第11話 蜀を掃滅せよ
おれが司馬昭から探りを入れられた頃、曹奐は帝としての仕事をしていた。軍祭酒の郭嘉をおれのじい様の墓前に祭ったのである。
郭嘉あざな奉孝。軍師でもあった。じい様からの信頼が厚く、父上は病に倒れた郭軍祭酒を看病したことがあったのだそうだ。
年が明け、景元四年(二六三)を迎えた。
曹奐はよく父上やおれ、曹鈺を呼んで話をする。素直で、ごまかすことをしない人柄なので、父上やおれも会うのが楽しみだ。もちろん曹青や飛将のおじ上、曹維とも話している。
彭祖どのは洛陽に借り住まいをしながら、息子の補佐をしてくれていた。
「息子はほんとうに幸せ者です。今後ともご教示くださりませ」
いつもおれたちにそう言って、深々と一礼してくれる。
曹奐はおれに言った。
「郭皇太后や朝臣たちとはかり、司馬昭に晋公にのぼれと命じているのですが、またもや断られました」
「そういえば武祖も魏公にのぼる際、何度か固辞したと聞いております」
「慣例なのでしょうが、いつも詔書の草案を作ってくれるのは荀節です。同じ内容の詔書ばかり作らせてしまい、彼女には苦労をかけています」
「そこはお気になさらずともよいと存じます。節はこの務めにやりがいを感じていると、それがしらによく話しておりますから」
「皇太后も私も、彼女に敬意を表しております」
曹奐がほほえむ。今年で数えで十八、だいぶ皇帝らしくなってきた。
「ところで思翼どの、いよいよ蜀へ出兵するとうかがいました」
「はい。三か月後の五月とのことです」
曹奐が厳しい目をして口元を引き締める。
「蜀について暁雲どのから教えていただきました。山が険しく、谷は深く、進軍は容易でないとか。どうか充分にお気をつけてくださいませ。都は私が全力をもって守り抜きます」
おれは曹奐に笑顔で答えた。
「曹維がおります。お使いください」
「よかった。安心できます。曹鈺は思翼どのと出陣いたすのですよね。気をつけるようにお伝えください」
「はい。初陣ですのでそれがしも気が気でありませんが」
「大丈夫ですよ。彼なら」
そう言って笑う曹奐はほんとうに助けがいのある少年だとおれは感じ入る。彼はこのあと、曹魏を司馬昭に明け渡す大役を果たすことになるのだ。ずいぶん辛い役目である。曹奐のためにおれはできる限りのことをしたい。
蜀征討の準備は着々と進み、そして五月、ついに命令が下った。
「蜀が頼みとするのはただ姜維のみである。もし姜維を捕らえたならば、東西から一斉に進軍し、巴蜀を掃滅せよ」
巴蜀とは、蜀漢が領土とする地域をまとめて呼んだ名である。
鄧艾と鍾会に続き、おれと曹青が所属する虎豹騎が進発した。父上は間者の一人として先に出立している。
虎豹騎から騎射に優れた騎兵たちで再び弓騎兵を編成した。率いるのは蜀から父親と共に魏に亡命した雷松あざな子堅と、その弟で雷柏あざな子清。子堅どのは飛将のおじ上の、子清どのは父上の従卒を務めていた。
そして飛将のおじ上も弓騎兵の中にいる。堂々として若く見える。数えで六十九とは思えない。
おれと曹鈺、曹青と徐覇も弓騎兵に入った。そのため徐覇は大斧は洛陽に置いてきたそうだ。
誰に預けたのかと尋ねると、さらっと答えた。
「荀節に預けた」
おれと曹青は思わず聞き返す。
「節に?」
「うん。おれだと思って持っていてと頼んだら、快く預かってくれたんだ」
曹青が徐覇にずいと迫る。
「呼び捨てなんかして、いつからおまえたちはそういう間柄になったんだ」
とたんに徐覇が眉目を逆立てた。
「これ以上の回答は差し控える」
曹青は食い下がる。
「おまえ、国元に嫁も子供もいるじゃないか。節は側室になんかなるおなごではないぜ」
「側室だと。何を馬鹿な。おれと彼女は共に曹魏のために力を尽くす同志だ」
これにはおれも声を上げてしまった。
「ど、同志だと」
徐覇はいっこうに動じない。
「そうだ。何がおかしい」
曹青があたふたする。
「で、でも、おまえたち、要は、男と女の仲になったのだろ。そしたらその、荀節を嫁にするというのが筋じゃないか」
まばたきしたのち、徐覇は事も無げに言った。
「確かに男女の仲だが、彼女は女官の勤めを続けると言っている。嫁になればそれも難しい。だからこのままだ」
おれと曹青はへなへなと座り込んでしまった。
そういえばおれは荀節に出陣前に会っている。なんだかとても生き生きとして、生まれつき美人だけどより輝いて見えた。そういうことか。そういうことだったのか……。
徐覇はすぐさまおれたちの腕をつかんで引っ張り上げる。
「ほら、行くぞ」
「ちょっと待ってくれ。理解が追いつかない」
曹青は額を痛そうに押さえる。
徐覇はそんな曹青こそ理解できないという目で見て、言った。
「別に理解してもらわなくとも結構だ。おれと荀節はそれで納得しているのだから。それより」
西の、蜀の領土が広がる方角を見ながら、徐覇は寂しげな声でつぶやいた。
「諸葛瞻に会ったら、どうすればいいんだ」
おれと曹青も、それだけが心配だった。
おれたち魏軍は渭水から櫛の歯のように蜀へ南下した。
姜維は、鍾会が漢中に入ったと知ると、魏軍と戦いながら成都へ退却を始めた。むろんおれたちも追う。
逃げる姜維が立てこもったのは剣閣だ。ここは緑豊かな険しい山々のつらなりだ。まっすぐな崖と崖の間を細い道が通る。とてもじゃないが馬では通れない。大軍ではここを抜けはしない。
鍾会は剣閣を落とせずにいた。おれと曹青が今、数えで四十五。徐覇は数えで四十四。鍾会は数えで三十九。武官として経験を経ているものの、良い策が思いつかない。
鍾会はすっとした眉目と鼻梁を曇らせてつぶやいた。
「補給がもたない。引き返すか」
そこへ鄧艾が、背丈は高くないががっちりした体を現した。
「いえ。進軍すべきです」
鍾会が息をのんだ。
「鄧将軍。この断崖絶壁をいかにして抜くおつもりなのですか」
「抜きませぬ」
「ではどのように」
鄧艾は太く短い眉と丸い目をおれたちに据えて答えた。
「剣閣の北、陰平から南下するのです」
鍾会も、おれたちも、声を失う。
曹青が鄧艾に近づいた。
「鄧将軍。地形をご存じですか」
鄧艾の太く短い眉はぴくりとも動かない。
「はい。知っております」
曹青の頬は青白い。
「陰平も剣閣同様、断崖絶壁です」
「それが何か」
「我々騎兵は通過できませぬ」
丸い目でおれたちを見回し、鄧艾はとつとつと主張した。
「それならば剣閣など通らねばよい。姜維一人の力などたかが知れております。やつなど捨て置きましょう。弓騎兵は平地を選んで通り、成都を目指せばよい。私は蜀軍の虚を衝きたい。ゆえに陰平から歩兵のみで南下します。貴公ら弓騎兵の皆様は成都の北、綿竹で我々と合流しませんか。貴公らの速さと強さがあれば蜀軍などひとたまりもないでしょう」
鍾会のすっとした眉目には鄧艾への疑いがありありと見える。
「失敗したら少なくない損害が出ましょう。いかに責任を取るおつもりですか」
鄧艾は憎らしいほど落ち着き払って答えた。
「失敗いたしません」
洛陽にいる司馬昭へ、陰平から南下する旨上奏文をさっとしたためると、鄧艾は歩兵たちを引き連れて断崖絶壁へと進んだ。
鍾会は焦っていた。剣閣に立てこもる姜維に書簡を送り懐柔しようとしたが返事がいっこうに来ないからだ。
ぎりと歯を食い縛り、鍾会はおれたちに命じた。
「弓騎兵、綿竹へ進発いたす」
確かにその方が、いち早く成都へ到着できそうだとおれは思った。
馬の用意をしていると、鄧艾がおれを呼んだ。
「思翼どのに折り入ってご相談があり申す」
「何でしょうか」
「貴公はたいへん身が軽いとうかがっておりますが、合っているでしょうか」
嫌な予感がする。鄧艾の考えが読めた。
横目でそばにいた曹青と徐覇を見る。二人ともにやりと笑う。
おれは覚悟を決めて鄧艾に正対した。
「はい。合っております」
「では、私と共に陰平の断崖絶壁を越えてくだされ」
もう、やるしかない。
「承知しました」
鄧艾の目尻が、嬉しげに下がった。
承知したものの、陰平のそれは剣閣よりも険しい、まっすぐに天を衝く崖である。道らしきものはあるが、一人やっと歩ける狭さだ。
足場を作ってよじ登っても、何人もの兵が真下へ落ちた。鍾会の言う「少なくない損害」は増える一方だった。
鄧艾含めおれたちは皆、甲冑を脱ぎ捨てた戦袍姿だ。鄧艾の胸板は分厚い。腕と脚は筋肉が盛り上がっている。そして感情が顔に出ない。その顔で不気味に落ち着いた声で「登れ」と命令するものだから、誰一人異議申し立てできずに今日も絶壁にとりつくしかない。
おれは間者として鍛えているから、どうにかよじ登ることができた。だけど手と足の指先には血がにじんでいる。はがれかけた爪もある。
すると鄧艾が先頭を切って登り始めた。
こうなると兵たちの目つきが変わった。次々と絶壁を登りきる。
緑萌える崖の上から見下ろす成都は遠かった。しかし一番近い城がある。
そこを指し示し、鄧艾が口を開く。
「見たまえ。あれが江油城だ。あそこを落とせば目指す綿竹は目と鼻の先なのだ。諸君は魏軍の精鋭である。落とせぬ城があろうか。蜀、滅ぶべし!」
彼の言葉に、おれは不覚にも胸が熱くなった。歩兵たちも同じ思いであるらしい。口々に賛同し始めた。
「蜀、滅ぶべし!」
「蜀、滅ぶべし!」
「蜀、滅ぶべし!」
鄧艾を先頭に、おれたちは崖から縄を下ろし、それを伝って降りた。
やっと何日ぶりかで平地を踏んだ。あとは黙々と戦袍姿のまま江油城目指して歩く。
土と埃と汗で汚れ、ろくに食べておらず頬のこけたおれたちがぎらついた目でぞろぞろ歩く姿は、蜀軍をおびえさせたらしい。江油城を守っていた武将
おれたちは皆、拍子抜けしてしまった。
「そもそも戦うつもりがないようだ。この分だと造作もなく蜀を掃滅できそうですな」
鄧艾は共に飯を食いながらおれに言った。おれも答える。
「自分たちの国なのに、守ろうとしないとは。それがしには信じられませぬ」
定軍山の方角に、鄧艾は顔を向けた。
「諸葛孔明は今、どんな思いで眺めているのだろうか」
諸葛孔明。諸葛瞻の父上。
体を洗い、着替えて布団に入ったおれの頭に、諸葛瞻の顔が浮かぶ。今年数えで三十七になるはずだ。それなのにおれが思い出すあいつは、数えで八つの子供のままである。
戦いたくないな。
子供のままの諸葛瞻に胸の内で語りかけ、おれは眠りに落ちた。
馬邈は江油城の武器や甲冑をおれたちに全部くれてよこした。
武装し、馬に乗り、おれたちは成都を目指す。
成都に向かう途中に綿竹はあった。
そこを守る武将の名を間者が鄧艾に告げる。
おれは耳を疑う。でも鄧艾が復唱したその名は、おれがもっとも聞きたくなかった名前だった。
諸葛瞻。
綿竹を守るのはあの、五丈原で別れた諸葛瞻なのだ。
間者は毛という姓だった。おれたちより十は年上に見える。
「綿竹を守備いたすは諸葛瞻。そして」
いったん息を吸ってから、言った。
「夏侯覇」
その場には飛将のおじ上もいた。やっぱりね、と黒目がちの目を細める。
鄧艾が毛にただす。
「おかしい。諸葛瞻は涪にいたはずだが」
飛将のおじ上がその疑問に答える。
「夏侯覇が貴公の動きを察知したのではないかな。そこで貴公の進軍を迎え撃つべく、陰平と成都の中間にある綿竹に諸葛瞻と移動した」
「なるほど。馬邈はあっさりと我らに降伏したが、それを肯んじない者が走ったか。それとも夏侯覇が物見を使ったか。いずれにせよ我らの動きが相手側につかまれた。ではもう正攻法にて当たるしかない」
言って鄧艾は毛を下がらせた。
入れ替わりにもう一人間者が現れた。
「申し上げます」
なんと父上だった。
「お帰り、暁雲」
にこりと笑う飛将のおじ上の隣で、鄧艾は律儀に頭を下げる。
「曹暁雲どの、お役目ご苦労様でございます」
父上は笑って鄧艾に言う。
「今のそれがしはいち間者に過ぎません。李とお呼びください」
「しかし――」
ためらう鄧艾を見て、澄まし顔で飛将のおじ上が父上に命ずる。
「では、李。報告せよ」
父上が可笑しそうに口元をゆるめた。でもそれは一瞬のことで、すぐに真剣な顔つきに戻る。
「はっ。成都の状況をご報告いたします」
父上の話は次のようだった。
おれは成都に入ると、そこに長らく潜んでいた仲間に会いに行った。
仲間は劉禅の後宮にいる。
自分の頭に手を当てる、魏の間者同士の挨拶を交わす。
「最近頭が痛くてね」
「そうですか。お大事に」
「李だ。長い間ご苦労様」
「宋だ。ここでは宦官黄皓で通っているがね」
「よくばれないものだな」
「毎日ひげを当たったり、声やしゃべり方を工夫したりと気を張り詰めているよ。でもまあ、誰もおれの服の裾をまくり上げていちもつを確認しようなんて考えるやつはいなかった」
「魏軍はもうそこまで来ているぜ」
「ああ。よくあの山を越えてきたよな。こっちは姜維が一人で頑張っている。あいつに振り回されて、蜀の連中は官民共にいくさを嫌うようになっている。劉禅は姜維の行動を追認している。だから劉禅も信用されなくなったのさ。姜維はしばしば兵を送れと言ってきた。もちろんおれたちで協議したのだぜ。劉禅も同席させてな。だけど送る兵などそもそもいないんだ。それを知らぬは姜維だけさ。おかげでやつはありもしない噂を立てた。黄皓はおれの請願を握りつぶし、劉禅は巫の占いを信じきって戦おうともしないと。まあ、おかげでおれの裏を探られずに済んでいるがな」
「あと、何をすればいいのだ、宋?」
「劉禅に降伏させるだけだ」
「徹底抗戦を叫ぶやつはいるか」
「いるが、少ない。ろくにいくさもしたことのない連中だ、ちょっともんでやればすぐさま白旗を上げるだろう。しかし夏侯覇と諸葛瞻はわからんな。こいつらは降伏はしないとおれは思う」
「諸葛瞻にいくさの経験は?」
「ない。夏侯覇の言いなりだ」
「夏侯覇は合戦場に出ているか」
「おん年数えで六十九とは思えぬ働きぶりだよ」
「兵の状態は」
「よくないな。何せ経験が足りない」
「では、成都攻略をできるだけすみやかに進めよということだな」
「ああ、そういうことだ」
「おまえはいつ脱出するのだ」
「劉禅を魏軍に引き渡すまでがおれの仕事だからな。それを済ませたら合流する」
「必ず助ける」
「あまり無理をするなよ」
夏侯仲権どのと諸葛瞻は綿竹にいる。
何とか二人を助けたい。おれは鄧艾に進言した。
「将軍。綿竹へ降伏をうながしてはいかがでしょう。諸葛瞻は諸葛孔明の子です。孔明は死後も蜀の人心をつかんでおります。諸葛瞻を殺せば蜀の人民が立ち上がり、厄介な動きをいたすかもしれませぬ」
意外にもすんなりと鄧艾は受け入れた。
「よろしい。使者を出してみよう。しかし万が一彼らが降伏をしなければ我らの使者は斬られるかもしれぬ」
「ならばそれがしが参ります」
本心からおれは言った。諸葛瞻を説得できるのはおれだけだと直感したからだ。
ところが飛将のおじ上が進み出た。
「ぼくも行くよ、竜」
鄧艾が眉間にしわを寄せる。
「お命の保証はありませぬぞ」
飛将のおじ上はわずかに苦笑いした。
「どうせぼくは老い先短い年寄りだ。斬られても構わないさ。仲権にも会いたいしね」
曹青と徐覇も同時に名乗り出る。
「それがしらも参りまする」
鄧艾の眉間のしわがさらに深くなる。
「いや。そんなに大人数で出向いてもかえって怪しまれるのではありませんか。それに弓騎兵の主力が抜けるのは痛いのですが」
「では、それがしと飛将、曹竜だけで向かいましょう」
言ったのは父上だった。
「では、お願いいたします。諸葛瞻と夏侯覇には、もし降伏いたせば魏において相応の地位を約束すると伝えてくださいませ」
おれたちは綿竹へ走った。
途中で鍾会率いる軍と出会った。
すっとした眉を疑わしげにひそめ、鍾会はおれと父上、そして飛将のおじ上にただす。
「何ゆえ貴公らのみで行動なさっているのか」
口を開こうとしたおれを手でとどめ、答えたのは飛将のおじ上だった。
「綿竹にいる諸葛瞻と夏侯覇に面会を申し入れます。降伏すれば我々と成都へ進軍し、しなければ総攻撃をかけます」
信じられないと鍾会の目が訴える。
「そのようなことは無駄足ではございませぬか。もし相手側が降伏を肯んぜず、貴公らが斬られでもすれば、無駄死にですぞ」
おれも申し開きをする。
「諸葛瞻は諸葛孔明の息子です。いまだ孔明は蜀の人民から慕われております。その息子をいたずらにあやめでもすれば蜀の者どもが我々に対してそれこそ無駄な抵抗をすることは目に見えております。そうさせないための使者なのです」
鍾会はあきれたように言った。
「蜀の民たちの抵抗などたかが知れておりましょう。士載どのは思翼どのの献策をお容れになったということですかな」
おれはうなずく。
「ええ」
鍾会は馬首を返した。
「士載どのもわからぬお人だ。では我々も綿竹へ向かうとしよう。士載どのはまだ動かれぬか」
「鄧将軍も綿竹へ進発なさっております」
「平地が少しはあるようだ。我々の騎兵もやっと展開できる。結局大会戦となるのに。ではせいぜい励むことですな」
嫌みたらしく言い捨てて鍾会は軍と共に去った。
その背中を見ながら父上がおれに言う。
「あいつ、蜀を落としたあと、鄧艾とひと悶着ありそうだな」
「ええ。おれもそう思います。司馬昭が成都に入るまで、鄧艾も鍾会も治安を保つことができるかどうか」
飛将のおじ上が父上に尋ねた。
「暁雲。姜維がどうしているか知ってるかい」
父上が答える。
「ここにいないということは、おれたちを避けて成都に向かっていると思う」
「姜維は蜀のために戦っているのだよね?」
「ああ」
「じゃあ、姜維こそ早く押さえておかないと、ぼくたちが成都に入ったとたんに襲いかかるかもしれないってわけだ」
「何のために戦っているのだろうな、連中は」
父上が曇り空をあおぎ見た。
綿竹の城門は開け放たれていた。魏軍からの使者だと名乗ると、なぜかすんなりと通してもらえた。
「おれが守備を任されているからな。魏は故郷だし、しかもおまえたちは親戚だ」
おれたちを城の広間に通し、夏侯覇は笑った。どこか皮肉で、陰のある笑い方だ。
飛将のおじ上が夏侯覇に、厳しい顔を向ける。
「久しぶりだね、仲権」
夏侯覇は暗い目を細めた。
「しばらくだな、飛将」
「単刀直入に言うよ。降伏しないか。そうすれば諸葛瞻と君に相応の地位を約束する」
口元を皮肉な笑みでゆがめ、夏侯覇は立ち上がった。
「おいおい、そんなことをわざわざ言いに来たのかい。ご苦労なことだ」
夏侯覇の隣には諸葛瞻がいる。子供の頃の面影はあまり感じられなかった。その目はよどみ、血色がよくない。肩も下がり、背中を丸めている。
おれは諸葛瞻を見た。諸葛瞻もおれを見る。けれどもおれたちは一言も交わせなかった。
飛将のおじ上が真剣に夏侯覇に問う。
「君は何のために戦っているんだ、仲権」
ひと呼吸おいて、夏侯覇は笑みを消した。
「蜀を魏軍から守るためさ」
「君は魏軍の武将だ」
「かつてはそうだった」
「ぼくの従兄弟だ」
夏侯覇は無言でおれたちを見た。
広間を沈黙が支配する。諸葛瞻は下を向いた。
夏侯覇が低い声で語り出す。
「こいつは諸葛瞻。孔明の子だ。数えで三十七になるが、いくさの経験はほとんどない。涪で鍾会と戦っただけだ。まあ、成果はあげたよ。魏軍の兵をそれなりの数、倒した。しかしいくさが終わってみたらこの通りだ」
おれは思わず声を発した。
「この通りとは」
諸葛瞻が目をぎゅっとつむる。
夏侯覇は諸葛瞻を横目で見やり、息をひとつついた。
「しゃべれなくなってしまったのさ」
おれは出会った時の諸葛瞻を思い出した。
声を出さずに口だけ動かしていた諸葛瞻。
それが今は、ほんとうに、声が出なくなっているのだとは。
「筆談はできたから、なぜなのか問いただした。そうしたらこいつは何と答えたと思う?」
父上も、飛将のおじ上も、おれも、夏侯覇の口をじっと見つめる。
夏侯覇は真顔でおれたちに続けた。
「『人をたくさん殺したから』」
諸葛瞻が床に膝をどすっとついた。
おれは妙に納得した。そうだ。こいつは変わっていない。何一つ変わっていないんだ。
こいつは武将になるべきではなかった。おれや父上、飛将のおじ上や曹青、徐覇のように、いくさに出ることを当たり前だと思えなかったのだ。いくさで敵兵を殺しても、手柄と思うどころか罪を犯したと思う人だったのだ。
「帰ってくれ」
諸葛瞻から目を離し、夏侯覇は言った。
「おれたちは降伏しない。今さら魏へは戻れぬ。こいつを合戦場に連れて行く。そして一緒に死ぬさ」
飛将のおじ上の声が震える。
「それが君の答えなのか、仲権」
「ああ」
「君と、戦うのか」
「どうせおれたちは負ける。生き残ったとしても司馬昭に頭を下げるだけ。それならいさぎよくここでこいつと死ぬさ」
すると突然、諸葛瞻が腰に吊るした剣を鞘から抜き放ち、おれを見た。
口を、動かす。
手を伸ばしおれは諸葛瞻に言う。
「――おい。やめろ」
諸葛瞻はおれに、にこりと笑った。そして抜いた剣を自分の首すじに当てる。
おれは諸葛瞻の名を叫んだ。
夏侯覇が、父上が、飛将のおじ上が、諸葛瞻に駆け寄ろうとする。
諸葛瞻の首から血が噴き出した。続いて体が床に投げ出される。
「おい!」
おれは諸葛瞻を抱き起こした。
諸葛瞻はもう、おれを見なかった。
おれは諸葛瞻の体を抱きしめる。
最後にこいつは、こう言ったんだ。
――綿竹を君にあげるよ。
おれの泣き声が、城の中に響き渡る。
夏侯覇は立ち尽くしている。
おれの肩を父上が強くつかんだ。
「行くぞ」
おれたちがすることはもう決まった。綿竹を落とす。成都を落とす。もう、それだけだ。
血まみれになったおれの肩を抱きかかえ、父上は早足で歩き出した。飛将のおじ上も続く。
諸葛瞻を振り返るひまは、なかった。
綿竹はあっけなく落ちた。連弩による攻撃をかいくぐり、再び突入した城内で、夏侯覇は自ら腹を裂き喉を突いて絶命していた。
「仲権」
飛将のおじ上は号泣した。
成都も綿竹と同じくらい簡単に落ちた。劉禅は柩を背負って降伏した。
その後、成都に入城した鄧艾は、自ら論功行賞をおこないはじめた。それが越権行為であるとして、司馬昭は鄧艾を檻に入れて成都から連れ戻した。
突然のことに立ち往生したおれたちの前に現れた鍾会は、なんと姜維を伴っていた。
「今後はこの鍾士季がこの地を統括いたす」
言い放った鍾会に、飛将のおじ上がかみついた。
「誰の命令でそんなことを言っているんだい」
答えたのは姜維だった。
「我らに歯向かう者はすべて排除いたす」
「なんだって?」
鍾会が笑い、ひときわ大きな声を上げた。
「この鍾士季、郭皇太后の詔を受け、逆賊司馬昭を滅ぼす」
徐覇が一歩進み出て、大声で言った。
「嘘をつけ! 皇太后が荀節に、さような詔など、書けとお命じになられるわけがなかろう! だいいち、郭皇太后は都においでだ。司馬昭を除くとするならば、都にいる官人らにお命じになるはずだ。なにゆえ遠く離れた地にいる貴様に、詔をお授けになる道理があるのだ?」
鍾会の眉が、ぴくりと動いた。しかし、黙って手を振って合図をする。とたんにやつの左右にいた兵が、俺たちを囲んだ。
「監禁せよ。いずれ処断いたすゆえ」
「正気かっ」
おれが叫ぶと、姜維が冷然と告げた。
「正気も正気である。私も鍾士季どのと手をたずさえ、この蜀漢を復興いたす」
宮殿に押し込められそうになるなか、飛将のおじ上が弓を構えた。狙う。放つ。
びゅん、と風を切った矢は、鍾会と姜維の間を引き裂くように飛び去った。二人は、何が起こったかわからないというふうに、無表情で突っ立っている。
父上がおれたちに鋭い声を投げる。
「逃げるぞ!」
おれ、父上、曹青、徐覇、飛将のおじ上、間者の宋は、兵たちをかきわけて走った。
「これから、どうするのです!」
走りながら問うおれに、父上も走りながら答える。
「いちかばちか、あの方のもとへ走れ」
「あの方?」
父上が口にしたその名に、おれは、驚いた。
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