1-3


「これどうしたらいいの?」


 幼い頃の記憶。


「仁志の思うようにやってみな」


 俺の親父は簡単なことを子供の俺に詳しく説明しないことが多かった。


 今思うと自分で見て、触って、考えることを大切にしていたのだろう。


 悪くない教育方針だったと思う。完全に放任主義だったというわけではなく、危険を伴うようなことは俺一人ではさせなかった。


 お陰で良くも悪くもチャレンジ精神旺盛に育ったと思う。


 さて、死後の世界は存在するのか。人類普遍の疑問である。地球上の誰にも分からない。なんせ死んだことがないから。


 中学の頃にしつこく死後の世界はあると思うか意見を聞いてくるやつがいた。あまりにしつこかったので俺は


「そんなに気になるなら死んでみろよ」


 と言い返した。素直な本心だった。

 俺としては、


「あの山の向こう側には何があるんだろう?」


 なんて言ってる奴に


「行ってみりゃわかるさ」


 と返したつもりだった。


 しかしその日のうちに俺は生徒指導室に呼び出されることになった。


 どうして今俺はこんなことを思い出しているんだろう。その理由は単純明快、俺が死後の世界に来たもとい死んだ可能性があるからだ。


 俺は放課後の学校の廊下に立っている。どこかから吹奏楽部の練習が聞こえる。用事があるのかまだ下校していない男子生徒がこちらに向かって歩いてくる。


 俺はその男子生徒の目の前に急に立ちはだかり道を塞いだ。しかし彼は俺とぶつかりそうなことに気づかず歩いてくる。



 そして、彼は俺の体を___すり抜けた。



 どうやら俺の姿は誰にも見えていないらしい。


 どうやら俺の体は誰にも触れられないらしい。



 もしかして夢を見ているのかもしれないと思ったが俺は夢の中で夢だと気づくと百発百中で起きられるのでどうやら夢でもないようだ。意識も夢を見ている時ほどぼんやりしておらずはっきりしている。


 ならやはり、死んだか。


 1週間前に事故で頭を打ち、そして今日また頭を打って死んだのか俺は。


 自縛霊的存在に俺はなったのだろうか。


 死んで帰ってきた人間がいないから証明しようがない。


 天国なんて存在しなくて、死後待っているのはこういう永遠の孤独なのか。


 さすがに人類に救いがなさすぎるだろ。

 …………とりあえず女子更衣室でも覗きに行くか?





 廊下を彷徨っていて気づいたが俺はどうやら人だけでなく物にも触れられないらしい。すり抜けてしまう。


 幽霊疑惑が加速した。壁もすり抜けられる。

 しかしなぜ床はすり抜けないんだろう。今2階にいるのに。


 なんて考えて地面にダイブしてみるとすり抜けた。あまりにも非現実的すぎて頭が痛くなってくる。



 そして俺は美術室に落っこちた。


 

 そのまま地面もすり抜けて地球の中に落ちなくてよかった。


 我ながらチャレンジ精神旺盛すぎて困る。


 美術室の後ろの方で女子生徒がスケッチブックに鉛筆を走らせていた。見たことある顔……昨日の放課後教室で話した山なんとかさんだった。美術部だったんだ。



「なぁ聞いてくれ。俺死んじまったかもしれねーんだよ」


 山なんとかさんに話しかける。が、無視される。見えてないから当然。スカート覗いてやろうかなとも思ったがそういう趣味はないのでやめた。


 山なんとかさんは真剣な眼差しでスケッチブックに机の上の木彫りの熊をデッサンしている。俺の姿が見えていたとしても無視しそうなくらい集中していた。


 ふと美術室の後ろの壁に貼られた大きな絵に気づいた。異様な存在感を放つ絵。水彩画、だと思う。絵に関する知識がないからわからない。……どこかで見たことある気がする絵だ。


 おそらくこの絵のモデルはウユニ塩湖だろう。

 何も知らない俺が見てそう分かるくらいイメージのはっきりした絵。相当上手い。


 ウユニ塩湖……南米ボリビアに存在する広大な塩の大地。そこには、いくつかの気象条件が揃った時のみ出現する天空の鏡と呼ばれるものがあるらしい。平らな塩の大地に水が薄く張るとまるで一枚の巨大な鏡のように姿を変えるという。


 絵には薄青の空と対流圏界面に達しそうなほど巨大な積乱雲、そしてそれらがぼやけて映った鏡の大地、その中央に机が描かれていた。そう机。日本の学校の一般的な学習机。……なぜ?


 重ねて言うが相当上手い絵だと思う。白色が主要な色として大部分を占めているのにも関わらずすっと景色が入ってくる。


 一瞬天と地の境がなくなってしまったように見えるが、空の雲と地面に映った雲と塩の白がしっかりと描き分けられていて、地平線の存在が伝わってくる。その天と地が決して交わることのないものであることを表現してるみたいだ。相当うまい。


 積乱雲は上部ほど太陽光をはね返し白く輝きながらその雲底は濃い青で暗くこれから訪れる嵐を予感させる色をしている。幻想的。


 だが、その感動を打ち消すほど場違いものが一つしっかりと大きく描かれている。机だ。


 理解ができない。鏡の大地だけで十分誰からも評価されそうな絵なのに。何を伝えたいのだろう。物語はこの絵を見た人に委ねる、といったところだろうか。


 この机は誰が持ってきたんだろう、とか。


 この机は椅子が来るのを待ってるんだ、とか。


 この机が水面に波紋を作り出すことで空と大地の境目を保っているんだ、とか。


 色々議論できそうだ。なかなか面白い。誰が書いたんだろう。


 しばらくその絵を鑑賞して、山なんとかさんに一方的に会釈してから美術室を出た。




 一度屋上に戻ってみることにした。


 俺があの時屋上で頭を打って死んで、魂が学校を彷徨っているのだとすれば俺の死体が屋上にあるはずだ。


 さっきは気が動転して気づかなかっただけかもしれない。あるいはあの少女が隠したのかもしれないが、華奢な彼女が俺を背負い階段を降りれるとは思えない。


 ……死体がなければ、希望が持てる。俺が死んだのではなくもっと別のなにかが起きているという仮説に信憑性が生まれる。



 屋上へと続く階段を登っていく。


 そうだ、第一死んで魂だけになったとして服を着ているのはおかしいんじゃないか?


 そもそも魂ってなんなんだ。俺たちの意識は脳内にあるんじゃないのか。あるいは心に。



 屋上の鉄扉の前にたどり着いた。


 ドアノブを握ろうとするとやはりすり抜けたので鉄扉に頭をぶつけるように俺は一歩踏み出した。


 屋上にはあの机が静かに佇んでいる。


 周りを見渡しても俺の死体はない。


 もう一度机を覗いてみるとまたしても中に空が満たされていた。訳がわからない。あり得ない光景に脳が拒否反応を起こしそうになる。


 あの時は、少女に後ろから押されてこの空に触れたんだ。


__そしてこの状況に至った。


 逆順を試す、なんて程のことですらない。ネジを外してから部品をバラしたなら部品を組み合わせてネジをつければ元通りになる。


 俺は今度は迷わずに机の中に腕を突っ込んだ。

 昔からチャレンジ精神旺盛なんだ。

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