第7話 蜀漢に生きる
ここからはおれ、数えで十八になった諸葛瞻が話す。
今は蜀の延熙七年(二四四)。おれは漢中にいる。曹魏が攻めてきたからだ。
率いているのは曹爽である。曹竜、曹青と同じ姓だな。きっと一族なのだろう。
元気かな。曹竜、曹青、徐覇。
曹竜と曹青は今数えで二十六、徐覇は数えで二十五になったのか。まあ、顔は、そんなに変わってないだろうな。
一緒に夕ごはんを食べたな。
曹竜はおれの口の動きを見て、おれが言ってることは何か、すぐに読み取ってくれたな。頭もよかった。おれは曹竜とたくさん話したな。
曹青はいつも落ち着いていたな。きっといろんなところで頼りにされているのだろうな。
徐覇はとにかくまじめでまっすぐだったな。あんな子が息子やきょうだいや友だちだったら、きっと心強いよな。
短いあいだだったけれど、おれたちは友だちだった。
そんな友だちが住む国と今、おれたちの蜀漢は戦っている。
ほんらいは蜀とは、地域の呼び名だ。でも父上たちは「漢王朝を継ぐ国」として、「蜀漢」と呼んでいた。
おれは今回初陣する。でもやる気が出ない。だから姜伯約将軍から、おれはいつも怒られる。
「思遠どの、あなたのお父上は命をかけて曹魏征討を目指しておいでだったのですぞ。それなのにご子息のあなたがそのようでは、お父上のみたまはいつまでも安らぎを得られませぬ」
だって無理だよ。
向こうには、友だちがいるんだから。
漢中には定軍山がある。父上のなきがらは定軍山に葬られた。立派なやしろもいらないし、墓の手入れもしなくてよいと遺言している。
おれは父上のほんとうの子供じゃない。でもそのことを知っているのは父上が信頼していた人たちだけだ。
父上――諸葛孔明はまるで人を超えた人であるかのように言い伝えられている。おれは見たことや聞いたことを長く覚えていられる上にそれをうまいこと言葉にできる。おれにとっては当たり前のことなのだけれど、周りの人から見ればすごいことになるらしい。
「さすが諸葛公の若様」
みんなそう言っておれをほめたたえる。
父上が亡くなったあと、わずか数えで八つなのにおれは、父上の位を全部継ぐことになった。
しかもおれは昨年、帝の娘と結婚したばかりだ。その子は劉施、おれと同い年だ。つつましやかでいつもおれの言葉をまっすぐな目をして待ってくれる。聞くところによると、張皇后がお産みになった子ではないらしい。皇后の侍女が夫人となったので、その侍女とのあいだに産まれた娘なのだそうだ。まあ、おれだって、諸葛孔明に拾われた子だから、とやかく言えないけど。
さて、目の前には曹魏の旗がひるがえる。
もし、あいつらがいたら、おれは、斬れるのだろうか。
魏延が築いた陣が漢中の山々に残っていた。おれたちはそこに陣取って戦った。
おれは毎日気が気でなかった。
みんながいたら、どうしよう。
不安は的中した。
騎馬隊が突っ込んでくる。蹄が立てる音が、土煙がすごい。
おれの目の前に迫る旗――。
そこには大きく「徐」と書いてあるじゃないか。
おれは天を仰いだ。
「徐」なんて、まあ、そこそこありふれた姓だ。でもおれが知る「徐」は、ただ一人。
徐覇だ。
先頭にいる。目が鋭く、鼻が高い。そうだ、やっぱり徐覇だ。
駆けてくる。手に持つ得物は、長柄の大斧だ。
「おいッ、前、前に出ろッ」
蜀漢側の兵たちが色めき立つ。
「公子様、お早く!」
兵にせき立てられ、おれは馬に乗る。
「槍持てーい!」
「歩兵、前へ!」
「早くしろっ」
おい、どうして歩兵を前に出すんだ。蹴散らされるぞ。
案の定、魏軍の騎馬隊は歩兵なんか無視した。まっすぐこちらへ来る。
徐覇が叫ぶ。
「我こそ曹魏の徐義道! 蜀兵どもッ、覚悟せよ!」
ようやくおれたちの騎兵隊が駆ける。むろんその先頭はおれだ。仕方なくおれは命ずる。
「騎兵、前へ!」
徐覇の大斧が一閃した。たちまち首が宙を舞う。血しぶきが青空に吹き上がる。
騎兵隊が徐覇を取り囲んだ。ところが一人、また一人、馬から落ちる。徐覇が飛び出した。
なんて強さだ。
「気をつけろ! あいつ、普通じゃない!」
歩兵の一人が口走ると、なだれをうって他の兵たちも下がり始めた。
確かに尋常ではない。大斧で蜀漢側の兵たちの頭や肩を叩き割り、返り血まみれになって徐覇がおれの方へ迫ってくる。
歩兵たちが騒ぎ立てて逃げる。
「徐晃だあっ」
「徐晃が、化けて出たあっ」
徐晃とは徐覇のじい様だ。やはり大斧を振るって戦った猛将だというのは調べて知っていた。徐晃が関羽の囲みに直入してそれを破ったという話は今なお蜀でも語り伝えられている。
指揮官たちが必死で止める。
「おまえたちッ、逃げるなッ」
「何をしておるッ、持ち場に戻らぬかッ」
ほんとうならおれも歩兵たちを引き止めなければならない。相手が徐覇でなかったらそうしただろう。でもおれには「戦え」とは言えなかった。相手はおれが得た初めての友だちの一人だからだ。
馬上で固まるおれに指揮官たちが口々に言う。
「公子様っ、お指図を!」
「兵どもに戻れと、お指図をなされませっ」
おれは後ろを見た。
山だ。山が高い。
そしてあそこには、かつて魏延が築いたいくつかの陣がある。
騎馬で山に登るのは困難だ。
そして目の前には猛将徐覇と、恐れ知らずの曹魏の騎兵隊が肉薄する。
おれは前を向き、そして、叫んだ。
「者ども、退けーッ!」
指揮官たちが目玉を向き出した。
「な、何ということを!」
「どういうことでございますかッ」
「何ゆえ退けと?」
おれは早口で言った。
「山の陣へ誘い込むのだ」
要は逃げろと言っているのだが、指揮官たちは別の意味にとらえた。
「なるほど、山の陣にいる隊と我々とで、魏軍を挟み撃ちするということですな?」
おれは仕方なくその指揮官にうなずいた。
「そうだ」
指揮官たちは口々に命ずる。
「逃げろ、逃げろ、逃げろ!」
「山へ向かえ!」
おれも腹の底から大声を出した。
「逃げるぞーッ! 続けーッ!」
山へ向かって馬を走らせながら、おれは徐覇の賢さに賭けた。きっと徐覇は何かおれたちに企みがあると感じるはずだ。そして引き揚げてくれる。
頼む、徐覇! わかってくれ!
ちらりと振り返る。徐霸が追ってくる。「諸葛」の旗を持つ騎兵たちが、駆けるおれを取り囲む。
徐覇の馬が速度をゆるめた。そしてそれ以上、徐覇の騎兵隊は、おれたちを追って来なかった。
指揮官たちはおれに笑顔で言った。
「いやあ、さすが諸葛公の忘れ形見でいらっしゃいますなあ」
「とっさの機転で我が軍に勝利をもたらすとは」
「これで曹魏も懲りたでござろう」
ただ一人姜将軍だけは、おれに渋い顔を向けた。
「詰めが甘いのではございませぬか? もしこれがお父上でしたら、誘い込んだ上で敵をもみつぶしておられたでしょうな。漢室再興と洛陽奪還がお父上の悲願であったこと、お忘れめさるな」
そんなことはわかっている。でも、おれにはできない。
おれは父上に拾われた、貧しい農家のせがれだ。そして曹魏には、おれの友だちがいるんだ。
結局大将軍費禕どのがおいでになり、魏軍は撤退した。
勝ったのは、蜀漢側だった。
うかれ騒いでいなかったのはおれと、姜将軍だけだった。
姜維あざな伯約どのはもともと魏の生まれだ。数えで二十七歳の年、父上に帰順した。たまたま城外へ上官や同僚と巡察に出ていたところへ父上たちが出兵したから、姜将軍たちは「まさか孔明に加勢するのではないか」と疑われたのである。
それから二十一年。今は延熙十二年(二四九)。姜将軍は数えで四十九歳。ちなみに
おれは数えで二十二である。
春正月、珍しく穏やかな青空の日だった。
青といえば曹青を思い出す。元気でいるかな。曹竜は、徐覇は、どうしているだろう。おれのことも考えてくれているかな、どうだろう。
帝がおわす宮殿の外で、のんきに空を見上げて歩いているおれのもとに、衛兵たちが息せききって走ってきた。
「思遠将軍、投降者が参りました」
「その者は今、いずこにおるのだ」
「もう間もなくこちらに参ります」
衛兵たちときざはしを駆け降りる。
すると、いた。他の衛兵たちに支えられている。よろいもかぶともぼろぼろで、馬もやっと脚を運んでいる。
相手が顔を上げる。目が合った。姜将軍よりも年上に見える。頬が土と汗で汚れているけれど、すれ違えば振り返るほどの美男だ。でもその目は、写るものすべてをにらんでいた。眉尻はつり上がり、歯を食い縛っている。
その人は衛兵たちを乱暴に押しのけ、おれの前に二歩進み出た。
「貴公の名は」
これからおまえを殺してやるとでもいうような、地の底をはうような声だった。
正直、怖かった。おれは低い声で答える。
「諸葛瞻あざな思遠でございます」
「諸葛――それではすぐに陛下のもとへお連れ願いたい。それがしの名は夏侯覇あざな仲権。曹魏を見限り蜀漢に仕えとうござる」
「うけたまわりました」
おれたちは陛下のもとへまかりでた。
陛下の名は、劉禅あざな公嗣。穏やかな風貌は、見ているとほっとする。けれどもそんな陛下を姜将軍は嫌っていた。よく一人言を言うのをおれは聞いたことがある。むしろおれに聞かせるために言っているのかもしれない。
「あれでまことに昭烈帝のお子なのか。覇気がまったく感じられぬ。漢室復興をまことにお望みなのか」
その場には姜将軍もいる。
夏侯覇はひざまずいた。
陛下がゆったりした口調でお尋ねになる。
「そのほう、曹魏より降ったと聞き及んでおるが、何ゆえ我が国へ参ったのじゃ」
夏侯覇はぎろりと陛下をにらみ上げ、つぶれた声で答えた。
「我が一族の者たちを、司馬懿めに誅殺されたゆえでございまする」
あちこちで言葉にならない声が上がる。
おれの胸がざわざわする。曹竜は、曹青は、無事なのか。
陛下はふた呼吸おいたのち、仰せになった。
「詳しく聞かせよ」
美しい顔の中にあるきれいな形の唇から、夏侯覇は言葉を吐き出した。その言葉のはしばしに怒りがこれでもかと詰め込まれて鋭かった。
「若い帝の補佐を務める曹爽めが私腹を肥やし、政務をおろそかにいたしておりました。それは責められても詮なきことでございます。曹爽は司馬懿を太傅という名誉職にまつりあげ権限を奪いました。司馬懿は病のためという理由で故郷へ帰りました。曹爽が人をやって様子を見させたところ言葉は聞き取れず薬を飲みながら襟元に垂れ流す有り様。それを受けて曹爽は油断したと聞いております。しかしそれは司馬懿の猿芝居だったのでございます。まんまと曹爽はだまされました。司馬懿は帝と洛陽を押さえ、曹爽を監禁しました。それだけではございませぬ。帝に取って代わろうとしたかどで曹爽ら一族を処刑したのでございます。曹氏と夏侯氏は密接なつながりをもっております。司馬懿めは我ら夏侯氏まで滅ぼすのではないかと思い、それがしは挙兵いたしました。なれど武運に見放され、漢室再興を目指す陛下のお国に尽くしたいと、投降して参った次第でございます」
おれは途中から目の前が真っ白になった。
曹竜が、曹青が、巻き込まれていたらどうしようとそればかりが頭をぐるぐると回る。
しかしそんなことはこの場では問いただせない。息が苦しい。立っていられない。おれは静かに列から離れ、壁際へ寄った。
陛下は落ち着いた声で夏侯覇に告げた。
「そのほうの投降を認めよう」
夏侯覇は両手をつき、額を床に打ちつける。
「この命、蜀漢のため、捧げまする」
姜将軍がおれの前に来て、言った。
「それがしと共においでください。夏侯覇を尋問いたします」
おれはようやく声を出した。
「陛下は投降をお認めになりましたが」
姜将軍は低い、冷えきった声でおれに言った。
「それがしもあなたも、もとは魏国の者。あやつと境遇は同じ。同じ魏国の者として聞き出したいことがあります」
おれはよろけながら姜将軍についていく。
姜将軍はおれに告げた顔とは打って変わってにこやかに柔らかく陛下に申し上げた。
「陛下。それがしも夏侯将軍と同じく魏より降りましてございまする。これからそれがしの屋敷へお招きし、将軍のお住まいやら蜀漢での官位が正式に決まるまでのあいだ、暮らしをお助けいたしたいと考えておりまする。なにとぞお認めくださいますよう」
陛下は姜将軍をいっこうに疑わなかった。
「では、よきにはからえ」
「ありがたきお言葉。さ、夏侯将軍、それがしの屋敷へ参りましょうぞ」
夏侯覇は一瞬険しい顔つきになったが、すぐに一礼して従った。
あとからおれもついていったが、悪い予感しかしなかった。
屋敷に着いてすぐ、おれはいても立ってもいられず、夏侯覇の前にひざまずいた。夏侯覇がぎょっとしたが、彼にどう思われるかなどどうでもよくなっていた。
「曹竜は……曹青は、どうしていますか。殺されたのですか。教えてください。どうか、どうか」
すると夏侯覇はとたんに眉目をぎりっと逆立て、おれを怒鳴りつけた。
「曹氏の者の名を、口にするな!」
おれの膝から下は凍りついたように動かない。腹のあたりが突然すぽっと押し抜かれたようだ。
姜将軍はおれをにらみつけた。
「思遠将軍、落ち着きなされ。さあ離れて」
おれは仕方なく膝をついたまま下がった。声が喉にはりついて出そうにない。
姜将軍がまず夏侯覇を椅子に座らせる。そして拱手し、深々と頭を下げた。
「将軍のご勇名はここ蜀漢でも高く、こうして仲間として同席できますこと、それがし本心より喜びを感じておりまする」
夏侯覇の眉目が一瞬、平静であろう時の位置に戻る。
「まずはお召し物をお取り替えにななりませぬか。それがしの衣服でよろしければすぐにご用意できまするゆえ」
夏侯覇は姜将軍から目をそむけた。口調はいくらか落ち着きを取り戻している。
「いや。このままで結構」
「では、それがしからいくつかお伺いしてもよろしいか」
「何をお聞きになりたいのか」
「現在、魏の帝はご健在か」
「健在だ」
「実権は司馬懿が握っていると?」
「その通りだ」
「では、朝臣にはもう、夏侯将軍のお身内はおられない?」
夏侯覇はおれをじろっと横目でにらんだ。おれは怖くなってあとずさりしようとしたが、体はどこも動かない。
「その若者が口にした者たちならいる」
姜将軍がおれを冷ややかな目で見やる。
「先ほど口になされた者たちの名を、もう一度お聞かせください」
おれは口だけ動かした。声が出ない。二人はにらんでいる。やっと、しぼり出した。
「曹竜と曹青」
夏侯覇が憎々しげに吐き捨てる。
「そやつらだ。司馬懿の犬ども。その父親どももそうだ。まったく、失望した」
曹竜と曹青は――生きている! おれは突然、怖さを感じなくなった。
姜将軍はおれを疑う。
「何ゆえ曹魏の者をご存じなのですか」
おれはあくまでも低姿勢に答える。
「その者たちが、父の陣に、忍んでいたからでございます」
夏侯覇が目玉をむき出した。
「そういえばあやつら、我らからはぐれて、蜀の陣に迷い込んでいた」
姜将軍はますますおれを疑う。
「お父上はご存じだったのですか」
おれは下を向いたまま答える。
「はい。それがしにそやつらを見張らせておりました。父が亡くなったあと、そやつらは陣から消えました」
夏侯覇がおれにぐっと怒りの目を据え、恨みを垂れ流すように語り出した。
「曹竜と曹青は二人とも今、虎豹騎だ。現におれが敗れたのは、やつらによってなのだ」
おれは笑いたくなった。なぜって、生きているんだ、曹竜と曹青が! おれの友だちが!
ゆるんだ口元を見られないようにおれは下を向いたまま黙り込む。
姜将軍が夏侯覇に向かって口を開いた。
「虎豹騎とは、帝の身辺を守る精鋭と聞いているのだが」
「ああ」
「その者たちを司馬懿は差し向けたと」
「そうだ。しかもやつらの父親たちまで戦場に来た」
「父親たちとは」
「おれの従兄弟たちだ。曹青の父親が曹飛将。魏軍最強の弓騎兵を率いた男といえばわかるか」
「わかる。あれには手こずった」
「やつの父親が曹洪。かつて董卓追撃の際に敗れた武祖曹操を救った男だ」
「聞いたことがある」
「そして今、曹操といったが、曹竜の父親がなんとその、曹操の隠し子李暁雲なのだ」
おれは思わず顔を上げた。
曹竜の父親が曹操の隠し子ということは、曹竜のじい様が魏国を築いた曹操その人ということだ。
姜将軍はしばらく考え、そして言った。
「つまり司馬懿は、曹氏直系の若者を手中に収めたということか」
「それは少し違う。曹青と曹竜はその父親ともども、司馬懿と共に戦った。つまり自らの意志で従っている」
「この先、我らの脅威となるか」
「まだ若いが、いずれそうなるだろう」
「曹飛将と李暁雲は今どうしている」
「虎豹騎と事を構える前、二人揃っておれのもとへ来たよ。思いとどまるようにとな。おれはさんざんにののしった。おまえたちには曹氏としての誇りがないのかと。これでは司馬懿の犬になりさがったも同然ではないかと。飛将は笑ってこう言ったよ。そもそも曹氏の国などもうどこにもないのだとね。現に今の帝は先帝の実子ではないし、曹爽の父親曹真とてもともとは他家の生まれなのだからと。しかし曹操の築いた魏国は依然としてそこにある。それを守るには、曹操と志を同じくしていればよいのだと。李暁雲も言ったな。父曹操は血筋や家柄よりも、その人が何をできるか、どんな志を持っているかに重きを置いたのだと。だから共に曹操が築いた国を育てていこうとな。おれはそれを聞いて悟ったよ。もう魏国におれの居場所はないのだとね。結局司馬懿が政務の中心にいて、武祖の隠し子とその孫がそれを追認しているのだから。つまりはいずれ司馬氏が魏国を乗っ取る道筋が敷かれたのだから」
夏侯覇は自らをあざ笑う。
姜将軍はいささか興ざめしたように目を伏せ、頭を横に振った。
「しかし夏侯将軍。あなたはもう我が国の将なのだ。今さら棄てた国の行く末を嘆いても仕方あるまい」
「辛辣だな」
姜将軍は突如として宣言した。
「それがしは今後、諸葛公の遺志を引き継ぎ、北伐を再開いたす」
その言葉に、夏侯覇もおれも驚いて姜将軍に視線を奪われた。
姜将軍は整った眉目でおれたちを見据える。
「北伐を再開いたす」
姜将軍は夏侯覇を視線で刺した。
「曹竜、曹青の他に、脅威となる可能性のある若い官吏はいるのか」
夏侯覇は姜将軍を正面から見て答える。
「徐覇。五子良将、徐晃の孫だ。祖父の再来と言われている」
夏侯覇の口調はさっきとは打って変わってきびきびしたものになった。どうやら不満を垂れ流すのはやめにしたらしい。
「ああ、あの大斧を振り回す命知らずの若造か」
「しかし馬鹿ではない。祖父よりは頭が軟らかく人当たりも良い」
「他には」
「鍾会あざな士季」
「初めて聞く名だ」
「まだ数えで二十八なのだが、位は高い。もしもやつが朝政の中心となったならば、呉や蜀の官吏どもは枕を高くしては寝られまい」
「それほどの人物か」
「能力は高いが、人心をどこまで掌握しうるかはまだ読めぬ」
「うらやましい。素直にそう思う」
姜将軍は卓の角を挟んで腰かけた。夏侯覇から見れば斜め右の位置になる。
夏侯覇がいくぶん眉目をやわらげる。
「蜀には人材が育っておらぬのか」
「その通りだ。先ほど貴公には不愉快な思いをさせたが、曹竜たちに匹敵しうるのはこの思遠将軍くらいだ」
夏侯覇がおれをすまなそうに見る。
「先ほどの振る舞い、謝罪いたす」
おれはまだこの人に心を開けそうになかったが、仕方なく謝罪を受けることにし
た。これ以上この人との間柄をややこしいものにしたくない。
「それがしの方こそ失礼をいたしました」
姜将軍は腕組みをしてうつむいた。
「我が国の領土は狭い。山々が囲み川も多い。先帝が攻め寄せる以前は他国から攻撃されたことすらなかった。この恵まれた地形で人民は安寧をむさぼっている。人民だけではない。丞相が襄陽から連れてきた文官たちもだ。だからこそこの国には新たな道しるべが必要なのだ。その道しるべこそが漢室復興と洛陽奪還なのだ」
丞相とは、おれの父上の最後の官職だ。
おれは思う。確かにこの二つは父上がいつも口になさっていた言葉だった。父上が苦労していることはまだ小さかったおれにも充分に見て取れた。
でも姜将軍はどうだろうか。おれはこの人がどうしても好きになれないでいる。さっきの言葉から考えると、姜将軍はご自分が功績を立てたいからそうおっしゃっているのではなかろうか。父上は「道しるべ」なんて言葉、口にしなかった。
それに、陛下はほんとうに、漢室を復興し洛陽を曹魏から奪い返すなんてことを望んでおられるのだろうか。
もうすでに先帝、陛下と皇帝を称しているのだから、漢室は復興しているはずなのだ。それに五年前に曹魏に勝ってから、いくさのない世がようやく蜀に訪れたのだ。 このまま安寧をむさぼって何が悪いのだろう。
陛下はとても穏やかな方だ。おれにとっては義理の父親でもある。陛下のことを愚かだとか、鈍いとか言う人たちもいるけど、陛下はきちんとこの国のことを考えている。
そうでなかったらおれや劉施の前でこんなことを言わないはずだ。
「私などいてもいなくても同じではないか。私は持ち込まれた書に印璽を押すだけだ。しかし私のような者でも蜀漢の皇帝としてここにいるだけで民草の支柱となれると、丞相は言ってくれた。それがどれほど私の支えとなっただろう」
父上は、優しい人だった。智謀ばかりが語られるけど、人を見た目や経歴だけで判断しなかった。だけどその優しさは、細かさや慎重さにもつながった。特に北伐では、魏延とぶつかった。ほんとうは魏延に言い返したいことだってたくさんあったはずだ。でも父上は我慢した。我慢しすぎたあまり、体を壊した。
「おお、よく参ったのう」
陛下はにっこりなさって、おれの息子つまりご自身の孫を抱き上げた。
おれの息子の名は諸葛尚。数えで三つになる。おれも「父上」になったんだなあ。
「さて、じいは父上と話があるゆえ、あちらでお祖母様に顔を見せておいで」
「はい」
尚はかわいらしい声で返事をし、劉施と手をつないで奥へ向かった。
陛下はおれに笑顔を向ける。
「大きくなったなあ、尚は」
おれも笑顔で答える。
「はい、おかげさまで」
陛下は柔和な顔のまま仰せになる。
「姜維と費禕がずいぶんと言い争っておったな」
姜将軍が大軍を要請した件だ。
「ええ。それがしは何もできませなんだ」
「誰であろうが収められなかったであろうよ。費禕が必死で止めておったが、姜維ときたら聞く耳を持たぬ」
陛下は外を見た。
緑の山々がそびえ立つ。曇った空は蜀ではいつものことだ。
一羽の鳥が空をゆっくりと旋回する。
鳥に視線を当てたまま陛下はつぶやいた。
「結局一万の兵をもって、雍州へ攻め上がるそうな。また民草に苦難を強いることになってしまった」
鳥と、陛下。一羽と、一人。
「姜維は勝てぬ。あれは一人ですべてを行おうとしすぎる」
常日頃おれが思っていることを、陛下が言葉にしてくださった。
陛下がおっしゃった通りになった。姜将軍は魏と戦っても、勝利を得ることができなかった。
しかし延熙十六年(二五三)に費禕どのは魏から降った郭循に殺される。
姜将軍を止める人は、これでいなくなった。
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