製造課のアレサンドラ
亜咲加奈
あたしをまるごと、キャッチして!
「アレサンドラって、外国人なの」
交換した無料通話アプリの画面を見て、健さんが言った。そう、あたしのアカウント名は「Alessandra」。
「いえ、日本人ですよ。ほら」
あたしは財布から取り出した免許証を見せる。
「ほんとだ。照屋織絵って書いてある」
「アレサンドラって、祖父があたしにつけてくれたブラジルの名前なんですよ。兄がいるんですけど、兄も祖父からもらった名前、持ってます。祖父が、おまえたちにはブラジルの血が流れているのだからって、つけてくれたんです」
「おじいちゃんがブラジル人てこと?」
「ブラジルルーツのアメリカ人なんです。海兵隊員だったんですよ。沖縄の基地にいて、ベトナム戦争に反対して、海兵隊をやめたんです。で、日本人と結婚して、生まれたのがあたしの母。でもあたしの両親は日本人だから、あたしと兄も日本人です。だけどあたしはアレサンドラって名前、好きなんです。だからアカウント名、アレサンドラにしてるんですよ」
今は四月、ここはカラオケ、あたしたちは会社の同期。あたしみたいに高校を卒業した子たちだけじゃなく、大学や、大学院を卒業した人たちもみんな一緒に歌ってる。今日は新入社員研修が全部終わった日。明日からあたしたちは配属先に行く。みんな、バラバラになる。その前に遊ぼうってなったんだ。
みんなは歌うことに夢中。あたしの太ももと健さんの太ももがぴったりくっついた。その瞬間、あたしたちは顔を見合わせる。
「健さんって、あたしの四つ上でしたっけ」
「そう」
兄ちゃんと同学年ではないか。男の人なのにとてもかわいくて、なのに、イケメンだ。あたしの目の形はアーモンド、身長は百五十八センチ、髪は肩まで伸びてて、いつも一つしばりにしてる。
健さんがあたしの耳元でささやいた。
「なあアレサンドラ、俺らだけで、ラブホ行かね?」
あたしはすぐにわかった。健さんはあたしの仲間だ。誰かを好きになることは、その誰かとセックスするってこと。男の子、女の子、どちらともあたしはセックスできる。セックスはコミュニケーションのひとつ。気持ちよくて、あったかくて、でも、一回だけすればいいもの。だからあたしも健さんの太ももに手のひらを置いて、健さんの耳に唇を近づける。
「行きましょ」
健さんがそばにいた幹事の子に話しかけた。その子がうなずく。あたしたちは二人でカラオケ店を出て、駐車場に停めてある健さんのSUVまで歩く。
「アレサンドラ、車は?」
「兄ちゃんが送ってきてくれたんで、ないっす。あ、あと、呼び方、オリでもいいですよ。みんな、そう呼んでるんで」
健さんが笑った。完璧なセクシースマイル。
「オリ、乗って」
あたしが助手席に座ったとたんに、健さんが肩を抱いてきた。もちろんあたしも密着する。ディープキス。健さんの舌づかいは超気持ちいい。
「どこでもオッケー?」
あたしは秒で答えた。
「車の中でもいいすよ」
健さんが苦笑いする。
「さすがに、ゴム、ねえわ。ラブホ行こうぜ」
カラオケ店から一番近いラブホであたしたちはセックスした。健さんのそれはあたしのそこにぴったりで、こんなに気持ちよくなったのは生まれて初めてだった。そして、あたしのそこは、なかなか健さんのそれを離さなかった。健さんと、また、セックスしたい。そう感じて、あたしは泣きそうになる。
終わったあと、健さんはあっさりとあたしに背中を向けた。いつもならあたしもそうする。でも、そのときは違った。バックハグしたくなったのだ。それなのに、あたしは、しなかった。勇気が出なかったのだ。
あたしと健さんはこれっきり。あたしは、あきらめた。それなのに、また、あたしは健さんに、連絡することになってしまったのである。
午後六時四十五分、最低気温二度、風速三メートル。
ここは、あたしが住んでる県で一番有名な山の、夜景スポット。
会社の作業着――ユニホームの上からパーカーを着てるだけなので、寒い。あたしのC七十五のバストは今、恵の背中でつぶれてる。二人で夜景を見ながら、あたしは恵をバックハグしている。恵の仕事は病院の受付で、ダッフルコートの下はその病院の制服だ。
「今月は、クリスマスだねえ!」
「だあねー」
超投げやりにあたしは言った。今のあたしにとって、このコといるメリットは、あったかいというだけだ。マッチングアプリで知り合い、つきあってからまだ一か月しか経ってない。つきあった日数は、あたしの中では最長記録だ。けど、もう、からみたいとは思わなくなったし、今しているバックハグだって、してって言われたからしてるだけだ。だから、さよならしたいんだけど、言いだしづらい。
「オリぃ」
「なにー」
「オリさぁ、クリスマスプレゼント、何が欲しい?」
「んー、……べつに、いっかなぁ」
「なにそれー」
本音を言うと、恵と別れられればそれでいい。そんなあたしの心の声なんて聞こえない恵は、相変わらず勝手に話を変える。
「オリ、最近、ノリ、悪くない?」
「そんなことないよ。メグの考えすぎ」
メグミだから「メグ」と呼んでる。あたしは腕を下ろした。恵がマジな顔であたしに向き直る。
「まさか、あたしのほかに、好きな人、できた?」
そうだったら、すんなり別れ話にもってけるんだけどな。
「帰ろっか」
「答えてよ」
めんどくさい。顔に出ちゃったかも。でも、まあ、いいや。
「できたよ」
嘘だけどね。嘘なんだけど、恵の顔色が変わった。
「マジで?」
「マジ」
「ちょっと――え? そんな。聞いてない。聞いてないよ」
「だからさ、ごめん。別れようよ」
よかった。言えた。すっきり。でも、恵は怒ってる。
「誰なの」
「会社の人」
「女?」
「男」
「オリ……」
「ごめん」
「やだ」
恵が涙と鼻水を垂れ流す。ちょっと、そんなにマジだったの?
「別れたくないよ」
ああ、困った。
「だって、しょうがないじゃん」
「どんな男なの。会わせて」
「会って、どうするつもり?」
「いい男だったら、しょうがない、あきらめてあげる」
あたしが好きになった男のふりをしてくれる人、見つけなくちゃ。誰にしよう。誰がいいかなあ。考えているうちに、もう、あの人しかいない、と、あたしの脳みそは答えをはじき出す。
「じゃあさ、今度、会わせる」
「今度って、いつ?」
「今度の金曜日」
今日は火曜日だ。あと三日間しかない。それまでに、うんと言ってもらわなきゃ。
会うのは、この、夜景スポットになった。
次の日の昼休み、社食で天ぷらうどんを食べ終えたあたしは食器を片づけると、廊下に出て壁に寄った。無料通話アプリを立ち上げて通話ボタンを押す。四コール目で、出てくれた。
「もしもし」
「お久しぶりでーす。今、いいっすかぁ?」
「ちょっと待って。外、出るから」
待っていると、スマホの向こうから、呼びかけてくれた。
「お待たせ」
「すいません、健さん」
健さん。フルネームは、沢渡健。総務課に勤めてる。
健さんの声が小さくなる。
「なんだよ。何か、あったのか」
「えーとぉ、実はぁ、ちょっと、困ったことになっちゃって……」
「長くなりそう?」
「ええ、まあ……」
会社ではさすがに話せない。別れ話でこじれちゃいました、なんて。
「じゃあさ、メシ、一緒に食いながら、聞こうか?」
変だ。今の健さんは、あたしが知ってる健さんではないみたい。
「健さん? なんか、いつもと違いません? 大丈夫?」
「大丈夫だよ。ところでオリ、今日、定時で上がれる?」
「上がれると思います。ライン、順調に流れてるんで」
あたしがいるのは製造課だ。ラインで流れてくる部品に、インパクトというドリルがついたピストルみたいな工具で、ひたすらネジを締めまくる。それがあたしの仕事なのだ。
「俺、迎えに行くよ。工場の入り口まで」
「マジっすかぁ!」
「声がでけえよ」
「ええー、だってぇ、迎えに来てくれるんでしょ?」
「ライン、午後、どうなるかわかんねえだろ。だから待ってるよ」
「あざーっす!」
「じゃあ、またな」
「じゃっ!」
あたしは通話を切り、工場へ向かって歩き出した。そして、やっぱり変だ、と思う。あたしが知ってる健さんなら、待ち合わせ場所だけ決めて「さよなら」と言うはずだ。健さん、優しくなった。なんでだろ。
あたしは帽子をかぶり、持ち場につき、インパクトを手に持った。
定時より十五分すぎにラインが止まった。残業になる時もあるのに、今日は奇跡だ。急いでダウンジャケットをはおる。入り口から出ると、健さんが待っていた。
「すみませーん! 遅くなっちゃって」
「いいよ。そういうもんだろ」
久しぶりに会う健さんは、やっぱり前と違ってる。イケメンなのは変わりないけど、目つきが優しくなってる。
「おまえ、実家暮らしだろ。メシ、外で食うって、言わなくていいの」
「あっ、まだ言ってないっす。メッセージ送ってもいいっすか」
「どうぞ」
ママと兄ちゃんとあたしは、三人で同じメッセージを読むことができるように、無料通話アプリのグループを作っている。パパはいない。あたしが四つ、兄ちゃんが八つの時に、ママが離婚したから。あたしはメッセージを打ち込み、送信する。
――おつかれさま。ごめん、今日、先輩と、ごはん食べてから帰る。
ママは今、コンビニでパートとして勤めている。あたしが今の会社に内定をもらうまではずっと、自動車の部品を作る工場で働いていた。兄ちゃんは、ママが勤めていたのとは違う工場で働いてる。ちなみに、あたしが作っているのも、ママが作っていたのとは違うけど、自動車の部品だ。
「大丈夫?」
「だいじょぶです」
肩を並べて、あたしたちは駐車場へ向かう。建物の外へ出ると、あたしは聞いた。
「健さん、何かあったんすか」
「……まあ、あった、かな」
「やっぱり。なんか、優しくなったっす」
「おまえは変わらないね」
健さんの横顔をチラ見する。なんだか、悲しそうだ。
「あたし、なんか、言っちゃいけないこと、言いましたか」
「いや」
言って健さんが、真っ暗な空を見上げる。
「俺は、つきあったよ。素敵な人と」
やば。地雷踏んじゃった。
「ごめんなさい」
健さんはあたしに笑ってくれた。やっぱり違う。あたしの知ってる健さんじゃない。どんな人なんだろ。男かな。女かな。どっちでもいいけど。
「いいよ。それより、何食う」
「なんでも」
「なんか言えよ。あるだろ」
「じゃあ、昼、うどんだったから、ごはんものがいいっす」
「オッケー。どんくらい食える?」
「めちゃめちゃ食えます」
「じゃあ肉にするか。おまえんちの近所でいい?」
「はい! それならこことかどうすか」
あたしは地図アプリで、あたしの自宅から近い肉料理専門のファミレスを表示した。そこで合流することにして、お互い車を走らせる。
ファミレスは空いていた。テーブル席に向かい合って座り、タブレットから注文して、ドリンクバーに飲み物を取りに行く。
「それ、アイスコーヒー?」
「そうです。健さんのは、ミルクティーっすか」
「そう。好きなんだ」
「あたしはコーヒーが大好きなんです」
「確か、ラブホでも飲んでたよな。ブラックで」
「はい。けど、健さん、飲んでなかったですよね」
「最近、飲めるようになった。前までは砂糖とミルク入れないとだめだったけど」
「それ、素敵な人の影響?」
「うん」
健さんがちょっとだけ沈んだ顔になる。そんな顔、したことなかったのに。
「で、話って、何」
このファミレスでは、注文すればサラダバーも使えるし、パンとかカレーライスとかも食べられる。よそってきたカレーライスにスプーンを差し入れる前に、あたしは切り出した。
「別れてくれないんですよ、相手が」
「いつからつきあってんの」
「先月から」
「会社の子?」
「じゃ、ないっす」
「別れようと思った原因は?」
「なんか、ずーっと、べったりしてて。あたしもその子も夜景好きでよく見に行くんですけど、そのたんびに、バックハグしろ、って、うるさくて」
「ちょっと待って。その子、まさか」
あたしは肩をすくめた。
「女の子です」
健さんがおでこに手のひらを当てて下を向く。持ってきたブロッコリーとポテトサラダには、箸をつけていない。
「女の子かぁ。厄介だな。説得が通じねえ」
「ですよねー」
「野郎なら、理詰めで言いくるめられるんだけどなあ」
「しかも、新しい男、見せろとか言うんですよ。いい男なら、別れてあげるって」
「おまえはそれでほんとうにいいわけ。別れるので」
「いいです」
「俺に、おまえの、新しい男のふりをしろ、ってわけ」
「お願いします」
頭を下げたあたしに、健さんは言った。
「いいよ」
あたしは頭を上げる。苦笑いしてる健さんが見えた。
「今回だけだぞ」
「あざまーす!」
あたしはアイスコーヒーの入ったコップを、健さんのミルクティーが入ったコップに軽く当てた。
「お礼しますよ。何がいいすか?」
「いらねえよ」
「いやいや、お礼したいんです。――あ」
あたしは思い切り声を小さくした。
「また、しませんか」
健さんがあたしの目をまっすぐ見る。
「しない」
あたしは叫んでしまった。
「はああ?」
健さんが人差し指をあたしの口につける。
「声がでかい」
「なんでですか? 健さん、やっぱり違う。いったい、何があったんですか?」
「オリ、そういうことは、ほんとうに好きなヤツとしろ」
「へっ?」
好きなヤツ、イコール、セックスしたいヤツなんですけど。あたしにとっては。
「とにかく、礼はいらない。だから、しなくていい」
「そんなぁ。それじゃあ、あたし、健さんに申し訳ないです」
「べつに、礼をするほどのことでもねえだろ」
「じゃあ、ごちそうします。あっ、今日だって、あたしが持ちますよ」
「じゃあ、そうしてくれる。それだけでいいよ」
やっぱり違う。何があったんだろ。健さんは、どんな人を、好きになったんだろ。
「素敵な人、だったんすね」
つぶやいたあたしに、健さんは寂しそうな笑顔で言った。
「そうだよ。俺は変わった。俺はようやく、愛することを知ったんだ。その人のおかげで」
「アイスルコト」
あたしにとっては外国語みたいな響きだ。愛って、何だろう。愛することって、どうすること? わからないことだらけだ。
「だから、オリ、俺は今、新しいパートナーを見つけてる最中なんだ。見つけるまでは、その人は、俺のそばにいてくれる」
じゃあ、健さんが新しいパートナーを見つけたら、その人と別れることになっちゃうじゃん。それでいいの?
「あの、その子と会うのは、あさってなんです」
「今週の金曜日ってこと」
「はい」
「どこで会うとか、決まってるのか」
恵と別れ話をした夜景スポットがある山の名前を、あたしは言った。千円札を出せばおつりがくる値段なのに、けっこうな量の肉が鉄板に乗って湯気と音を立てて出てくる。それをあたしたちは無言で食べた。
あたしと健さんの前で、メグが目に涙をいっぱいためて、かたかた震えてる。山の空気は冷たい。それなのに、下に見えてる建物の明かりはそのひとつひとつが寄り集まってきらきら輝いてる。メグの目から涙がどばっと出た。
「わかった。オリ、別れよ。もう連絡しない。今までありがと。さよなら」
こういうとき、なんて言えばいいんだろう。あたしの頭は止まっている。
メグは背を向けて、何も言わずに歩き出す。メグの軽自動車が走り出し、あっという間に見えなくなった。
あたしと健さん、二人きりだ。
「オリ」
しんみりした声で健さんが言う。
「なんですか」
「おまえさ、こういうことは、もう、これで、やめろよ」
あたしは、健さんを見ることができなかった。自分が地獄にしか行先のない、ひどく罪深い人になった気がする。寒いのは、空気のせいだけじゃない気がした。こんな気持ちは、初めてだ。だから、何も考えられない。健さんがあたしの手を握る。
「おまえが、傷つかないためにだよ」
握られた手が、じわあっと、あったまる。この手をずっと握ってて。そう、言いたくなった。
「健さん、今日はありがとう。もう、帰ります」
あたしの声は震えてる。
「今日は俺が、メシ、おごるよ」
「や、いいっす」
「だっておまえ、さっきから、腹、ずっと鳴ってんじゃん」
恥ずかしい。あたしは健さんの手をぎゅうっと握った。
健さんと向かい合って、昆布ベースのあっさり系ラーメンをすすっている。
「おまえさ、兄貴、いるんだっけ」
いきなり健さんが言った。
「います」
「俺さ、おまえとラブホ行ったあと、ナツタイのパンフ引っ張り出したわ。そしたら、いた。照屋ってヤツ。俺と同学年」
ナツタイ。夏大。夏の大会。その県で甲子園に行く、ただひとつの高校を決めるための大会を、あたしたちはそう呼ぶ。
「それ、兄ちゃんっす」
「おまえの兄貴、すげえライナー打ってさ。俺、横っ飛びでキャッチして」
「そうだったんですか?」
「兄貴にも聞いてみな」
「なんで、思い出したんすか」
最後の一口を食べ終え、健さんはあたしに笑った。
「わかんね」
この店は健さんちの近所にあるのだという。
「おまえ、このあと、どうすんの」
どきっ。あわててラーメンをすすって噛んで飲み込んだ。
「どうすんのって、何がっすか」
健さんがにこっとした。その笑顔がかわいくて、さらにあたしは動揺する。
「つきあうヤツ、探すの」
「や、いや、わかんねっす」
「じゃあ、俺とつきあう?」
「はあああ?」
あたしの大声に何人かの客がガンを飛ばしてきた。気づいたけど、あたしは健さんの反応のほうが気になるので、無視する。
「そんなことしたら健さん、素敵な人と別れちゃうじゃないですか」
見つめるあたしに健さんは、泣きそうな顔で笑う。
「いいんだよ」
お会計は健さんが持ってくれた。あざます、と頭を下げるあたしに、気をつけて帰れよ、兄貴によろしくな、と言って健さんはSUVに乗り込み、あたしの前から走っていった。
「ああ、あいつだろ」
帰ってきて、健さんの話をすると、兄ちゃんはテレビの恋愛ドラマを見たままつぶやいた。ママはもう寝てる。
「同学年で、俺と同じ、スタメンでただ一人の一年だったから、よく覚えてるよ。俺のライナー、横っ飛びでキャッチして、アウトにした。すげえ拍手が起こってさ。『魅せたー!』とか叫んでる人もいてさ。ああ、俺ら、負けたわって直感したよ。そしたら、ほんとに負けた」
「そうだったんだ」
「その日、平日だったからな。おまえ、学校だったじゃん。だから見れなかったんじゃね」
兄ちゃんが、あたしと同じアーモンドの形をした目で、あたしを見る。
「そいつとおまえ、メシ、食ってきたのか」
「う、うん。なかなか別れてくれないコがいて、健さんに、あたしの男のふりをしてもらったの。で、ごはん、おごってくれた」
ふうん、と言って、兄ちゃんがテレビに顔を戻す。ちょうど告白の場面だった。
「おまえ、マジな恋愛、したことねえだろ」
どきっ。心臓が跳ねる。
「なんでわかるの」
「うちにつれてくる相手、いつも違うヤツばっかだったじゃん」
男と女、両方と恋愛してたあたしを、兄ちゃんは静かに見守ってくれていた。
テレビをあたしも見た。画面の中で、イケメン俳優と綺麗な女優が、見つめあって、キスをする。
突然あたしの頭の中で、俳優が健さんに、女優があたしに変換された。
「やっば」
思わず声に出してしまった。マジで照れる。
俳優と女優のバックには、でっかいクリスマスツリーがきらきら光ってた。俳優が女優に指輪がおさまった入れ物を差し出す。女優が嬉しそうに左手を出し、俳優がその手を取る。女優の薬指に、きらきら光るシルバーの指輪がするーっとはまってく。最高のクリスマスプレゼントをありがとう、と言って女優が涙ぐむ。
クリスマスプレゼントなんかねだったことない。だってママは午前八時から午後五時まで自動車の部品にネジを締めて、午後七時から午後十一時までコンビニでレジを打ってたから。そうして稼いだお金で兄ちゃんに野球を続けさせてくれたから。あたしを高校まで卒業させてくれたから。
「あたしもこんなふうになれるかなあ」
画面の中でキスしあう二人を見ながら、あたしはつぶやいた。健さんとこうなれたら、あたしにとってそれは、とても素敵なクリスマスプレゼントになる。
「なれたら、いいよな」
兄ちゃんも画面を見たまま、そっとあたしに言った。
昼休みの工場で、あたしは健さんにメッセージを送る。
――仕事終わり、時間ありますか。話したいことがあります。
すぐに返信が来る。
――いいよ。また工場の入り口で待ってる。
――あざます。
文面はこのあいだ一緒に食べたラーメンみたいにあっさりしてるけど、あたしの緊張はマックスだ。今年のクリスマスイブは火曜日、そして今日はその二週間前。どうしても健さんに伝えたいことがある。
午後五時二十分、あたしは健さんと、工場の出入り口で顔を合わせた。会社の敷地を出て、社員用の駐車場に向かって歩きながら、あたしは小さい声で言った。
「あの、あたし、健さんが愛してる人に、会いたいです」
健さんが足を止める。あたしも止まった。
「なんで」
その声は厳しい。でも、あたしは顔を上げて健さんを見て、声を出した。
「あたし、健さんが好きです」
健さんがあたしの腕を取って道の脇に寄る。会社の人たちがおおぜい歩いてきたからだ。
あたしは健さんに訴える。
「その人に会わせてください。あたしから話します。ごめんなさいって言います」
健さんは下を向いたままだ。怒ってるふうに見える。あたしは震えた。でも、思い切って続ける。
「健さんとつきあいたいです。でも、健さんはその人と別れることになるじゃないですか。だからその人に、あたしからお願いしたいんです。健さんと別れてくださいって。健さんを許してくださいって」
「オリ」
健さんの声は怒ってなかった。怒ってるように見えた顔は、痛そうだ。
「おまえ、本気なの」
「本気です」
「俺のパートナーになりたいの」
「なりたいです」
健さんが夜空を見上げた。その目じりから、涙が、すーっと流れ落ちる。健さんの手は、あたしの腕をつかんだままだ。
「――話さなくていい」
「へ?」
「俺が話すから、おまえは話さなくていい。明日には、返事するから。明日も工場の入り口で待ってて。迎えに行く」
健さんが初めてあたしを見た。涙のあとがくっきりと残ってた。
明日になった。
駐車場まで黙って一緒に歩く。ダウンジャケットを着ていても寒い。でも、健さんの隣にいると、寒さが気にならない。
「おまえの車、どこ」
「あとちょっとで停めてるとこに着きます。健さんのはどこっすか」
「通り過ぎた」
「だめじゃないですか」
「いいんだよ」
あたしの車は中古で買ったミニバンだ。その前で向かい合う。
あたしたちのほかに、人はいない。夜空の下、健さんの目は、優しかった。
「さよならしてきたよ」
「すみません」
「大丈夫。その人は俺たちのこと、応援するって言ってくれたよ」
申し訳なくて、あたしは泣いた。
「ごめんなさい。奪っちゃった。健さんが愛してる人からあたし、健さんを、奪っちゃった」
「奪ってなんかいない。俺が来たんだよ。その人は俺を送り出してくれたんだよ」
あたしは袖口を目に押し当てる。
「ハグしていい?」
健さんの声が降ってきた。あたしはうなずく。
「いいっす」
健さんの胸にあたしの顔がくっついた。あたしは腕を健さんの背中に回し、ぎゅっと抱きしめる。
「これからもよろしく」
「こちらこそ、よろしくです」
「敬語、なしでいいよ」
さらにあたしは健さんを抱きしめた。
「うっす」
「顔、見せて」
健さんのダウンジャケットの胸元はあたしの涙で濡れてしまっている。あたしはそこを自分の袖口でごしごしとこすり、健さんを見上げる。
「なんか、照れる」
あたしが言うと、健さんが笑った。
「キスしようぜ」
心の準備ができてないよ。嬉しいのに、体が動かないよ。
「お、おう」
「なんだそれ」
パートナーとしてするキスなんて、初めてだ。目、閉じた方がいいかな。思い切って目をぎゅっと閉じ、あごを上げる。
「さあ、どうぞ」
健さんが爆笑する。
「ムードがねえな」
「恥ずかしいんだから、早くして!」
「はいはい」
唇と唇が、ふっと合わさり、ふわっと離れた。
「思ってたより、あっさり系」
あたしの感想を聞いた健さんがまた笑い出す。
「えーと、これから、どうすんの?」
「今までどおりでよくね?」
「だあね」
「俺のことは健って呼んで」
健、と口にしてみた。めっちゃ照れる。むだに足踏みしてしまう。
「受けとめるよ。オリとしてのおまえも、アレサンドラとしてのおまえも」
「アレサンドラとしてのおまえもって、つまり、あたしをまるごと、ってこと?」
「もちろん」
こんなに嬉しくなったのは、初めてかもしれない。あたしは声を上げた。
「健! あたしをまるごと、キャッチして!」
健が両腕を広げる。
「オッケー!」
抱きついたあたしを、健はその腕で、しっかりキャッチしてくれた。
製造課のアレサンドラ 亜咲加奈 @zhulushu0318
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