第12話 成都騒乱
おれは曹鈺がいるところへ走った。
曹鈺は、こいつは運がいいことに、劉禅の洛陽への護送を仰せつかったのだ。だから鍾会に監禁されないで済んだ。
劉禅は別の皇室が住んでいた屋敷にいた。待遇はよいが実質軟禁されている。曹鈺はその屋敷の庭にいた。七つか八つくらいの男の子と遊んでやっている。
「父上。いかがいたしましたか」
おれに声をかけた曹鈺の手に男の子が飛びつく。
「
貴行とは曹鈺のあざなだ。それを呼ぶ声を聞いたとたん、おれの胸はぎゅうっと痛んだ。諸葛瞻そっくりだったからだ。声だけじゃない。顔立ちまで似ている。
立ち尽くすおれに、その男の子に一言断りを入れてから曹鈺が駆け寄った。困り顔の小声で言う。
「あの子は諸葛京といいます。おれが討ち取った諸葛尚の弟です。だからとても気まずいのですけど、遊び相手を命ぜられたので断れませんでした。しかも洛陽まで護送するのです」
「ということは……諸葛瞻の息子」
「ええ。しかも、劉禅の孫でもあります」
「出立は、いつなんだ」
「明日の早朝には発ちます」
おれのもくろみはひとつはずれた。あまり鍾会側に顔を知られていない曹鈺に頼んで、将兵たちが監禁されている宮殿に潜入し、鍾会と姜維に対抗しようと声をかけてもらおうと思っていたのだ。
仕方がない。その企みはおれがするしかなくなった。
曹鈺が気づかわしげに尋ねる。
「父上、何かご心配ごとでもおありですか」
おれは作り笑いを浮かべた。
「いや、大丈夫だ。気をつけて帰れよ」
「相変わらず嘘をつくのが下手ですね。おれがお力になれますか」
「でも、明日発つのだろ」
「朝までまだ長いですよ」
そこへかわいらしい、高い声が割って入った。
「ねえねえ、なんのお話?」
諸葛瞻そっくりの男の子がおれと曹鈺の間にぴょいっと体を割り込ませる。諸葛瞻よりも目がきらきらしていて、何をしても笑って許せてしまうような子だ。
曹鈺が苦笑いしながら答えた。
「諸葛京さま、お待たせして申し訳ありません。明日洛陽に発ちますから、父と別れを惜しんでおりました」
「そうかあ。ぼくも父上や母上や兄上とお別れしたばかりだよ。だからいっしょだね。でも貴行どのはまた父上に会えるからよかったね。ぼくはもう会えないや」
さっぱりした言い方だった。きっと諸葛京は諸葛京なりに家族の死を受け入れようとしている最中なのだろう。
諸葛京はおれを見上げた。そして小さな握りこぶしを小さな手のひらで包んでぺこりと頭を下げる。
「諸葛京と申します」
おれも拱手して一礼する。
「曹竜あざな思翼と申します」
諸葛京がぱあっと笑顔になる。
「ぼくの父上のあざなと同じ字が一つ入ってる。父上のあざなは思遠だよ」
そうか。あいつ、おれと同じ「思」という字をあざなにしていたのか。
おれは不覚にも涙ぐんでしまった。
諸葛京があわてておれの手を握る。
「どうしたの。ぼく、何かひどいことを言った?」
おれは涙が止まらない。諸葛京を抱きしめた。
諸葛京がおれの胸で言った。
「ねえ、思翼どの」
おれの顔は涙でぐちゃぐちゃだ。曹鈺はおろおろしている。
「……はい」
「何か、困りごとがあるの?」
「……あります」
「なら、ぼくのおじいさまに相談してみたら?」
曹鈺がえっと叫ぶ。
「劉禅――じゃない後主に?」
諸葛京は真顔でうなずく。
「いつもぼくにおっしゃってる。困った時はいつでも力になるよって。思翼どのは貴行どののお父上でしょ。だからぼくの友だちだよね。それを話せばきっとおじいさまも聞いてくださるはずだから」
おれは諸葛京の、諸葛瞻そっくりなかわいらしい顔をまじまじと見る。
諸葛京はにこりと笑った。
「行こう」
おれ、曹鈺、諸葛京は屋敷に入った。
目の前には後主劉禅がいる。その隣には張夫人が立ち、おれたちを心配そうな目で見ている。
「いかがいたした、京。それに、初めてお目にかかるお客人がおられるようだが」
「ぼくの友だちです。曹竜あざな思翼どの。困りごとがあるのですって。おじいさまはいつもぼくに、困った時はいつでも力になるよっておっしゃってくださいますよね。だからぼくの友だちを助けてあげてほしいんです」
劉禅がおれを済まなそうに見た。
「孫が突然ご迷惑をおかけいたしまして申し訳ございません。この子は何といいますか物おじしない子でして。ですがまだ数えで八つにもかかわらず、おとな同様に物を考える子なのです。祖父の私が申し上げるのも何ですが、この子が友だちと言う方に間違いはありません。私ができることであなた様のお力になれるのでしたら、微力を尽くします」
おれはひざまずき、手をついて頭を下げた。
「それでは恥を忍んで後主に申し上げまする。それがしは魏軍の将にございます。しかし鍾会が母国に対し謀反しました。姜維とも結託しております。姜維は蜀復興をもくろんでおるとの情報が入っております。鍾会はそれがしの同僚や、蜀の高官を監禁しました。そこでそれがしは彼らを解放したいと考えております。成都の城外には、上官を監禁された兵たちが混乱したままでおりますゆえ、彼らの力も借りて鍾会と姜維を止めたいのです。後主は明日早朝にはお発ちになると息子から聞きました。時が足りぬことは百も承知しておりますが、何とぞお力をお貸しくださいませんでしょうか」
劉禅は口を引き結んで真剣に耳を傾けている。張夫人もだんだんと覚悟を決めた顔つきになる。
決然として劉禅は言った。
「何をいたせばよい」
「はい。宮殿の中を案内していただけますか。入りさえすればあとは監禁されている将軍たちを解放し、鍾会を討つのみでございます」
「姜維はどうする」
「後主には大変申し訳ございませぬが、我々魏軍に弓引く者ゆえ、討ち取るほかございませぬ」
「致し方なかろう。姜維には酷であるが、自ら招いた結果だ。まことに我が国の行く末を考えたならば、なるべく早くあなたの国に従うべきであったと私は思うている」
おれは思わず顔を上げて劉禅を見た。彼の顔つきは鋭い。この人を暗愚だとおれは聞いていた。しかしそれは誤解であったことに気がついた。
「しかし思翼どの。私は顔が知られ過ぎている。ゆえに京に案内させよう」
劉禅は諸葛京に優しく言った。
「京。おまえはよくおじい様とお城でかくれんぼをしたね」
「はい、いたしました」
諸葛京が元気よく答える。
「思翼どのはお城に閉じ込められているお仲間を助けたいと思っておいでだ。しかしおじい様は顔が知られ過ぎている。だからおまえが、ほら、あの抜け道を教えてさしあげなさい。そしたらすぐにここへ戻っておいで。明日には貴行どのも一緒に魏の都へゆくのだからね」
「はい! わかりました!」
小さな手のひらを勢いよく挙げて諸葛京は請け負った。
曹鈺も申し出る。
「それがしもお孫様についてゆきまする」
劉禅がやんわりととどめた。
「あなたは私どもの護衛を仰せつかっている。そのあなたが姿を消しては怪しまれよう。ここはお父上にお任せした方がよいのではないか」
曹鈺はもっともだと言うように頭を下げた。
張夫人が澄んだ声を上げる。
「それではわたくしが京と参りまする」
おれはさすがに止めた。
「危険です、夫人」
張夫人が引き締まった眉目と声で応じる。
「なんのこれしき。わたくしはあの張飛の娘ですよ。父の肝っ玉はわたくしの中で健在です。それに思翼どの、あつかましいようですがお願いがあるのです」
「何なりと、夫人」
「蜀の官吏たちにも解放の道を開いていただけますか。彼らはどこにおりましょうか」
「それぞれの勤め先でございます」
「では、思翼どののお味方を解放した際に、そちらへも立ち寄ってくださいませんか」
「お約束いたします」
劉禅は強いまなざしで宣言した。
「では、ただ今より、鍾会と姜維を討つ」
おれ、曹鈺、諸葛京、張夫人は、ひざまずいて額を床につけた。
おれ、諸葛京、張夫人は、宮殿の裏手に回った。
途中で隠れ家に立ち寄ったので、父上、飛将のおじ上、曹青、徐覇、宋も共にいる。
見張りの兵は裏手にも四、五人張りついている。
父上と宋が走り、目にも止まらぬ早業で彼らを倒した。
戻ってきた二人に諸葛京が小声で尋ねる。
「殺したの?」
父上が優しく、やはり小声で答えた。
「眠ってもらっただけだよ」
「じゃあ、目を覚ます前に済ませないといけないね」
諸葛京はとっとっとっと走り、扉を一枚開けた。
「ここだよ」
追いついてのぞくと、廊下が伸びている。
「突き当たりを左に行くと、おじいさまたちがお話しする部屋に着くんだ」
張夫人が言葉を添える。
「朝議に使う広間に着くということです」
「そこからならほかの部屋にもすぐ行けるよ」
「ありがとう。よく知らせてくれた」
おれは諸葛京の肩に手を置き、目線を合わせた。
諸葛京はにこっと笑う。
「洛陽で会える?」
「ああ。また会えるさ」
「じゃあ、今度はゆっくり遊べるね」
「うん。いっぱい遊ぼうな」
「またね」
「ご武運を」
張夫人はおれたちに深く一礼し、諸葛京を連れて走り去った。
おれたちは宮殿に入ると、廊下を走った。
朝議に使う広間にはまだ鍾会と姜維が座って向かい合っていた。
宋が提案した。
「とにかく部屋をかたっぱしから探そうぜ。閉じ込められている将軍たちを外に出すんだ。それで部下たちが待つところまで連れていこう」
曹青が制止する。
「いや、待て。大勢でかかれば確かに鍾会の兵は倒せる。しかし外にはまだ鍾会の兵がいる。蜀の高官たちだって解放するんだ。まずは成都の城門の外で待つ兵たちを城内に引き入れた方がいい」
「そうだな。確かに」
宋は納得し、父上に顔を向けた。
「李。おまえならどうする」
父上は飛将のおじ上と目を合わせ、うなずき合い、おれたちに告げた。
「おれと飛将がここに残る。竜、青、徐覇、それから宋は蜀の高官たちを解放してくれ。そして城外にいる兵たちを成都に引き入れてほしい」
飛将のおじ上も言う。
「鍾会が嘘をついたならこちらも嘘で勝負さ。ぼくと暁雲が、鍾会は成都にいる将兵を魏蜀問わず皆殺しにしようとしているってふれ回るよ。君たちはそれを矢文にして蜀の高官たちが閉じ込められた建物と、城外へ射込んでおくれ。そしたら彼らは動き出すさ」
「わかりました」
おれ、曹青、徐覇、宋は揃って答え、宮殿から出た。
今は夜だ。
おれたちはもう一度隠れていた屋敷に戻り、急いで手紙を手分けして書き、矢に結わえつける。
そのうち半分を蜀の高官たちが閉じ込められている建物へ射る。
城門へ走った。
もちろんそこでは鍾会と姜維の兵たちが守りを固めている。
おれと宋が走る。城壁の階段近くに立つ兵に飛びつき、気絶させた。
そこから駆け上がり、おれ、曹青、徐覇とで矢文を飛ばす。
見下ろすおれの耳に、兵たちの穏やかでない声が聞こえてきた。
あとは、劉禅一行が無事に出立するのを見届けるだけだ。
おれたちは劉禅の屋敷に行き、これまでのことを報告した。
劉禅はほほえみ、感謝を拱手で表す。
「ありがとう。君たちが無事でよかった。ところで私たちが城門を出る時に、門を開けておくように私から伝えようと思うのだが」
「鍾会や姜維の兵に見とがめられませぬか」
懸念するおれに劉禅は強い目で応じる。
「蜀の君主として命ずるつもりだ。詔書もしたためた。その時に城外にいる兵たちも静かに入城いたせばよかろう。そもそもすでに成都は魏国の街となったのだ。魏軍の兵士が入るのは当然のことであろう」
徐覇が自分の親を心配するような顔つきになる。
「陛下のおん身が気がかりでございます」
劉禅は柔らかくなごやかに笑った。
「ありがとう。鄧艾に降った時にもう、一生ぶんの恥をかいたよ。だからもう何も怖くない」
夜が明けた。
曹鈺たちに守られ、劉禅と張夫人、諸葛京を乗せた馬車が成都の城門を出る。
劉禅は門を出た時、門番を務める兵士に詔書を渡して説いた。
「この成都はすでに魏国のものである。城外にいる兵たちを中へ入れてやってくれ。鍾士季どのにも了解を得た上でこの詔書を作成した」
兵士たちはかしこまって詔書を押しいただく。
劉禅は馬車から下り立ち、声を張り上げた。
「さあ、魏軍の皆さん。ご入城くだされ」
矢文を受け取り、戦う気まんまんの魏軍は、表面上はあくまでも静かに整列し、成都に入城した。
曹鈺がおれを振り返る。
おれは笑顔でうなずく。
目元口元をきりっとさせ、曹鈺は片手を挙げた。
劉禅一行もまた静かに進んでいく。
諸葛京が馬車からひょっこり顔を出し、おれたちに笑顔で手を振った。
「さあ、これからだ」
おれが曹青、徐覇、宋に言うと、三人とも順番に覚悟を決めた顔で答えた。
「必ず勝つ」
「鍾会の首はおれが取る」
「最後のご奉公だぜ」
成都に続々と兵士たちが入城する。
彼らは街なかに入ったとたんに太鼓を鳴らし、走り始めた。手に手に刀や剣、槍を振り上げる。
宮殿や蜀の政庁を警備する兵たちが武器を構えて応戦する。
おれと徐覇は宮殿に、曹青と宋は蜀の高官たちが監禁された政庁めがけて走った。
兵たちが立ちはだかる。
そのうちの一人がおれにつかみかかった。その手をかいくぐって襟をつかみ、足を払って地面に倒す。そのあと徐覇に叫んだ。
「鍾会と姜維を探せ」
徐覇は兵を蹴り倒して叫び返した。
「わかった!」
宮殿の扉の前で鍾会側の兵たちが中に入れずあわてふためく。
「何をしているッ、早く入らぬか」
「だめです! 開きません!」
「押さえられているようです!」
中から声がした。
「もっと机持ってこい!」
「やつらを入れるな!」
「それ、せえの――よし、これでいい!」
どうやら扉の内側に机を積み上げて中へ入れないようにしているらしい。
おれは徐覇と走り、窓から入ることにした。さいわい机で塞がれていないところがすぐに見つかった。窓枠に手をかけて飛び込む。
外からは大声が聞こえる。刃と刃がかち合う音も増えてきた。兵たちがあとからあとからわいて出る。
おれと徐覇は鍾会と姜維を探して駆け回る。
宮殿の中でも、閉じ込められた将軍や兵士が鍾会側の兵と斬り結んでいた。
回廊へ出ると、なんと鍾会と姜維がいた。
鍾会は四、五人の将軍たちに囲まれていた。鍾会は剣を振るって彼らに応戦している。
姜維も三、四人と対峙していた。
おれと徐覇は剣を抜き、鍾会に走った。
鍾会は二人を斬り伏せた直後だ。おれたちを見ると、目をつり上げた。
「こいつはおれがやる!」
徐覇が斬撃を浴びせる。鍾会は素早く徐覇の刃を跳ね上げた。そして返す刃で背後にいた将軍を刺し貫く。
その背中を徐覇は見逃さなかった。剣を水平に構え、体当たりする。
徐覇の剣先が鍾会の胸板から勢いよく突き出した。
それを見届けておれは姜維に走った。姜維はちょうど群がる三、四人のうちの一人を斬り捨てたところだ。残りの将軍たちが後ずさるのと入れ替わりにおれは剣で姜維の喉元めがけて突きを入れた。
むろん姜維も剣の達人だ。よけられた。
おれは回廊の手すりに飛び乗り、そこから姜維めがけて跳躍した。
姜維が目をぎりぎりいっぱいまで見開く。
おれは飛び下りざま、姜維の真上から剣を突き刺した。
おれの剣は姜維の整った顔を貫き、そのまま体内へと深く刺し込まれた。
おれが剣を引き抜くと、下がっていた将軍たちが姜維を再び取り囲んだ。そして剣で動かなくなった姜維の体のあちこちを突き刺した。
宮殿のあちこちから将軍たちが現れる。その中には父上と飛将のおじ上もいた。
成都の混乱は、鍾会と姜維の死によって、治まった。
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