まるはずの距離は、離れたままだ。心のこもった手紙にも、会うたびに贈られる花束も、誕生日に贈られるプレゼントも、全て菫の匂いで塗り潰される。


『父様を、愛してらっしゃいましたか?』


 どうしてか、母様との最後の会話を思い出すことが多くなった。誰もその答えを教えてくれることはない。

 その父はというと、王家と公爵家の後ろ盾を得たと勘違いし、もうその暴走を誰も止められなくなっていた。とうとう父は、違法な薬物を取引し始めたのだ。ばれれば縛首だ、さすがに私だって止めた。しかし、ここ最近は無かった激しい折檻を受けただけに終わった。それを見て、継母とロゼットは笑っていた。

 私の愛した菫色の伯爵家は、もうどこにも無いのだと思い知った。


「折檻を受けて数日後、ロイ様との茶会がありましたの。その日は庭の東屋で二人で過ごしておりましたが、風が少し強くて、ドレスの袖のレースが捲れてしまって隠していた折檻の跡が見えてしまったの。恥ずかしかったわ…」


 それを見たロイ様は、どうしたのかと聞いてきた。嘘を吐こうにも何も思い浮かばずに、どうしてだか…本当のことを話してしまった。父からの折檻だ、と。


『ヴィー、アルフレッド様の気がひきたいからと言って、そんな嘘はいけないと思うよ。それにロゼからも色々聞いているが、最近の君の行動は度を越えているよ。うちに嫁ぐのなら、もう少し淑女らしい振る舞いを覚えてもらわないと庇いきれなくなる』


『……申しわけございませんでした』


 本当にショックなことが起きると、人は謝るのかと他人事のように思ったのを覚えている。

 この日から、私は嘘をつくことにした。

 ロイ様からもらう手紙には、心のこもった言葉で返信を綴った。匂いが苦手な花であっても貰えば喜び、プレゼントを貰えば涙ぐんで見せたりもした。そんな私の様子に、あの一件で心を入れ替え、自分を信用してもらえたとロイ様は思ったのだろう。ある時から他人行儀に一線引いていた態度をやめて、伯爵家に関わることや父の商談の仕方など多岐に渡って聞いてくるようになった。まるで、私がなんでも話してくれるのを待っていたみたいで、不思議だった。“この人は、私が本当のことを話そうが嘘を話そうが、どうだっていいんだわ”そんなことを思って、泣きたくなった。


「そんな時にね、彼が白菫色の菫の刺繍が美しいリボンをくれたの。誕生日以外に贈り物をくれるなんて珍しかったから、どうしたのか思わず聞いてしまったわ。今思えば…私、本当に嬉しかったのかもしれないわね。打算以外で、彼がプレゼントをくれたのはソレが初めてだったから。“君に似合うと思ったから”なんて、初めて見る照れた顔で渡してくるんだもん……嫌になっちゃうわ」


 その日から、そのリボンは特別になった。母様の菫の花の瞳と同じくらい、好きになった。

 だから、取り上げられないように、気に入っていることが分からないように、婚約者であるロイ様と会う日にだけ髪に結うことにした。婚約者の間では、よくある社交辞令だった。


「なぜかしらね…そのリボンを着けるようになってから、彼、お花もね、私の好きな花だけを渡してくることが多くなって、私の機嫌をとるためにベタ褒めするのをやめたわ。そこはやめなくても良かったのに、本当に気が利かない人」


 婚約してから三年目、私たちはちょっとだけ距離を縮めた。

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