第4話 五丈原の青空

 結論から先に言うと、おれが曹青と徐覇に話したかったことは、すべて孔明が言ってくれた。

 要するに、どんな理由でもいいから、おれたちが蜀軍から出ることを孔明が許せばよかったのだ。

 孔明だって早く勝敗を決したいはずなんだ。さっきおれたちに孔明が話したように、通ってきた領土を蜀の領土にしたいなら、屯田を早く進めたいはずだからだ。屯田とは兵たちを家族ごとその土地に住まわせ、畑を作らせ、耕させることだから。

 魏延が魏に投降しようとしていたことは初耳だった。けれどそれでおれも思いついた。魏延を魏軍につれていく役目を買って出る。孔明には魏延の後ろから攻めてもらう。孔明と魏軍とで魏延を挟み撃ちにする。孔明に話すことはここまで。

 うまくすればおれたちは魏軍に戻れるし、魏軍は孔明たちを破る。

 でも、おれは少し残念だった。

 なぜなら目の前でうまそうに汁を飲む諸葛瞻と、ながの別れになるからだ。

 こいつはなぜか憎めない。こいつが孔明に拾われる前どうしていたかも、はっきり聞いていない。民家に一人でいたというけど、なぜ一人になったかも聞かないままだ。 それから、なぜ、わざと声が出ないふりをしていたのかも。

 孔明がおれたちを見てしみじみと語る。

「瞻は声を出せないだけで、他は何でもうまくできた。できすぎて、おとなになってから逆に持てる力を伸ばせないのではないのかと、私は気が気でなかった」

 諸葛瞻ときたら、あごを上げて唇を突き出し、おれたちを見下ろしてやがる。「どうだ、おれさまはすごいだろう」とその目が言っている。

 こいつのいやらしいところは、孔明の目を盗んでそんな顔を見せているところだ。それを証拠に孔明が目線を向けると、とたんに真顔に戻る。

「また、戻ってくるの」

 かわいらしい声がおれたちに刺さる。

 おれ、曹青、徐覇は、申し合わせたように箸を止めた。

 そういえばこいつに、おれたちはほんとうの名前を明かしていない。嘘をついたまま別れることになる。

 孔明がしんみりした口調で諸葛瞻に言った。

「敵陣へゆくのだ。使者は斬り捨てられることもある。それゆえこれが共にとる最後の夕げだと思いなさい。彼らだけではない。人は誰でも、生きて明日も会えるなどとは夢にも考えてはならぬ。人とはそういうものなのだから」

 諸葛瞻は不思議そうに孔明を見上げる。

「何ゆえ父上はそのようにお考えになるのですか」

「私は大切な人たちとこれまでおおぜい死に別れてきたからだよ。士元。孝直。ひげどの。益徳どの。黄将軍。先の帝。孟起どの。子龍どの。……私は……生き長らえてしまった。私だけが、生き残ってしまった」

 孔明は遠くを見ている。

 これが、おれたちの敵なのか。

 おれたちと、同じじゃないか。

 だいじな人を亡くした。しかもその人たちを忘れていない。毎日務めをする。飯を食う。笑う。困る。考える。

 みんな、みんな、おれたちと同じじゃないか。

 その人たちを、おれは今、だまそうとしている。

 下を向いたおれを曹青がつつく。やっと聞き取れるくらいの声で言った。

「どうした。気を抜くなよ」

 おれは気を取り直し、器に残った汁を飲んだ。そして孔明に聞いた。

「いつ出立すればよろしいですか」

「明朝すぐに。書簡や、聞かれそうな問答についてもすでにまとめてある。そなたたちはそれらを持ち、魏軍にたどり着くことだけを考えればよい。しかし通ってはならない所もある。それだけは守るように」

「通ってはならない所もあるとおおせですが、地図の上では谷は一本道でございました」

「魏軍を誘い込み、せん滅するためのしかけを設けている。それを指揮するのが馬岱だ。私からもおまえたちに谷の地図を渡す。そこに印をつけておく」

 やはりこいつは敵なのだ。おれたちはどんな犠牲を払ってでも仲達どのにこのことを伝えなければならない。

 曹青が言葉をついだ。

「我々のあとから魏将軍が谷へ入られるとのことですが、魏軍に巻き込まれる恐れがありはしませんか」

「文長にもしかけについて話しておく」

 食事が済み、孔明のもとを辞する時、諸葛瞻がとことこと近づいた。

「死なないといいね」

 おれは何も言えなかった。


 明朝、約束通りにおれたちは孔明の幕舎に出向いた。書簡や問答集を受け取り、通ってはいけない場所の地図をもらう。

 孔明は早々と幕舎に戻った。残ったのは、諸葛瞻だけだ。

 おれは諸葛瞻の前に膝をつき、肩に手を乗せた。

「最後になるかもしれないから、話したい。いいかな」

「いいよ。父上はこのあとご典医に見ていただくから出てこないよ」

 曹青と徐覇も、諸葛瞻を見つめる。

「どこか、よくないのか」

「毎日薬湯を飲んでる」

 おれは意を決して告げた。

「ごめん。今まで、嘘をついていた。おれの名は曹竜。魏軍の武将曹暁雲の子だ」

 諸葛瞻が目を見開く。

 曹青と徐覇も膝をついた。

「おれは曹青。魏軍の弓騎兵を率いる曹飛将の子なんだ」

「おれは徐覇。魏軍の武将だった徐伯世がおれの父だ」

「そんなこと、おれに話していいの」

 諸葛瞻の顔と声は固い。それでもおれは声を励ました。

「嘘をついたまま別れたくないから」

 諸葛瞻はおれをじっと見た。

「じゃあおれも言うね。おれ、ほんとうは、魏の子供なんだ。父ちゃんと母ちゃんはひもじくて死んだ。弟も同じ。蜀軍が麦を刈り取ったから。もともと麦が育ちにくい年だったしね。生き残ったのはおれだけ。家の中でじっとしてたら父上が来た。蜀のえらいさんだってことは、着てる服とか、兵隊さんに持たせた旗からすぐにわかったよ。父上は魏のことをいろいろ聞いてきた。おれはだからしゃべらなかった。口だけ動かして、声は出さなかったんだ。弟が耳が聞こえなくて、いつもそうやっていたからね。それを続けていたら、父上も何も聞かなくなった」

「なんで声を出す気になったんだ」

「君たちとなら話してもいいと思えたから」

 おれたちははからずも、同じ国の子供だった。

 でも今、別れる。

 諸葛瞻は二歩下がった。おれの手はむなしく下がる。

 諸葛瞻が笑った。憎めない、かわいげのある顔になる。

「さよなら」

 おれは目頭が熱くなった。でも涙は見せない。見せるわけにはいかない。わざと笑顔を作って告げた。

「さよなら」

 中原のさよならは「再見」と書く。でももう「再び見える」ことはできない。

 曹青と徐覇も下を向いている。

「行くぞ」

 おれは曹青と徐覇に声を強めた。

「おう」

 二人は弱い声で答える。

 おれは馬に飛び乗った。曹青と徐覇も続く。

 おれたちは振り返らずに駆けた。


 谷を駆けるおれたちは妙なことに気がついた。

 曹青が言う。

「馬岱の兵は皆、谷の上にいるじゃないか」

 徐覇もちらりと目を谷にやる。

「あれ、材木かな。なんであんなにたくさん積み上げているんだろう」

 おれも石ころだらけの道に目をくれる。

「この道だって全然手をつけていないじゃないか。魏延、文句を言うだろうな」

 そこまで言って、はたと気づく。

「まさか孔明は、魏延にここで何かしようとしているのか?」

 曹青が応じた。

「魏軍をこの谷におびき寄せて滅ぼそうとしているのだよな。そこに魏延が来る。魏延は孔明と仲が悪くて、魏に降ろうとしている。だから魏延まで消そうという腹積もりじゃないか」

 徐覇が馬を急かす。

「それならなおさら早く仲達どのにこのことを伝えなければ共倒れになる」

 石ころだらけだけど、馬はなんとか通れる。おれたちは寝ずに駆けた。


 魏軍の陣に着いた。

「何やつだ?」

 見張りの兵がおれたちに槍の穂先を向ける。

 曹青、徐覇と目を合わせ、おれが大声を上げた。

「曹竜でございまする! ただ今帰還いたしました!」

 曹青と徐覇も名乗る。

 ところが見張りの兵はおれたちを知らなかった。

「我が軍の兵である証はあるか?」

 曹青が強く言葉を発する。

「本陣へお連れくださいませ! さすればわかりまする!」

「おい、誰か上の方へ問い合わせてこい」

 おれたちは入り口で足止めされている間、兵の尋問を受けた。

 徐覇が一生懸命弁明する。

「先のいくさにて虎豹騎の曹飛将将軍とはぐれ申しました。それから蜀軍に忍び込んでおりました」

「ますます怪しいな。蜀軍に忍んでいただと?まさかおぬしら、蜀軍の回し者ではあるまいな?」

 おれたちは声を揃えた。

「滅相もございませぬ!」

 そこへ若い将軍が二人やってきた。

 大きな鋭い目、高い鼻の方がいきなり叫んだ。

「飛将将軍のご子息!」

 さっき叫んだ方よりは優しげな顔立ちをした方がぽつりと言う。

「暁雲将軍の息子さんに、伯世将軍の息子さんもいる」

 叫んだ方が見張りの兵を叱り飛ばした。

「おまえたちッ、何と無礼な! 将軍らのご子息のお顔くらい、とくと覚えておけい!」

 とたんに兵たちがおれたちに土下座する。

「お許しくださりませ!」

 優しげな方が叱り飛ばした方の袖を引く。

「松、早く連れてってあげようよ」

「そうだな、柏。さあ、ご子息がた、参りましょう。お父上がたがご心配なされておいでですよ」

 おれはその二人に名前を尋ねた。

 大きな鋭い目の方が笑顔で名乗る。

「雷松あざな子堅と申します。飛将将軍の従卒を務めておりました」

 優しげな方は静かに告げた。

「雷柏あざな子清。雷松の弟です。暁雲将軍の従卒でした。おれと兄は弓騎兵です」

 おれたちはやっと父上たちに会うことができた。


 父上と飛将のおじ上はおれたちを見るなり笑い出した。

「よく生きて帰って来たなあ」と父上。

「ほんと、ぼくたちの子供だよね。徐覇はさすが伯世どのの息子だねえ」と飛将のおじ上。

 笑っているのは父上とおじ上飛将のだけじゃない。夏侯仲権将軍、張俊英将軍、司馬子元どのと子尚どの、仲達どのがおれたちを見てにやにやしている。

 仲達どのがおれたちの前に来た。おれたちは立ったまま向かい合っている。

「蜀軍に忍んでおったそうだな。何を見て参ったか聞かせてくれ」

 おれは孔明が持たせた書簡や問答集をすべて、曹青は孔明の服や佩玉から作った女ものの服や首飾りを、仲達どのに渡した。

 そして話した。魏延が魏軍へ投降しようと考えていること。谷で魏軍と魏延を滅ぼそうとしていること。孔明がどんなささいな訴えでも真面目に聞いていること。そして医師に毎日見てもらっている上、薬湯を飲んでいること。

 それでも諸葛瞻のことだけは言えなかった。あいつにはもう会うことはないだろうけど、生きていてほしかったからだ。もし孔明の子供がついてきているとわかれば、殺されるかもしれないからだ。

 仲達どのは短いあごひげをしごきながら言った。

「つまり孔明は可能な限り早く我々に打ち勝ち、この魏の領土を支配したいということか」

 曹青がうなずく。

「ご推察の通りでございまする」

「その谷には材木が積んであるそうだな、徐覇?」

「はい、谷の上にありました」

「恐らくは火攻めを企んでおるのだろうて。魏延もろとも我らを焼き殺すつもりなのだろう」

「谷のしかけを任されたのは馬岱です」

 おれが言うと仲達どのはひげをしごく手を止めた。

「馬岱のしたことにするつもりだろうな。魏延を焼き殺したは馬岱のしわざ、しかし魏軍を焼き殺したは馬岱の手柄。それに魏延が我が方へ降りたいとするなら、こちらへ使いをよこすはず。使いが来ればあの谷を通らずに蜀軍の本陣への道を案内させよう。来なければ我らはここで待つだけだ。どのみち谷に入れば焼き殺されるのだからな」

 魏延は来なかった。谷では何も起こらなかった。


 司馬子尚どのがおれと父上の幕舎に来ている。ちょうど飛将のおじ上と曹青、徐覇もいて、おれたちは飯を食っていた。

 一緒にお椀から飯をかきこみ、子尚どのがのんきに一人言を言う。

「孔明を打ちに行かないのですかと、今日も父上は突き上げられていたなあ」

 飛将のおじ上は汁を飲み干して答える。

「仲権だろ、どうせ」

 父上は食べ終わり、揃えた箸を置いた。

「妙才将軍の仇を取りたいのだろう」

 子尚どのがほほえみ、しみじみした調子で語りだした。

「おれ、武祖様に憧れているんですよ」

 父上と飛将のおじ上が同時に子尚どのに目を向ける。尋ねたのは父上だ。

「なぜですか」

 子尚どのはよくぞ聞いてくれたと笑顔になる。

「すごいじゃありませんか。あのいくさの中で帝を擁して戦い抜いて王にまでのぼったんですよ。しかも最後まで丞相の任もやりとげた。おれもそうなりたいなあ。ま、こんなことを言うと、必ず父上から、寝言は寝てから言うものだとたしなめられるのですがね」

 父上と飛将のおじ上は苦笑いを浮かべた。父上が言う。

「今の言葉を聞けば笑うと思いますよ、武祖は」

「おれは学問も武芸も人並みにしかできない。だから余計憧れるのだと思うのです。あの方はすごい。少しでも近づきたい」

 飛将のおじ上は誇らしげだ。

「子尚どの。ぼくも孟徳のおじ上が大好きでしたよ。ぼくが今こうしているのは、孟徳のおじ上のおかげです」

「飛将将軍や暁雲将軍のご活躍にも胸を躍らせたものです。子廉将軍も、儁乂将軍も、その他の武祖様の将軍がたも、ほんとうに立派であられた」

 子尚どのはにこりと笑い、空いたお椀を箸と一緒に持って立ち上がる。

 そこへ声がした。

「子尚。やはりここであったか」

「あれっ、父上ではございませぬか」

「声が大きいわい。――どれ、お邪魔いたす」

 仲達どのが入り口の幕を上げて入ってきた。その後ろには医師がいる。薬草のにおいがおれたちの方にまで漂ってくる。

「暁雲将軍、飛将将軍。ご子息がたをお借りしてもよろしいですか。ちと確かめたきことがございますゆえ」

 父上が眉間に縦じわを刻む。

「どのようなことでしょうか」

「孔明が飲んでいたという薬湯に用いるであろう薬草の見当をつけ、医師に依頼して調合してもろうたのです。このにおいで間違いないか、確かめとうございます」

 父上に呼ばれて、おれは医師の前に行った。医師が薬草の入った鉢をおれの鼻先に差し出す。

 おれは答える。

「もう少しにおいがきつかったように記憶しております」

 医師が木でできた手提げ箱から薬草を出し、別の鉢に入れてすりこぎですりつぶした。それをおれにかがせた乳鉢に入れ、軽く混ぜる。

 おれは即座に言った。

「間違いございません、このにおいです」

 仲達どのと医師は互いを見て、得たりとうなずいた。医師がおれたち全員に聞こえるように言う。

「これは重い病人のための調合でございます。これを服するようになれば、命は近いうちに尽きるものと存じます」

「そこで、曹竜、曹青、徐覇に頼みたい」

 仲達どのがずいと身を乗り出す。

「また孔明の陣へ戻ってくれぬか」

 おれ、曹青、徐覇は「えっ」と声を上げる。

 仲達どのがたたみかける。

「孔明の死を見届け、我らに知らせてくれ。それだけではない。孔明に伝えよ。魏延はすでに我らと内応していると。これで蜀軍は確実に乱れる。我らを追撃できぬはずだ」

 おれの頭に真っ先に浮かんだのは諸葛瞻だ。あいつにまた嘘をつくのか。

 ほんとうはやりたくない。でもやらなければいくさは終わらない。

 曹青と徐覇に目を合わせた。二人とも息ができないという顔をしている。

 でも、おれは魏軍の兵だ。返事は決まっている。

 おれは仲達どのに正対し、きっぱりと言った。

「参ります」

 曹青と徐覇も声を合わせる。

「行って参ります」

 仲達どのが幕舎の床――地面にひざまずき、両手をついて訴えた。

「暁雲将軍。飛将将軍。ご子息がたの働きが必要なのです。是非ともお許し願いたい」

 父上と飛将のおじ上は笑い、言った。

「どうぞいかようにもお使いください」

「かたじけない」

 仲達どのが額を地面にすりつけた。


「必ず生きて帰って参るのだぞ」

 仲達どのはおれの手を力強く握った。そのあとで曹青、徐覇の手もがっちりと握る。おれは仲達どのに告げた。

「お約束いたします」

「打ち合わせ通り言うだけでよいのだからな。それからこれを」

 言って仲達どのはおれに黄色い紙で包んだ細長い物と、火打ち石を手渡した。

「孔明が死ねば、これに火をつけて空へ投げろ」

 おれたちは谷を通らずに孔明の陣に駆け戻った。

 蜀軍の陣は、おれたちが出た時と同じだった。何一つ変わっていない。

 おれたちを魏延の部隊にいる任政が見つけ、走ってきた。

「どこに行っていたのだ。丞相に呼ばれたきり戻らないから探しに行ったのだぞ」

 曹青が答える。

「実はこれから丞相の陣屋にうかがわなくてはなりませぬ」

「わかった。すぐに戻れよ」

 徐覇が任政にそれとなく尋ねる。

「魏将軍はいかがお過ごしですか」

 任政はおれたちをかき集め、小声で答えた。

「かんかんだよ。おまえたちにじゃなくて、馬将軍と丞相に。魏軍に攻撃すると命令がくだって谷を進んだんだ。そしたら材木が上から落っこちて、あやうく魏将軍に当たるところだったんだ。そこでたまたま馬将軍が兵たちを指揮して工事に当たっておられたものだから、おれを殺す気か、さては丞相から言い含められたなと馬将軍を呼びつけた。馬将軍もそんなはずなかろうといきり立ち、大喧嘩だよ。すぐに陣に戻って魏将軍は丞相にみんなの前で詰め寄って大変だった。丞相は何もおっしゃらなかったけどね」

 だから魏延は谷から抜けてこなかったのだ。火攻めすらできなかった。おれは任政に言った。

「申し訳ありません、丞相からすみやかに戻るよう言われておりますので」

 孔明は幕舎の外にいた。諸葛瞻をかたわらに置いて、青い空を見上げている。

「あっ」

 気づいた諸葛瞻が声を上げる。小さな手をいっぱいに開いて、馬から下りたおれに駆け寄り、抱きついた。

 おれも諸葛瞻を抱きしめる。曹青と徐覇がおれと諸葛瞻をぎゅうっと包む。

「生きて帰って来てくれたんだね」

 かわいげのある高い声を詰まらせる諸葛瞻のところへ、孔明がほほえみながら、ゆっくりと歩み寄った。

「ご苦労だった。瞻は、そなたたちのことばかり私に話していた」

 おれはすかさず声をひそめる。

「丞相。お耳に入れたきことがございます」

 孔明がおれの肩に手を乗せて諸葛瞻たちに背を向ける。おれたちは青空の下、歩きながら話した。

「実は、見てしまったのです」

「何を見たのだ、王竜」

「魏延の使いと申す兵が、魏軍の陣屋にこっそり入るところを」

 これこそが仲達どのの策だ。仲達どのはおれたちに言った。

 ――それだけ孔明の耳に入れればよい。それだけでよいのだ。

 孔明は足を止めた。

 そして青空を見上げる。

「悠々としているな」

 おれも一緒に空を見上げた。

 雲はない。ただただ濃い青色がおれと孔明の上にある。

「この空に果てはあると思うか、王竜?」

「大地の線から下には空は見えませぬ」

「私はいつも空を見てはそんなことを考えている子供だった」

 孔明は泣きそうな顔でおれにほほえむ。

「この地を何というか知っているか」

「いえ。知りませぬ」

 これが曹青なら、すぐに答えるのだろうな。

「五丈原だ」

 孔明はきびすを返した。

「魏延の陣には戻らず、瞻といてくれないか。あの子はそなたたちといると笑顔になる」

「しかしその他に我々は何をいたせばよろしいでしょうか」

「何も。瞻といてくれればよい。これからもずっと友だちとして。魏延には私から話しておく」

 そんな約束はできないのに。あなたが死ねば、おれたちは魏軍に戻るのに。

 おれはもう一度空を見上げた。

 すると突然孔明が草むらに倒れた。

「丞相!」

 おれの大声に諸葛瞻、曹青、徐覇が駆けつける。

 孔明の顔を見る。真っ白だ。

「ご典医を呼んでくる!」

 諸葛瞻が一目散に走っていった。

 孔明は目を覚まさない。

「板持ってこい!」

 曹青が叫ぶ。

 おれと徐覇が走り、孔明の幕舎の入り口に立つ兵にわけを話し、四人がかりで背の高い孔明が乗せられるような板を持って走る。

 諸葛瞻とご典医が駆けつけた。

 すぐに孔明を板に乗せて幕舎に入れる。

 寝床に寝かせたあと脈を見たご典医が、せっぱつまった様子でおれたちに告げた。

「脈が弱い。すぐにご家来衆をお呼びしてくれ」

 おれは諸葛瞻に聞いた。

「誰を呼べばいい?」

「楊長史と費司馬、姜護軍。魏延は呼ばない方がいい。父上が危ないと知れば勝手をするから。手分けしよう」

 おれと徐覇、諸葛瞻は三手に走った。曹青が孔明に付き添う。

 おれは楊儀を、徐覇は費禕を、諸葛瞻は姜維を連れて来る。

 三人が枕元にかじりつくと、孔明は薄くまぶたを開けた。

 孔明の口が動く。三人が耳を寄せ、しばらくそのままでいる。

 おれたちは固唾を飲んで見守った。孔明が亡くなれば、おれたちは魏軍に知らせるべくあの黄色い包みに火をつけて空へ投げ上げる。

 三人がぶつかり合いながら地面に倒れ伏した。大の男三人が、声を放って泣いている。

 諸葛瞻はおれたちを見た。その目に涙はない。おれたちに歩み寄り、小さな声で尋ねる。

「魏軍に知らせるの」

 おれは諸葛瞻の目をまっすぐに見てうなずく。

 諸葛瞻は数えで八つとは思えない冷静な表情と声でおれたちに言った。

「なら早く行って」

 おれも前みたいに涙を流すことはなかった。今度こそほんとうにさよならするからだ。

 おれと諸葛瞻は悲しみも寂しさもない乾いた声で別れを告げあった。

「元気でな、諸葛瞻」

「そっちもね、曹竜、曹青、徐覇」

 同じ国に生まれたけど今は敵同士の国の子供となったおれたち四人は、ひたと互いを見合った。

 振り返らずに幕舎を出る。乗ってきた馬をつないだ所まで走る。もうすぐ日が暮れる。

 おれが懐から取り出した黄色い包みに、曹青が火打ち石で起こした火をつける。徐霸が空高く投げ上げた。

 黄色い包みが高く乾いた音と共に弾けた。光と煙が四方八方に散る。

 おれたちは馬に乗り、蜀軍の陣から脱け出した。


 魏軍が風を切る。

 土煙を上げ、たいまつをかかげ、薄暗がりに旗をひるがえし、蜀軍の陣に突っ込む。

 おれたちが最初に出会ったのは、父上と飛将のおじ上の従卒を務めていた雷子堅どのと雷子清どのだ。虎豹騎の先頭を駆けている。このことから先手を引き受けたのは弓騎兵だとわかる。

 雷子堅どのが顔いっぱいに笑みを広げる。

「ご子息がた!」

 雷子清どのがやわらかい声で教えてくれた。

「お父上がたもすぐにお見えになりますよ」

 すぐに父上と飛将のおじ上が現れた。父上がおれに笑う。

「生きていたな」

「はい、生きて帰って参りました」

 飛将のおじ上も曹青と徐覇にほほえむ。

「無事だったようだね」

「無事帰還いたしました」と曹青。

「ご心配をおかけしました」と徐覇。

 飛将のおじ上が鋭い両目を蜀軍の陣に向ける。

「行こう。今度こそ彼らを倒す」



 ところが蜀軍の陣はからっぽだった。幕舎もかまどもそのまま、しんと静まり返っている。

 あとから来た仲達どのは誰一人いない陣を見渡して言った。

「見事だ。これ以上は追撃できまい」

 そして藍色の夜空を見上げる。

「しかし種は曹竜にまいてもらった。あとはそれが芽を出すのを待つだけだ」

 種とは、魏延がおれたち魏軍と通じたという嘘を指している。

 孔明がいまわのきわに楊儀や費禕、姜維に何を告げたのか、おれにはわからなかった。三人が頭を寄せ合っていたので、孔明の口元を見ることができなかったからだ。

 孔明のことだ。魏延を始末せよと、誰かに命をくだしているに違いない。

 顧たち間者に蜀軍を追わせ、仲達どのは全軍に引き揚げを命じた。

「魏延はどうせ長生きはできなかろうて。しかし孔明の遺体が葬られるまでは油断ができぬ」

 顧たちが戻るのを待つためもあり、おれたちはゆるゆると洛陽を目指した。


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