ヴェルガモットの香りが消えていく

 ヴェルガモット公爵家は資源の豊富な領地を預かっており、王国内のインフラを数多く担っていた。五年前に完成したフランソワ王女が嫁いだ隣国へと繋がる大きな橋も、建設に成功したのは現ヴェルガモット公爵の手腕によるところが大きい。最近では、医療の発展にも力を入れ始めており、眼鏡やコンタクトレンズの品質向上に努めている。

 そんな優秀な弟に比べ凡庸な兄が王位に就いてしまったことを、一部の老獪はいまだに愚痴る。現王の才覚の無さは皆が知るところで、唯一誇れることがあるとするのならば四人いる子の内の一人がとても優秀で、その彼を王太子に指名したことくらいだろう。

 少し距離が縮まってから、ロイ様の口からよくその王太子殿下の話が出るようになった。幼馴染で、今でも仲が良いのだという。ある昼下がりの茶会で、王太子殿下が婚約された相手のご令嬢の領地がポプリの産地とあって、彼女に教えてもらいながらポプリ作りを三人で楽しんだのだと語ってくれた。うちの領地はどちらかというと香水に力を入れているが、ポプリも土産物にいいかもしれないと参考程度に頭に入れていた。


『その時のポプリなんだけど、もらってくれないか?』


『え?私に?そんな恐れ多いですわ、殿下たちと揃いで作ったのではなくて?』


『それとは別に、君のために作ったんだ。ちょっと不格好だけど、うちの名花のヴェルガモットを使っているから…香りはとても良いと思う』


『…嬉しいわ、ありがとう』


 私の手のひらに収まるくらいの小さなポプリだった。

 その袋にはヴェルガモット公爵家の家紋とヴェルガモットの刺繍がしてあり、彼のアンバーの瞳によく似た黄色いリボンが少し歪に蝶々結びされていた。


『まさかあなた、刺繍までなさったの?』


『それは姉に頼んだ。そこまで頑張れなかった…』


『冗談よ、ロイ様はとても不器用だものね。こないだの霞草の花束だって、リボンが歪に曲がっていたわよ』


『君は…少し意地悪だな…』


 ポプリを顔の近くへ持ち上げると、彼がいつも身に纏っているヴェルガモットの良い香りがした。屋敷の庭の一角で過ごしていたが、そこに菫の香りは混じらなかった。この爽やかな香りが、いつまでも続けばいいと思った。クスクスと笑えば、彼は困ったように笑っていた。

 逮捕された日、ドレスの袖口にそれをしまっていた。囚人服に着替える時に没取されてしまったけれど、あの香りだけは覚えていた。


「その日の夜、父が王家から帰ってきて珍しく晩餐に呼ばれたの。『やはり、現当主であるお前を嫁に出すことに王妃様が難色を示されてな。ヴェルガモット家には、ロゼットに嫁いでもらうことになった』そう満足そうに笑って、私以外の三人は幸せそうに微笑んでいたわ。…十八になったら嫁ぐ約束になっていたから、ちょうど一年後の式のためにウェディングドレスのデザインが出来上がっていた頃だったわね。それを聞いても、私、何も感じなかったわ」


 暗闇の中、ヨーゼフの酒臭い体臭が漂っていた。コツリコツリといつもとは違って、彼が恐る恐る近づいてきているのが分かった。陽気な彼が、小さく背中を丸めて歩いてきているようで笑ってしまった。そっと柵の前で彼が腰を下ろしたのをうっすらと確認して、私も彼の前にそっと柵を挟んで向かい合って座った。

 ロゼットは、その晩餐の後に珍しく自分から私に近づいてきて、ドレスの裾から大事そうにある物を取りだして見せてくれた。『彼が、婚約者の印にってポプリをくれたの。殿下たちと一緒に作ったんですってよ!ヴェルガモットの良い匂い、あら…やだ!どうしてあなたからも同じ香りがするのよ!今日茶会をしたからって、彼の匂いをいつまでもドレスにつけていないでよ!!』いつものように私の前だけでは猫被りをやめて、キンキンとした声で隣国訛りの公用語を話した。


「“今すぐそのドレスを脱ぎなさい!!”って怒られたの。そのまま廊下で下着だけにされて、裸足で部屋まで帰ったわ。ロゼットが見せてきたポプリのリボンは…とても綺麗に結ばれていたわ。馬鹿よねぇ、私、それでもポプリを捨てられなかったわ。“殿下が一緒に作ったのよ?不敬になっちゃうわ”って、たくさん自分に言い聞かせて…ヴェルガモットが香らないように、鏡台の使っていない引き出しの奥にしまい込んだの」


 その次の日から、婚約者の名前がヴィクトリアからロゼットに代わり、彼とは全く会わなくなった。

 彼との茶会がなくなっただけで、私の日常は変わらない。父様の商談にあいも変わらずついていき、隣で紅茶を音を立てて啜るか菫の砂糖漬けを齧るだけ。幼い頃から支えてくれている執事長と侍女長以外の使用人たちは、毎年数人辞めては入ってくる。二人の結婚式の準備のために、臨時で使用人を増やしたのだろうが、粗相が目立って仕方がない。

 母の、私の愛した館が…どんどん汚れて、もう見る影もなかった。


「婚約した頃から、私を褒めるその口で、ロゼットに愛を囁いていたのを何度も見たわ。私に渡す花束よりも、上等な薔薇を一輪だけ毎回贈っていたことも…。どうするのが、正解だったのかしらね…今でも分からないわ」


 その頃、違法な薬物に手を出した父は、それを自分でも使い始めていた。継母のフランソワもそれに倣い、こともあろうにその父母に“気分の良くなる薬”だと言って手渡していた。この時、私が誰かに相談していればまだマシだったのかもしれない。でも、それをしなかった。この汚れてしまった伯爵家を消してしまおうと、決意していたから。唯一それを打ち明けたのは執事長と侍女長の二人だけ。この二人だけは信用できた。彼らだけは、決して私に嘘を吐かなかったから。

 まず手始めに、屋敷に入り込んだネズミを放置した。月に一度父に言われて怪しいメイド等を報告しては首にしていたが、それを一切やめた。疑われないように、執事長たちに相談した上で真っ当な者たちを数人ずつ逃していった。

 その次に、父の大きな商談で紅茶を啜るのと菫の砂糖漬けを齧るタイミングを逆にした。怪しげな先物取引二件だけで、我が伯爵家の家計は火の車になった。私は“父様、だから薬はおやめになって?”と打たれながら、健気に涙を流して見せた。

 最後に、ロイ様へ手紙を書いた。“最後に、どうしても二人きりで話がしたい”と熱烈な言葉で書き綴り、買収したメイドの一人に託けた。指定した日は、父様たちがいつも仕入れた薬物を味見する日だった。

 そこまで話して、ふと一切の相槌を打たない目の前の人物に視線を向けた。どうして何も反応してくれないのかしら、と考えてはたと思い至った。そして、可笑しくて笑ってしまった。


「ヨーゼフさん…黙っていても無駄なのよ。そうじゃないのよ、ヨーゼフさん?」


 王家とヴォンホード伯爵家だけの秘密があった。全ては、その秘密が書かれた公文書をフランソワ王女が盗み見たことが、始まりの合図だったのだと今なら分かる。

 ずる賢い彼女は、自分以外の王位継承者には知らせまいと、それを早々に燃やしてしまった。だから、いくら優秀な王太子殿下であっても、真実には辿り着けなかったのだろう。

 


「母は私に言ったわ。『嘘をつかないで』って、それは厳しく言い聞かせたの。それでも幼いうちは小さな嘘をついては、怒られた。“瞳の中に菫が咲いているわ、悪い子ね”って怒られたの。ここまではあなた達の読みは当たっているわ、だから、ここはこんなにも薄暗いのでしょう?」


 マダム・ヴァイオレットは、他人の嘘を見抜く天才だった。だから、皆から愛された。彼女の花占いは良く当たり、夜会で相談をすれば瞬く間に問題が解決した。そんな母は、死の床ではっきりと教えてくれた。

 嘘を吐くと、他人は菫の花を咲かすのだ、と。


『父様を、愛してらっしゃいましたか?』


 母は、何度父の瞳の中に菫の花を見たのだろう。いつから、なんて考えるだけで痛ましかった。私にも、その気持ちは分かるのだから。


「庶民にも流通し始めたと言っても、コンタクトレンズはまだ高価だわ。婚約者に会うたびに使っていては、下手な貴族は破産するもの。だから、婚約者はヴェルガモット公爵家だった。この無茶苦茶な婚約を後押ししたのも、他でもない公爵家だったとうちでも調べはついていたのよ。しかし、“マダム・ヴァイオレットに唯一嘘を吐けたのは、ヴェルガモット公爵のみ”ってそれだけの些細な噂から、良くここまで辿り着いたものね。母も“あの人、ど近眼で金持ちだから、いつもコンタクトレンズしてて困ったわ”って死ぬ前に溢していたわ。でも…私は、母とは違う」


 だから、明かりを頂戴。

 そう優しく頼んでみたが、ヨーゼフさんは動かなかった。残念ね…、いくらお酒でヴェルガモットを掻き消しても、声を潰しても、歩き方を変えて見せても、意味なんてなかったのよ。



 屋敷に漂う菫の香りが私にしか分からなかった理由を、母が教えてくれた。常に嘘をついている者がいるのだと、けれどそれを軽蔑しないで許しなさいと諭された。小さな嘘から大きな嘘まで、私たちは死ぬまで付き合っていかなければならない、そして、ヴォンホード伯爵家は他人に死ぬまで嘘をつき続けるのだと言った。

 “次代の子を生せば、この力は無くなる”というたった一つの嘘を、私たちは守り抜かなければならないのだとそう続けた。


『この力と秘密が外に漏れるようなことがあれば、伯爵家は破滅よ』


 そう母は、悲しそうに微笑んでいた。幼い私には、その時母が何を悲しんでいたのかが分からなかった。けれど、死ぬ間際のあの会話で理解してしまったのだ。そのたった一つの嘘で、母は父の瞳の中の菫を愛してしまっていたのだと気づいてしまったのだ。

 父の偽りの優しさが、永遠に続くと信じていたのだろう。

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